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果報は寝て待て!

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義仲の足跡を辿る2<倶利伽羅峠①>

2005年09月20日 | 平家物語-木曽義仲関連
今回は,木曽義仲が火牛の計で平維盛軍を破ったことで有名な,倶利伽羅峠をご紹介します。

倶利伽羅峠は,富山県小矢部市と石川県河北郡津幡町とに跨った砺波山界隈の一帯に位置します。

今から約1300年ほど前,元正天皇の時代にこの地で国土安穏を祈願した際,不動明王像が残され,そのまた約100年後,弘法大師がこの地に訪れ,新たに「剣に黒い龍の巻きついた不動」(=倶利伽羅不動)尊像を彫り,安置したことから,この地が倶利伽羅峠と称されることになったようです。


↑倶利伽羅不動尊

古い時代から交通の要所であった倶利伽羅峠ですが,現在でも昔ながらの街道が,「ふるさと歩道」として残され,ちょっとした(というよりは健脚向きか?)ハイキングコースとなっています(といっても,ワタシは今回レンタカー使っちゃいましたけど…^^;)


さて,倶利伽羅峠の小矢部市側からの玄関「埴生口」には,埴生護国八幡宮が鎮座しております。
八幡宮の鳥居の前には,馬に乗った勇ましい義仲様の像が立っており,参拝者を迎えてくれます。


↑埴生護国八幡宮前の木曽義仲像


この八幡宮,古くは大伴家持が越中国守として赴任した際に,国家安寧を祈願したとも伝えられる歴史あるもので,社殿は国の重要文化財に指定されています。



↑埴生護国八幡宮

平家物語によれば,越後国府(現,上越市付近)にいた義仲は,平家軍が加賀国篠原(現,加賀市)に陣を敷いたと聞き及び,軍を7手に分け,義仲本隊は埴生の地に向かったとあります。
なお,源平盛衰記など他の文献によれば,敵側の動きを掴んだのは倶利伽羅にほど近い六動寺国府であるとしています。

これから大戦をせんとしている中,たまたま陣を敷いたところに,戦勝の御利益のある八幡様があったことに,義仲はたいへん喜びました。
この際,せっかくなので戦勝祈願をしていこう!と,義仲は参謀である大夫房覚明に,願書を書かせました。いわゆる「木曽願書」です。

平家物語巻第七「願書」の章の一節
「木曾は羽丹生に陣とって,四方をきっと見まはせば,夏山の嶺のみどりの木の間よりあけの玉垣ほの見えて,かたそぎ作りの社あり。前に鳥居ぞたったりける。木曾殿,国の案内者を召して,「あれは,いづれの宮と申すぞ。いかなる神を崇奉ぞ」。「八幡でましまし候。やがて此所は八幡の御領で候」と申す。木曾大に悦んで,手書に具せられたる大夫房覚明を召して,……(覚明は),木曾殿の御前に畏って願書をかく。」
(岩波文庫「平家物語(三)」より)

ちなみにこの覚明,もともと南都興福寺の僧でしたが,以仁王の反乱の際,三井寺から興福寺にされた応援要請に対し,その返事を覚明が書くことになり,そこに思いっきり「清盛は平氏のカス,武家のゴミだ」と書いたために,身の危険を感じ,義仲のところへ逃げてきたというエピソードをもつ,ある意味すごい人です^^;

本題に戻り,木曽願書を掻い摘んで要約すると,
万民を苦しめている平家を倒そうと,兵を挙げましたが,これは自分のためではなく,国のため君のためにしたことです。なにとぞ戦勝のご加護がありますように。
といった感じでしょうか。
この願書を宝殿に納めたとき,吉兆の意味する山鳩3羽が現れて,源氏の白旗の上を飛び回ったとのことです。

戦闘準備も整い,いよいよ砺波山での戦闘,世に言う倶利伽羅峠の戦いが幕を開けます。

<倶利伽羅峠②>に続く





義仲の足跡を辿る1<嵐山町>

2005年09月18日 | 平家物語-木曽義仲関連
↑義仲誕生の地碑(班溪寺前)


本日はワタクシめの○○回目の生誕記念日でございますヽ(´▽`)ノ
今後もネタが続く限り(!?)ブログ書くぞ~!!


