詩人PIKKIのひとこと日記&詩

すっかりブログを放任中だった。
詩と辛らつ日記を・・

恋に疲れたり、恋のトキメキを忘れた人には最適の映画かも?

2007年03月29日 | Weblog
その映画の名はー
「ニノの空ー幸せ探しの旅日記」。音楽が素晴らしかったので☆五つ。

1997年の全然フランス映画らしくないフランス映画だ。
途中までずっとスペイン映画かイタリア映画だと思って観ていた。

さすがに1998年セザール賞最優秀音楽賞を取っただけはあると納得だった。
見終わった後に、なんだか無性に、恋をしたくなってくる気持ちにさせられた映画だったナー

『スウェーデンに学ぶ「持続可能な社会」』小澤徳太郎(朝日新聞社)読了

2007年03月28日 | Weblog
ヨーロッパの「辺境」に位置するこの国は、21世紀の日本にとって最も重要な指針を指し示していると思った。
詳しくはまた次の機会に。

《数百万年の人類の歴史のなかで経済規模は大きく拡大し、社会も大きく変化しましたが、けっして忘れてならないことは、「人間が生きる生存条件は、数百万年前といささかも変わらない」ことです。》

《科学者の役割は、事態があまり深刻にならないうちに事実を指摘することにある。
・・・・・・・
政治家の役割は、科学的な判断に基づいて政策を実行することにある。
その最も具体的な表現は、政府の予算だ。政策の意図が政府の予算編成に反映されることが必要だ。》

その点日本は、ほとんどの税金が、何の存在価値もないどころか・・むしろ↓のような禄でもないことばかりをやる文部科学省のような官庁や、従来の利権構造を隠蔽するための税金ネコババ伏魔殿のような○○法人や軍事費や国民の言論弾圧のための組織のために・・
大半の血税が使われてしまうという実に情けない有様となっている。

かつては世界一の環境保護と資源リサイクルのエコ社会だった江戸時代や・・
つい最近までの平和憲法に基づくいて、世界中から尊敬され、セイフティネットや人権保護も充実し、公害防止&閑居保護先進国だった社会への復帰こそが急務なのではないだろうか?


滅びゆく世界

2007年03月26日 | Weblog
操り人形たちの跳梁跋扈よ
いったいどの地点まで
我々の滅びの刻は
近づいてしまったのだろうか

誰が誰をあやつり
誰の意図が
誰の糸とからみあい
誰が誰を貪り食らい・・

いったいどんな理由で
切り株だらけの野山や
風ばかりが吹き過ぎてゆく都市の廃墟や
餓死してゆく子供たちや
「リストラ」で刈り採られゆく首や
レイプされた女たちの血みどろの下着や
荒野ばかりの世界となってしまったのか
あんなにも美しかったこの緑の世界が・・

いったいぼくらの
どこまでが操り人形で 
いったいどこからが
ぼくらは人間だというのか

どこまでが法治国家で 
どこからが
税金ネコババ三文役者どもの
喜劇的劇場だというのか・・

ぽたぽたと
額に落ちくる雫のどこまでが
日々新たに作られつつある劇薬であり
どこからが
ぼくらの流した
熱い血の総量だというのか

日本支配層の狙いはー

2007年03月26日 | Weblog
より一層の税金ネコババや私利私欲で懐を肥やすというよりも・・もっともっと根深く、裏があるのではないかと思う。

それはひと言で言うならばー徹底的な日本人や日本の自然や日本文化の破壊なのではないかと思う。
アメリカにすでに見捨てられてしまった事を、やっと認めざるを得なくなった彼らにとって、彼らの利権や彼らの特権を生き延びさせる道はもはや・・
戦前のような官僚独裁と国民の奴隷化による言論弾圧の戦時体制独裁国家だという結論が、安倍晋三や石原慎太郎によるような徹底的な弱者と言論の抹殺のような印象だ。

もはや夢見る時代をとっくに過ぎてしまった日本人は、最後の決断を迫られている。
ひたすらに、アメリカや官僚主導政官財税金ネコババ構造での家畜として生き延びさせてもらうのか・・
それとも、さらに経済的には困難かもしれないが・・従来のような世界から尊敬される、平和憲法に基づく平和と自由と人権に価値を置く国であり続けるのか・・という。

ムー大陸の所在位置と「アイヌの世界観」山田孝子(講談社選集)

