↑篠原古戦場跡碑
今回は,石川県加賀市における木曽義仲がらみの史蹟を,エピソード交えてご紹介します
前回,倶利伽羅峠をご紹介しましたが,倶利伽羅の戦いで敗れた平軍大将維盛は,軍を加賀国篠原(現,加賀市篠原町付近)まで退却させます。
勢いに乗った木曽勢は1183年5月21日早朝,篠原への追撃戦を開始しました。
しかし皮肉にも,迎え撃った平軍の中には,「義仲の足跡を辿る1」で紹介した,幼少の義仲を戦渦の大蔵から逃がした恩人,畠山重能と斎藤実盛が参戦していました。
彼らは平治の乱以降,平家に従い,以来20数年平家の武将として生きてきました。
木曽勢先鋒今井兼平300騎は,畠山重能とその弟小山田別当有重率いる平軍300騎と対決
双方多くの兵を失いましたが,軍配は今井兼平に上がり,畠山兄弟は撤退しました。
このことを,平家物語巻第七「篠原合戦」の章では次のとおり記しています。
「是等兄弟,三百余騎で陣のおもてにすすんだり。源氏の方より今井四郎兼平,三百余騎でうちむかふ。畠山・今井四郎,はじめは互に五騎,十騎づつ出しあはせて勝負をせさせ,後には両方乱あうてそたたかひける。五月廿一日午剋,草もゆるがず照す日に,我をとらじとたたかへば,遍身より汗出て,水を流すに異ならず。今井が方にも,兵おほくほろびにけり。畠山,家子・郎等残ずくなに討なされ,力およばでひきしりぞく。」
(「平家物語(三)」岩波文庫より)
この後平家都落ちの際,内大臣宗盛は,畠山兄弟が東国出身であり今後の敵となる可能性があることから,彼らの首を切ろうとしますが,新中納言知盛が
「この者たちを今更切って何になるというのか。彼らを生かしてこそ,後に都へ帰ることがあったときの温情となりましょう。なにとぞ彼らを故郷へ帰すことをお許しいただきたい。」
と懇願したことにより,無事生き長らえ,涙ながらに東国へ落ち延びていくのでした。
篠原の戦い形勢が不利になった平家勢の中からは,逃げ出す兵も多く現れ,もはや指揮系統もままならず,大部分の兵が落ちていきます。
そのような中で,一人毅然と木曽勢に立ち向かう男がいました。
彼こそが斎藤実盛でした。
齢70にもなるこの老兵は,去る富士川の戦いの際において討死覚悟で参戦しましたが,水鳥の羽音にパニックになった平軍が,戦わずして全軍敗退してしまったため,死に場所を失っただけでなく,未熟な平軍大将維盛をサポートする立場にありながら,結局何もできなかった自分に,これまでずっと屈辱を感じていました
今回の戦はまさに彼にとって,最後の晴舞台でした
彼は,もともと越前出身であったため,今回の北陸道一連の戦いでは故郷に錦を飾らんと,普通ならば大将クラスが着る赤地錦の鎧直垂を着用していました。
また,老兵と悟られると良い敵に相手にしてもらえないため,自らを若い姿に扮して戦いに臨みました。
まずは鎧。あえて若者に人気のある萌黄色の鎧を身に付けました。
次に髪と髭。既に白髪であった実盛は,髪と髭を黒く染めました。
この白髪染めをした際に使った鏡は,「加賀百万石時代村」のある近くの「鏡の池」という泉に沈められ,現存しています。
↑鏡の池
沈んでいる鏡は,年に一度の泉の掃除の際のみ拝めるそうですが,その鏡がホントに実盛の使ったものなのかどうかは定かではないそうです
この「鏡の池」,はっきりいって探すのにすごく苦労しました。
県道沿いからは見えず,裏道に入るのですが,その道がまた狭く,車では入りきれないので,近くの農協に車を置かせてもらって,細い住宅街を歩いてなんとかたどり着きました…
中途半端ですが,ここでいったん休憩
次回「加賀市②」では,さらに実盛を掘り下げていきます
さすが、せんせいです。初投稿です。どうぞよろしく!
ネタの続く限りがんばりますので,また遊びに来て下さいね~^^