今回は,木曽義仲が火牛の計で平維盛軍を破ったことで有名な,倶利伽羅峠をご紹介します。
倶利伽羅峠は,富山県小矢部市と石川県河北郡津幡町とに跨った砺波山界隈の一帯に位置します。
今から約1300年ほど前,元正天皇の時代にこの地で国土安穏を祈願した際,不動明王像が残され,そのまた約100年後,弘法大師がこの地に訪れ,新たに「剣に黒い龍の巻きついた不動」(=倶利伽羅不動)尊像を彫り,安置したことから,この地が倶利伽羅峠と称されることになったようです。

↑倶利伽羅不動尊
古い時代から交通の要所であった倶利伽羅峠ですが,現在でも昔ながらの街道が,「ふるさと歩道」として残され,ちょっとした(というよりは健脚向きか?)ハイキングコースとなっています(といっても,ワタシは今回レンタカー使っちゃいましたけど…^^;)
さて,倶利伽羅峠の小矢部市側からの玄関「埴生口」には,埴生護国八幡宮が鎮座しております。
八幡宮の鳥居の前には,馬に乗った勇ましい義仲様の像が立っており,参拝者を迎えてくれます。

↑埴生護国八幡宮前の木曽義仲像
この八幡宮,古くは大伴家持が越中国守として赴任した際に,国家安寧を祈願したとも伝えられる歴史あるもので,社殿は国の重要文化財に指定されています。

↑埴生護国八幡宮
平家物語によれば,越後国府(現,上越市付近)にいた義仲は,平家軍が加賀国篠原(現,加賀市)に陣を敷いたと聞き及び,軍を7手に分け,義仲本隊は埴生の地に向かったとあります。
なお,源平盛衰記など他の文献によれば,敵側の動きを掴んだのは倶利伽羅にほど近い六動寺国府であるとしています。
これから大戦をせんとしている中,たまたま陣を敷いたところに,戦勝の御利益のある八幡様があったことに,義仲はたいへん喜びました。
この際,せっかくなので戦勝祈願をしていこう!と,義仲は参謀である大夫房覚明に,願書を書かせました。いわゆる「木曽願書」です。
平家物語巻第七「願書」の章の一節
「木曾は羽丹生に陣とって,四方をきっと見まはせば,夏山の嶺のみどりの木の間よりあけの玉垣ほの見えて,かたそぎ作りの社あり。前に鳥居ぞたったりける。木曾殿,国の案内者を召して,「あれは,いづれの宮と申すぞ。いかなる神を崇奉ぞ」。「八幡でましまし候。やがて此所は八幡の御領で候」と申す。木曾大に悦んで,手書に具せられたる大夫房覚明を召して,……(覚明は),木曾殿の御前に畏って願書をかく。」
(岩波文庫「平家物語(三)」より)
ちなみにこの覚明,もともと南都興福寺の僧でしたが,以仁王の反乱の際,三井寺から興福寺にされた応援要請に対し,その返事を覚明が書くことになり,そこに思いっきり「清盛は平氏のカス,武家のゴミだ」と書いたために,身の危険を感じ,義仲のところへ逃げてきたというエピソードをもつ,ある意味すごい人です^^;
本題に戻り,木曽願書を掻い摘んで要約すると,
「万民を苦しめている平家を倒そうと,兵を挙げましたが,これは自分のためではなく,国のため君のためにしたことです。なにとぞ戦勝のご加護がありますように。」
といった感じでしょうか。
この願書を宝殿に納めたとき,吉兆の意味する山鳩3羽が現れて,源氏の白旗の上を飛び回ったとのことです。
戦闘準備も整い,いよいよ砺波山での戦闘,世に言う倶利伽羅峠の戦いが幕を開けます。
<倶利伽羅峠②>に続く

倶利伽羅峠は,富山県小矢部市と石川県河北郡津幡町とに跨った砺波山界隈の一帯に位置します。
今から約1300年ほど前,元正天皇の時代にこの地で国土安穏を祈願した際,不動明王像が残され,そのまた約100年後,弘法大師がこの地に訪れ,新たに「剣に黒い龍の巻きついた不動」(=倶利伽羅不動)尊像を彫り,安置したことから,この地が倶利伽羅峠と称されることになったようです。

↑倶利伽羅不動尊
古い時代から交通の要所であった倶利伽羅峠ですが,現在でも昔ながらの街道が,「ふるさと歩道」として残され,ちょっとした(というよりは健脚向きか?)ハイキングコースとなっています(といっても,ワタシは今回レンタカー使っちゃいましたけど…^^;)
さて,倶利伽羅峠の小矢部市側からの玄関「埴生口」には,埴生護国八幡宮が鎮座しております。
八幡宮の鳥居の前には,馬に乗った勇ましい義仲様の像が立っており,参拝者を迎えてくれます。

↑埴生護国八幡宮前の木曽義仲像
この八幡宮,古くは大伴家持が越中国守として赴任した際に,国家安寧を祈願したとも伝えられる歴史あるもので,社殿は国の重要文化財に指定されています。

↑埴生護国八幡宮
平家物語によれば,越後国府(現,上越市付近)にいた義仲は,平家軍が加賀国篠原(現,加賀市)に陣を敷いたと聞き及び,軍を7手に分け,義仲本隊は埴生の地に向かったとあります。
なお,源平盛衰記など他の文献によれば,敵側の動きを掴んだのは倶利伽羅にほど近い六動寺国府であるとしています。
これから大戦をせんとしている中,たまたま陣を敷いたところに,戦勝の御利益のある八幡様があったことに,義仲はたいへん喜びました。
この際,せっかくなので戦勝祈願をしていこう!と,義仲は参謀である大夫房覚明に,願書を書かせました。いわゆる「木曽願書」です。
平家物語巻第七「願書」の章の一節
「木曾は羽丹生に陣とって,四方をきっと見まはせば,夏山の嶺のみどりの木の間よりあけの玉垣ほの見えて,かたそぎ作りの社あり。前に鳥居ぞたったりける。木曾殿,国の案内者を召して,「あれは,いづれの宮と申すぞ。いかなる神を崇奉ぞ」。「八幡でましまし候。やがて此所は八幡の御領で候」と申す。木曾大に悦んで,手書に具せられたる大夫房覚明を召して,……(覚明は),木曾殿の御前に畏って願書をかく。」
(岩波文庫「平家物語(三)」より)
ちなみにこの覚明,もともと南都興福寺の僧でしたが,以仁王の反乱の際,三井寺から興福寺にされた応援要請に対し,その返事を覚明が書くことになり,そこに思いっきり「清盛は平氏のカス,武家のゴミだ」と書いたために,身の危険を感じ,義仲のところへ逃げてきたというエピソードをもつ,ある意味すごい人です^^;
本題に戻り,木曽願書を掻い摘んで要約すると,
「万民を苦しめている平家を倒そうと,兵を挙げましたが,これは自分のためではなく,国のため君のためにしたことです。なにとぞ戦勝のご加護がありますように。」
といった感じでしょうか。
この願書を宝殿に納めたとき,吉兆の意味する山鳩3羽が現れて,源氏の白旗の上を飛び回ったとのことです。
戦闘準備も整い,いよいよ砺波山での戦闘,世に言う倶利伽羅峠の戦いが幕を開けます。
<倶利伽羅峠②>に続く