2007年03月25日 | Weblog
日本列島の約半分(北海道・北日本)と樺太・千島列島の先住民族だったアイヌ民族についての本を一冊だけあげたら・・と聞かれたら、僕は躊躇無くこの本を推薦したい。

アイヌ民族についての歴史以外のあらゆる分野が過不足無く言及されている。
とりわけその宗教観・世界観は懇切丁寧だ。
特に僕が興味深かったのは、ニブヒという北樺太や黒龍江流域に住む古アジア諸語形民族との世界観や熊祭等の類似点だ。

アイヌの伝承にもーアイヌはもともとはカムチャカ半島に住んでいた民族が、北海道へと南下してきて、そこで日本人と混血したのだという伝承が残っている。
これは、日本人の共通の先祖&共通の文化・文明というべき縄文人の成立過程とも同一なのではと思う。

そして、一万数千年間の縄文時代にも存在し続けた中部地方を境界とする東西差の理由としてはー
「ムー大陸」とでも呼ぶべきスンダ大陸(氷河時代に大陸状態だった東南アジアから華南にかけての氷河時代の最先端文明地帯)からの文明・文化と・・
後に、蝦夷やアイヌ民族として・・世界最古の土器と日本海交易圏(南島の貝と黒曜石主体の)とを2本の柱とする縄文文明・文化を今日まで伝えてきた・・新大陸やシベリア・ヨーロッパ先住民(ケルト等)とも共通する北方古モンゴロイドとの文明・文化とが、日本列島で出会って数千年間かけて熟成されてきたのが縄文文明・文化だったのではないかと思う。
それゆえに日本列島は、世界中のあらゆる文明・文化との共通性をもつという稀有の普遍性を持ち続けてきたのではないかと思う。

動物文学の最高傑作!「野生の呼び声」ジャック・ロンドン

2007年03月25日 | Weblog
犬に関しての本としても、「世界の中心で愛を叫ぶ」というSFと双璧ではないかと思った。

特に「十代の若者たちに読んで欲しい本100冊」を選ぶなら・・真っ先に挙げたい本だ。
それほど、十九世紀末のアラスカのゴールドラッシュについての貴重な記録でもあると思う。

この本の他に、僕が100冊に選ぶ日本文学はー
現在に近い順からー
中沢新一「カイエ・ソバージュ全5巻」、谷川健一「日本の神々」、浅田次郎「プリズンホテル」、ヤン・ソギル「夜を賭けて」、司馬遼太郎「坂の上の雲」、山本周五郎「さぶ」、山之口獏詩集、坂口安吾「(題名度忘れ・・・歴史物)、宮沢賢治「銀河鉄道の夜」、柳田國男、南方熊楠、夏目漱石、正岡子規・・

他の作家にはない批評眼のようなものが判断基準になってるのかもしれないナー

世界よ ー操り人形たちの跳梁跋扈するー

2007年03月24日 | Weblog
いったい
誰が誰をあやつり
誰の意図が
誰の糸とからみあい

切り株だらけの野山と
刈り取られた首ばかりの世界

いったい
どこまでが人形で 
どこからが人間だというのか
どこまでが法治国家で 
どこからが
三文役者どもの劇場だというのか

ぽたぽたと
顔に落ちくる雫の
いったいどこまでが劇薬であり
どこからが
ぼくらの流しつつある
血の総量だというのか

「日本の神々」(谷川健一)についてー

2007年03月20日 | Weblog
少し前の日記でも書いたけど、柳田国男が「山宮考」(昭和21年)で初めて問題提起して、谷川健一がさらにそれを発展させた内容が正しいのではと思う。

《柳田が「山宮考」で主張しようとしているのは、祖先の葬地の山ふところや谷あいで営まれる山宮祭が、氏神祭のもとの型ではないかということである・・
山宮祭が祖先を葬った場所でおこなわれ、氏神祭もそれと多くの共通した面を有するという事実は、もっとも素朴で古型を残す祭と死者はつながっているという事実の指摘でもある。
それは死穢を極端に忌避する神道の観念が、決して原初的な祭の姿を継承したものでなく、後代の作為であるということの証拠でもある。》(「日本の神々」より)

《ただ民間の世界においては原初の思想は生きつづけている。南島のウタキやグスク、種子島のガロー山、薩摩のモイドン、対馬のヤボサやシゲチ、若狭大島のニソの杜などは、祭場と葬所が一致するか、そうでなくても、至って近い距離に両者が並び存する例である。
これらは日本の祭の古型を残しているという点で、厳めしい社殿をもつ神社よりもむしろ、重要な存在であるといわねばならない。》(同上)