さて,前シリーズ「義仲の里を歩く」では,木曽義仲の育った日義村の史蹟をご紹介しましたが,今シリーズにおいては,ワタシが歩き回ってきた義仲にまつわるさまざまな史蹟を,ワタシの拙い知識とともにご紹介していきます。
第1回目は,義仲の出生の地,埼玉県比企郡嵐山町をご紹介します。


嵐山町は埼玉県のほぼ中心部に位置します。
現在でも過度の都市化を免れ,嵐山渓谷など自然が残る美しい町です。


さて,時代は平安時代末期の1153年,木曽義仲の父である源義賢は,帯刀先生(東宮御所の警護をする武士の長)のポストを辞した後,現在の嵐山町大蔵地区に,広大な館(通称「大蔵館」)を構えました。
その広さは,東西約200メートル,南北約220メートルにも及んだそうです。
現在でも,堀や土塁の一部が残されています。
現在大蔵神社が建っている小高い丘のあたりに,この「大蔵館」の中核があったとされています。


↑大蔵神社


義賢は,館近くの鎌形地区(現,班溪寺の辺り)に愛妾小枝を住まわせ,1154年,二人の間に一人の男児が生まれました。
名は駒王丸,後の木曽義仲です。
鎌形地区にある鎌形八幡神社には,義仲の産湯に汲んだとされる清水が湧いてます。


↑鎌形八幡神社


ところで,義賢が帯刀先生という高ポストを退いてまで関東に下ってきたのは,義賢の兄義朝と,父為義との対立に起因することが大きいようです。
当時義朝は,長男である義平を鎌倉に住まわせ,着々と勢力を広げていました。
義朝が今後何をしでかすかわからないと恐れた為義は,それを抑止せんと,義賢を関東に派遣したのです。
ただ,保元の乱の3年も前から,朝廷の勢力関係により為義親子が振り回されていたというのもなんとなく腑に落ちませんが…ひょっとすると単なる左遷だったのかもしれません^^;

そんな背景の中,義平は,目の上のたんこぶである叔父義賢を撃つべく,1155年,大蔵館に夜襲をかけました(大蔵の戦い)。
一族はことごとく討死。義賢も非業の死を遂げ,駒王丸も命の危険にさらされました。

そのとき,駒王丸と母小枝御前を脱出させたのが義平の配下である畠山重能斎藤実盛でした。

義賢の正妻は畠山氏から嫁いできていました。そんなことからも,重能も義賢とはゆかりの深い関係だったに違いありません。
時代の流れに逆らえなかったとはいえ,重能はこの母子を不憫に思ったのでしょう。
重能は年長者である実盛を頼りに,混乱に乗じて駒王丸らを救出。
実盛は,自分の屋敷に駒王丸らを7日間かくまった後,信濃国の中原兼遠の下へ逃がしたのでした。
駒王丸は元服までの間,兼遠の館のある現木曽福島町で暮らすことになります。

平家物語巻第六「廻文」の章では,このことを次のとおり記してあります。
「父義方は,久寿二年八月十六日,鎌倉の悪源太義平が為に誅せらる。其時義仲二歳なりしを,母なくなくかかへて,信乃へ越え,木曾中三兼遠がもとにゆき,「是いかにもしてそだてて,人になして見せたまへ」と言ひければ,兼遠うけとって,かひがひしう廿余年養育す。」
(岩波文庫「平家物語(二)」より)

大蔵の戦いにおいて義仲の命を救った斎藤実盛,畠山重能ではありますが,平治の乱後以降,長年平家方に仕えてきた彼らは最後まで源氏方につくことを潔しとせず,後々義仲戦場で相まみえることとなります。運命とは皮肉なものですね

一方,大蔵の戦いで名を上げた義平は,以後悪源太義平と呼ばれ,世に名を轟かせることになります。


ちなみに,義仲には兄仲家がいました。
大蔵の戦いの際,仲家がどのようにして落ち延びたのかは勉強不足のワタシの知るところではありませんが,思うに上記畠山,斎藤らがなんとかしたんでしょうね。
その後孤児となっていたのを,源三位頼政が引き取り養子にしたことが,平家物語に記されています。
しかし,残念ながら頼政挙兵の時,宇治の戦いにおいて討死しました。

平家物語巻第四「宮御最期」の記述です。
「この仲家と申は,故帯刀の先生義方が嫡子也。みなし子にてありしを,三位入道養子にして不便にし給ひしが,日来の契を変ぜず,一所にて死ににけるこそむざんなれ。」
(岩波文庫「平家物語(二)」より)