葬儀と誕生とが古代では、逆のベクトルを持つ同じような「再生」という風に考えられていたのではないかと思われる。
何故なら、この世での死はあの世での「再生」であり、この世での誕生はあの世からの「再生」であると・・古代日本人が考えていたのではないかと思われるからだ。
神や霊についての考え方が、古代日本人とアイヌ民族とでほとんど同一なのを考慮すると(僕の「シャーマン」のページを参照)ー
この世とあの世とが相似的な構造で共存しつつ、正反対の意味を持っている・・というアイヌの宗教観でもって、古代日本人の宗教観や慣習をも推理可能ではないかと思う。

《常宮で聞いた話だが、渚のそばに産屋をたてて、砂の上で子を産むのを、地元の人はまるで海亀のようだと話し合ったという・・
産屋の砂の呪力は海亀や鮫が海神の使いとしてあがめられていた時代の記憶の名残りである。それはウブスナ神として、赤子の一生を見守る守護神となり、守護霊となった。砂が護符として大切にされることになった淵源は深いのである。》(同上)

出産や葬儀の後に、その後を取り払ったり燃やしたりするという「ウブスナ」「祭場と葬地」「神社の原型」の章を是非参照してもらいたい。これらは、アイヌの死者の家を燃やすという慣習にも通じるものではないかと思う。

それと、古代史サイト「神奈備掲示板」で現在話題になってい古代日本や少し前の日本各地に多い・・出産の際に箒神と便所神とが立ち会うといわれる伝承についてはー
《お産の時、えんこ(大便)垂れることは、なにも珍しいことでないよ。難産で時間がかかる時なんか、まず垂れること多いよ。》(「アイヌお産婆ちゃんのウパシクマ」より)
という事実を反映したものではないかと思う。
この本は是非とも産婦人科&小児科関係の医療関係者に読んでもらって、医療事故を少しでも減らすだけの価値のある本だと思う。

「従軍慰安婦」問題についてー

2007年03月19日 | Weblog
米国で民主党が議会での多数派になってから、米国での追求が厳しいようだ。
戦犯の中の戦犯ー祖父岸信介を尊敬し、戦前の日本を「美しい国」の理想としているらしい安倍首相はその否定に躍起みたいだけど・・
アメリカにとってのかつての位置に中国が取って代わったということを、安倍首相は完全に認識誤認していたようだ。
日本はもはやアメリカにとって、英国やイスラエルのように
利用し尽くしたらポイ捨てする多くの国のひとつでしかない。

上記の議論の前提として、戦前の日本がどのような国だったの知識が不可欠なのではないかと思う。
僕が重要と考えるのはー
日露戦争後の軍人による強姦等で軍にの性病が蔓延したことへの対策として(日清戦争までの日本軍は欧米軍とは一線を画していたらしが)・・
そのころの日本を支配していた陸軍では、軍自らが「従軍慰安婦」を奨励したという歴史的事実があり、「慰安所」が軍隊とともに移動したという多くの歴史的事実がある。

また民衆レベルでは、江戸時代以来の娘を売るというような事が日常茶飯事だったという。
その頃日本の植民地だった朝鮮半島に関してはー
関東大震災直後に、国家権力の側から流された流言蜚語(「朝鮮人が井戸に毒を投げ入れた」「武装蜂起した」・・)のために、自警団の検問等で殴り殺された朝鮮半島人や中国人やドモリや方言方言のきつさで彼らに間違われて虐殺された約一万人という近代日本史上最大の汚点というべき事実がある。

さらに僕の故郷の北海道ではー
「タコ」(騙されて強制労働の飯場に連れてこられた日本人)のように騙されて来た朝鮮半島人や強制的に連行されてきた朝鮮半島人や中国人も多かったという。
彼らが脱走すると・・犬を使って追いかけ、見せしめのために嬲り殺しにしたという。
祖母の話では、ほとんどの道産子は脱走した彼らを助けたという。
祖母自身も、戦後逃亡してきた朝鮮半島人に食料をあげたといっていた。すぐ後に、捕まって素っ裸にされて数珠繋ぎに縄で縛られて、町中を引きずりまわされて暴力を振るわれていたのは・・あまりにもむごかったという話を祖母から聞いたことがある。

いくら自分達が生まれる前の戦前や、戦後直後の話なんだといっても・・被害者の側にとっては、とうてい納得がいかないのではないかと思う。
僕を含めて戦前の日本がどんな国であり、日本人がどんな事をやってきたのかは、現在では本を読んだり、体験者の話に謙虚に耳を傾けるしかないのではないかと思う。

そんな意味でとても貴重なのは、僕のリンク集にあるnaoji2さんのような数少ないひとびとの貴重な体験談ではないかと思う。
井上やすし「東京セブンローズ」という抱腹絶倒の喜劇もまた・

スミレの花咲く頃

2007年03月16日 | Weblog
スミレの花咲く頃には
決まって思い出す
夢のような町がある

あれが初恋だったのだと
今ごろになって思いだす
君の振り返った戸惑いの表情

「詩を作ってるんだ」という僕に
「こんど見せてね」と微笑んだ君

スミレの花咲く頃
決まって思いだす君がいる
もはや鎮魂歌となってしまった
あの頃の詩といっしょに・・

赤椀の世直し(古代史)掲示板を読んで考えた事

2007年03月15日 | Weblog
僕の「よく漂流するリンク集」中ほどにある沖縄出身の古代史研究家のサイトですが・・

古代の貝の装身具(イモガイ製貝輪は北海道伊達市の遺跡からも発掘されているし・・
それ以前の縄文時代には黒曜石矢尻と共にシベリアとの貴重な交易品)が太陽信仰に関係しているのではないかという書き込みを読んでふと思ったのだが・・

天皇制の三種の神器の鏡・勾玉・剣等はそれ以前の縄文時代の信仰の換骨奪胎や変形なのかもしれないナーと思う。
蛇信仰を受け継ぐ神奈備という蛇がとぐろを巻いた形の山への信仰もまた。銅鐸もたぶんシャーマンの儀式の際に使われたものだろうと思う。

そしてそれはズバリと言ってー
シベリアのシャーマンが光り輝き、音の鳴るものを体中につけて踊るのを見るにつけても、シャーマンの儀式に起源があるのではないかと思う。

全くの独断と偏見で言うと、勾玉は再生のイメージが強い蛇や胎児を連想させられるし・・鏡は、沖縄での太陽信仰や東北・北海道での日高見国や伊勢等の冬至の太陽を弓で射て太陽の再生を祝う祭を連想させられる。
鏡もまた吉野裕子氏の本にあったように、蛇や蛇の光り輝く目を「カガミ」と呼んだ例から推測するに、蛇信仰の名残なのかもしれないナと思う。

剣についてはー台湾先住民や東南アジアの蛇をかたどったという蛇行剣や、沖縄のシャーマンのユタ等が持って歩き霊がそこに降臨するというススキや、同様に神が天から降臨するという御柱等の神聖な柱や、東北や古代日本のシャーマンのイタコの梓弓や・・古代の金属加工者たちの信仰もまた連想させられる。

それらについての、系統だった研究によって縄文時代の信仰のいったいどの部分・・、どのような地方に、どのような形で残ったのかを調べることが急務ではないかと思う。
そしてそれらが特に濃厚に残ったのが、沖縄やアイヌ民族であり、古代日本でもあったとおもうのだが・・

日本一のアナーキスト詩人を目指す僕の最も好きな詩

2007年03月15日 | Weblog
   反対  金子光晴

ぼくは少年の頃
学校に反対だった
ぼくは、いままた
働くことに反対だ

僕はだいいち、健康とか
正義とかが大嫌いなのだ
健康で正しいほど
人間を無情にするものはない

むろん、やまと魂は反対だ
義理人情も反吐がでる
いつの政府も反対であり
文壇画壇にも尻をむけている

何しに生まれてきたと問わるれば
躊躇なく答えよう
反対しにと
僕は、東にいる時は
西に行きたいと思ひ

着物は左前、靴は左右
袴はうしろまえ
馬には尻をむいて乗る
人の嫌がるものこそ、僕の好物
とりわけ嫌いは、気のそろうことだ

僕は信じる
反対こそ、人生で
ただ一つ立派なことだ
反対こそ、生きていることだ
反対こそ、自分をつかむことだ

中心と辺境 清浄と不浄 聖と賤

2007年03月14日 | Weblog
天皇制でもそうであったが・・
身分制度や官僚制度や宗教等いうあらゆるピラミッド型のシステムは、差別によって成立しているのではないかと思う。
影や下層や差別される側の存在が、いよいよ悲惨で貧困であるほど、ピラミッド上の存在が光り輝いてくるのだろうと思う。