嵐山町のホームページはこちらをクリック










義仲の里を歩く~その8~ あとがき

2005年09月02日 | 平家物語-木曽義仲関連
7回にわたって、長野県日義村の義仲にまつわる史跡をご紹介して参りましたが、最後に、今回の旅の雑談で締めたいと思います。

今回の旅は、東京からの日帰り強行日程でした

八王子から8:33発のスーパーあずさに乗れれば、塩尻で中央西線の中津川行き各駅停車に待ち時間10分程度で乗り換えることができますが、乗るべきのあずさ号を誤ると、塩尻で1時間以上待ちぼうけを食らわされますので注意。
予定どおりにいけば、11時半前には目的地宮ノ越に到達できます

今回ご紹介した順番で歩けば、だいたい3時間もあれば十分史跡を見て回れます。
実際,どんな感じの道程なのかは,日義村さんのHPに,義仲史跡めぐりマップがありますので,後記のサイトを参考にすれば良いかと思います。

宮ノ越駅には特急しなの号は停車せず、帰りの電車は1~2時間に1本の各駅停車を待つ必要があるので、時刻表はしっかりチェックしておいたほうがよいでしょう。
時間帯によっては、特急電車の停車する木曽福島(中津川方面に2つ先)まで逆送し、そこから特急電車で塩尻方面に戻った方が速く帰れる可能性があります(実際ワタシもそうして帰りました)。

今回は,宮ノ越駅を拠点に歩き回りましたが,さらに歩けば,お隣の原野駅にも,義仲の養父,中原兼遠のである林昌寺があったりしますので,時間の許す方は足を運んでみるのもよろしいかもしれません。

また,毎年8月14日は村の山吹山で,京都の大文字焼きに似たような松明祭「らっぽしょ」が行われます。
夜の山肌に赤く燃える「木」の字は,倶利伽羅の戦いにおける「火牛の計」を思わせる…などと案内には書いてありますが,ワタシも実際見たわけではないのでなんともコメントできませんが,昼には仮装行列もあるらしいので,いつかはこの祭を見てみたいですね


平家物語ほか様々な伝承からは,義仲に関しては,どちらかというと悪いイメージの方が強く受け取られがちですが,日義村を歩いてみると,実際に,村人の義仲を愛する気持ちがあちこちに見受けられ,伝承の中の義仲という虚像ではなく,純粋に生きた一人の人間としての義仲が,今でも日義村の中で生き続けているように思えました

日義村ホームページhttp://w2.avis.ne.jp/~hataage/





義仲の里を歩く~その7~ <旗挙八幡宮>

2005年09月01日 | 平家物語-木曽義仲関連

宮ノ越の地を時計回りにぐるっと一周してきましたが、いよいよ最後の場所となりました。
最後ご紹介する場所は、治承4年(1180年)、義仲が以仁王の令旨を受け、平家追討の旗挙げをしたと伝えられる旗挙八幡宮です。

このお社自体は新しく建て替えられていて、かつ小じんまりしているため、裏から見たときは民家かと思いましたが、八幡太郎義家の時代に石清水八幡宮から神様を勧請した、由緒正しい神社です

ただ、どちらかというと、この神社よりも、その脇にある大きなケヤキの木の方がインパクトがありました。
通称「義仲元服ケヤキ」という大木で、義仲が13才で前記八幡宮で元服した際、神社の拝殿脇に植えたとか、その前からあったとか、正確なことはわかりませんが、いずれにせよ樹齢千年の歴史を持つ巨木です


昔、落雷があり、無残な姿にはなってしまったものの、今もなお生きるその生命力にはただ驚嘆するばかりです

ちなみにこのあたりには、義仲の屋敷があったと伝えられ、現在では館の跡地に石碑が建てられています。

義仲のドラマはここから始まり、最期は悲劇の結末を迎えますが、後世の人々の心に義仲はずっと生き続ける…朽ち果てようとも今なおこの地に残る大ケヤキは、義仲の姿の現れなのかもしれませんね

次回、あとがきでシメます

義仲の里を歩く~その6~ <南宮神社>

2005年08月30日 | 平家物語-木曽義仲関連
涼しげな巴ヶ淵を離れて東へ歩くこと7~8分、炎天下の国道を経てたどり着いたのは、義仲が戦勝祈願をしたとされる南宮神社でした。
暑い日差しの中を歩き続けたせいもあるのか、この神社の境内にたどり着いたとき、それまでの外界と比べ、ひんやりとした空気がワタシの身体を包むのを感じました。
位置的に小高い山の北側に鎮座していることもあるのでしょうが、この冷感も、この神社の霊験の現れなのかなと、自分なりに勝手に解釈しました^^;

祭神は金山彦命。天照大神の兄神で,戦勝,富,安産,養蚕が専門分野とのこと

現地の説明板によると、このあたり一帯の地名「宮ノ越」は、南宮神社の中腹=宮の腰 というのが語源とのこと。
もとは美濃関ヶ原にあった南宮大社を、義仲が館を構えた折りに分祠し、こっちに持ってきてしまったみたいです。
現代で言えば、宝くじを当てるために、どこからか由緒ある大黒様を引っ張ってきたようなもんですかね…
確かにその後、義仲は宝くじに当たったような人生を送ったのですが…

次回<旗挙天満宮>につづく



義仲の里を歩く~その5~ <巴ヶ淵>

2005年08月30日 | 平家物語-木曽義仲関連
シリーズ第5回目は「巴ヶ淵」をご紹介します。

徳音寺から東方面に向かって歩くこと約15分、木曽川に架かる「巴橋」まで辿り着けば、その下はもう巴ヶ淵の界隈です。
断崖に木々が萌え、木曽川の流れがそれらを映し、美しく演出しています。紅葉シーズンなんかさぞかしキレイなんじゃないかなo(^-^)o

昔から、その付近は水流が渦を巻いていた場所らしく、伝説では、そこから現れた竜神が巴御前となって、後々まで義仲を助けたとのこと。
ホントに巴サマが竜神様であれば、巴サマ単身でも平家や頼朝軍を滅ぼせたのでは…などとつまらない詮索は止めましょう^^;

竜が巴になったというのは非現実的だとしても、巴はこの場所で、武芸の一環として泳ぎの訓練をしていたとも伝えられています。
アップしている写真でもご覧いただけると思いますが、この場所は崖の上から丸見えです。
絶世の美女とされる巴が、武芸鍛練とはいえ、川の淵で泳いでいるのです。
当時の村の男衆は競って覗きに来たのではないでしょうか?
まあ巴サマに見つかったら、平家物語にもあるように「首ねぢきられ」てしまうかもしれませんが…(>o<")

余談ですが、先にご紹介した義仲館で、義仲に関する江戸期の浮世絵を集めた本(800円)を購入したのですが、そこには巨大な岩石を持ち上げつつ、敵兵を踏み潰している巴の姿がっ!!Σ(;;・д・)ノ


さらに江戸時代の源平合戦の人気キャラクター番付によると、巴は弁慶の次くらいにランクインしてました(なぜか義仲は横綱でした…^^;)。
今も昔も、強く美しい女キャラ人気は変わらないですね

次回〈南宮神社〉につづく


義仲の里を歩く~その4~ <徳音寺②>

2005年08月29日 | 平家物語-木曽義仲関連
徳音寺の本堂の西側には、義仲の子孫義陳公の発願により,天明年間に建てられた霊廟があります。

中にはエンマ様のような義仲像が安置されていますが、案内板によるとこの木像は最近作られたものみたいです。
内部の天井には、地元の中学生たちが義仲の生涯を描いた絵で埋められているらしく、中に入って見てみたかったけど、必要以上にこの霊廟に近付けませんでした。なぜか?それは、霊廟の入口付近に巨大な蜂の巣が鎮座していたからでしたΣ(;;・д・)ノ

さらに寺内を進むと、一番奥に、義仲をはじめ、巴、今井四郎、樋口二郎、小枝御前の墓がありました。

もともと小枝御前の菩提を弔うために建てれれた徳音寺ですが、その後は義仲一族の菩提寺とされたため、各人のお墓もこの地に作られたのでしょう。
義仲、今井、樋口はご存知のとおり、男真っ盛りの30代で戦場に散りましたが、巴は「享年九十一」と札に書かれており、ずいぶんと長生きだったみたいですね。
更に興味を引いたのは、小枝御前の墓に、山吹が一緒に「義仲愛妾」として弔われていることでした(;゜゜)う~む…

ちなみに、徳音寺境内には付属施設として宣公郷土館という資料庫がありますが、見損ねてしまい残念(>_<)

次回<巴ヶ淵>につづく



義仲の里を歩く~その3~ <徳音寺①>

2005年08月29日 | 平家物語-木曽義仲関連
義仲館から北へ歩いて1~2分、義仲が母小枝御前の菩提を弔うために建立したとされる徳音寺があります。
村指定の文化財である鐘楼門をくぐると、まずお目にかかれるのが、子馬に乗った幼い頃の巴ちゃんのブロンズ像。
「乗ってる」というよりは「またがっている」と表現した方が合っているかもしれません^^
今に例えると、ちょうど自転車の特訓にあたるのかな?