最近特に顕著なー安倍内閣による地方行革による清掃・給食員等が高給すぎるのではという地方行革等の地方叩きや弱者・下層叩きが意図するものもまたそれではないかと思う。
地方公共団自治体での談合・汚職等はむしろ、中央政府からの補助金・天下り等でそのような体質にさせられた被害者と言うべきではないかと思う。

そんな事よりも大問題なのはーそのようなシステムの元凶の、税金の半分以上が闇へと消えてゆく・・現在の官僚支配と天下り・談合による政官財の癒着した構造と、地方切捨てによる地方のより一層の衰退の方ではないかと思う。

国会議員なども諸経費を含めると一議員あたり年間二億円という税金が必要なのだという。
国民に手本を示すべき彼らのうちの何人が、それに見合った働きをし、我々国民からの血税からの援助に感謝しているのだろうか?

地方自治体の経費削減や現業労働者の給料が高すぎるので民間委託しろ・・等という前に、中央での高給官僚の天下りや利権の巣窟と化し税金の大半が霧散している○○法人というのをなんとしろ!
税金泥棒政治家どもよ・・と言いたい
野良猫だってこの寒風の中、必死で生きているんだぞ!

傷跡

2007年03月11日 | Weblog
身体の傷跡みたいに
こころの傷跡は
おいそれとは姿をあらわさないから・・

こころはいつも 孤独に
何もかもを吸い上げては
樹液のような言葉だけを送り出す
シュレジンガーの子猫みたいに
いると思うといなくて
いないと思うといるような存在だから・・

ひとつの物語が終わり
無数の新しい物語が
すでに始まっている

立ち上がったからといって
歩き出さなければいけない訳じゃない
拳を振り上げたからといって
破壊しなければならない訳じゃない

「いじめ」から連想する「忍辱」という言葉

2007年03月05日 | Weblog
オウム真理教の広告塔的な存在だった上祐氏がとうとう袂を別ったらしい。
オウム真理教の闇の解明は、顧問弁護士を冤罪で刑務所に放り込んだり、麻原教祖の死刑を急いだりという国家権力のために・・永遠に閉ざされてしまったようだ。

オウム真理教という・・あちこちの宗教からいいとこ取りして、簡単にマスターできるようにした新興宗教のキーワードの一つに、この「忍辱」というー辱めを忍び、他人のさげすみの視線に耐えるーと言う言葉があったように記憶している。

仏教の場合この「忍辱」という概念は、非常に重要な修行の目的のひとつであり・・現代日本庶民の間では消滅してしまった言葉だが、江戸時代ならば普通の庶民にもなじみ深い言葉だったのではないかと思う。
この原因としてはー乞食の境涯に身を落としてまでも親や主君の敵を討つという事が奨励され、忠臣蔵や曾我物語等の敵討ち物語がもてはやされた封建時代の倫理観と関係があるのかもしれない。
「リア王」を読んでいても、このテーマはかなり重要な伏線をなしていたように思う。

それでは、なぜ僕が「いじめ」から「忍辱」を連想したかというとー
現代日本でのいじめのルーツだと僕が思う企業の「リストラ」等においても、その対象をいかに孤立させ、辱め、無力して・・自殺や退職に追い込むかという構造が教育現場での「いじめ」と全く同じ構造なのではないかと思ったのだった。

これはクーンツやケッチャムという米国ホラー作家や、ナチスの強制収容所での数百万人のユダヤ人虐殺においても同様に、主要なテーマだったのではないかと思う。

ひとつだけ言うならば、この問題は一般的な日本人には全く未知の分野であり、それに対する抵抗力というものをほとんど持ってはいないので・・素人があれこれ言うよりも、専門家の助言や知識が必要なのではないかと思う。
あらゆる分野で、実践的な専門家の育成や、社会貢献という志に燃えるNGO&NPOへの社会的なバックアップこそが、現在の日本で早急に求められているものなのではないだろうか。

現在はそうではなくても、誰もがいつなん時、天災・事故・病気・リストラ等で弱者となり差別を受ける可能性があるのだし・・いつかは誰もが淋しい老人の境遇となり、死んでゆかなけばならないのだし・・
日本で今後ますます、差別されつつある女性や障害者や低学歴者や高齢者や低収入者の問題は、誰もが自分や家族の問題として、いずれは向き合わなければならない問題なのではないかと思う。