巴像の対面には白い観音様がお立ちになっており、その周りは、徳音寺の住職さんが各地三十三ヵ所の霊場から集めてきた小石の入った硬化ガラスケースに取り囲まれています。そのケースを33個踏んでぐるっと観音様を一周すると、三十三ヵ所巡りをしたのと同じ御利益があるとのことなので、早速ワタシも実践しましたm(__)m 御利益あった気がする

次回<徳音寺②>につづく

義仲の里を歩く~その2~ <義仲館②>

2005年08月28日 | 平家物語-木曽義仲関連
館内に入ると,義仲,巴,その他今井四郎など四天王の等身大人形が出迎えてくれます。
「館内禁煙」とは書いてあったけど,「撮影厳禁」とは書いてなかった(と思う^^;)ので,人形の写真を撮ってきました。
巴人形が,どことなく酒井若菜っぽいのがいとおかしです
義仲人形は,大河「義経」で義仲役を演じていた小澤征悦氏になんとなく似ていましたが,ひょっとすると付け髭を付ければ誰でも似るのかな?
これらの人形の他に,新宮十郎が以仁王の令旨を,義仲らに対し読み上げている場面が再現されているものもありました。

館内の展示で,他ではお目にかかれないものとして目を引いたものに,木曽家の系図がありました。

ワタシはこれまで,義仲の子は,鎌倉へ人質として出された嫡子義高くんしかいないのかとばかり思っていましたが,展示されていた系図を見ると,義仲の子は,巴との間に義高のほか1人or2人,山吹との間に1人,藤原尹子(「新平家」では「冬姫」)との間に姫が1人おり,最後の姫鞠子は後に鎌倉摂家将軍の正室になっているとのこと。
そして,義高の弟にあたる義重が,戦乱から隠れて生き延びたため,木曽家は後々まで続いたようです。
なお,新平家に登場する葵御前に関する資料は見つかりませんでした(村内の橋の名前で「葵橋」っていうのはありましたケド…)
巴は義仲の妻であるとか妾であるとか諸説あり,また,山吹が正妻であるという説もあり,謎は未だ尽きることがありませんが,その辺の謎多きところも義仲のおもしろさの一つなのでしょう

ちなみに,館内に,年に一度行われる村のお祭り「らっぽしょ」でミス巴に選ばれた,歴代の美しいヨロイ姿のお姉様方の写真も並んでました
現地にてご確認あれ^^

次回<徳音寺①>につづく

義仲の里を歩く~その1~ <義仲館①>

2005年08月28日 | 平家物語-木曽義仲関連

ブログ投稿がだいぶご無沙汰になってしまいました(^^;)
現在放送されている「義経」とは別に,吉川英治さんの「新・平家物語」にはまっていたワタシですが,その小説の中でも木曽義仲については特段ドラマチックに描かれており,一度は義仲ゆかりの地めぐりをしたいと思ってはいたものの,このたびようやく義仲ゆかりの地ぶらり一人旅第1回目が実現しましたのでさっそく投稿です。
今回訪れた場所は,義仲が幼少から平家追討の挙兵まで暮らしていた長野県日義村です。JR塩尻駅から中央西線各駅停車で約40分「宮ノ越」駅で下車。無人駅で,駅の周りには店すら何もないところでした

まず訪れたのは,駅から北へ歩いて5分程度のところにある「義仲館」です。いわゆる義仲にまつわる資料を集めた歴史資料館です。入館料は300円とお手頃。中庭には,義仲と巴のプロンズ像が建っていました。 館内には義仲にまつわる文書や絵画などが多数展示されておりました。その中に,義仲が,大夫房覚明に書かせた,延暦寺への牒状の写しもありましたが,漢文能力のないワタシには読めませんでした

<義仲館②>につづく