↑義仲誕生の地碑(班溪寺前)
本日はワタクシめの○○回目の生誕記念日でございますヽ(´▽`)ノ
今後もネタが続く限り(!?)ブログ書くぞ~!!
さて,前シリーズ「義仲の里を歩く」では,木曽義仲の育った日義村の史蹟をご紹介しましたが,今シリーズにおいては,ワタシが歩き回ってきた義仲にまつわるさまざまな史蹟を,ワタシの拙い知識とともにご紹介していきます。
第1回目は,義仲の出生の地,埼玉県比企郡嵐山町をご紹介します。
嵐山町は埼玉県のほぼ中心部に位置します。
現在でも過度の都市化を免れ,嵐山渓谷など自然が残る美しい町です。
さて,時代は平安時代末期の1153年,木曽義仲の父である源義賢は,帯刀先生(東宮御所の警護をする武士の長)のポストを辞した後,現在の嵐山町大蔵地区に,広大な館(通称「大蔵館」)を構えました。
その広さは,東西約200メートル,南北約220メートルにも及んだそうです。
現在でも,堀や土塁の一部が残されています。
現在大蔵神社が建っている小高い丘のあたりに,この「大蔵館」の中核があったとされています。
↑大蔵神社
義賢は,館近くの鎌形地区(現,班溪寺の辺り)に愛妾小枝を住まわせ,1154年,二人の間に一人の男児が生まれました。
名は駒王丸,後の木曽義仲です。
鎌形地区にある鎌形八幡神社には,義仲の産湯に汲んだとされる清水が湧いてます。
↑鎌形八幡神社
ところで,義賢が帯刀先生という高ポストを退いてまで関東に下ってきたのは,義賢の兄義朝と,父為義との対立に起因することが大きいようです。
当時義朝は,長男である義平を鎌倉に住まわせ,着々と勢力を広げていました。
義朝が今後何をしでかすかわからないと恐れた為義は,それを抑止せんと,義賢を関東に派遣したのです。
ただ,保元の乱の3年も前から,朝廷の勢力関係により為義親子が振り回されていたというのもなんとなく腑に落ちませんが…ひょっとすると単なる左遷だったのかもしれません^^;
そんな背景の中,義平は,目の上のたんこぶである叔父義賢を撃つべく,1155年,大蔵館に夜襲をかけました(大蔵の戦い)。
一族はことごとく討死。義賢も非業の死を遂げ,駒王丸も命の危険にさらされました。
そのとき,駒王丸と母小枝御前を脱出させたのが義平の配下である畠山重能と斎藤実盛でした。
義賢の正妻は畠山氏から嫁いできていました。そんなことからも,重能も義賢とはゆかりの深い関係だったに違いありません。
時代の流れに逆らえなかったとはいえ,重能はこの母子を不憫に思ったのでしょう。
重能は年長者である実盛を頼りに,混乱に乗じて駒王丸らを救出。
実盛は,自分の屋敷に駒王丸らを7日間かくまった後,信濃国の中原兼遠の下へ逃がしたのでした。
駒王丸は元服までの間,兼遠の館のある現木曽福島町で暮らすことになります。
平家物語巻第六「廻文」の章では,このことを次のとおり記してあります。
「父義方は,久寿二年八月十六日,鎌倉の悪源太義平が為に誅せらる。其時義仲二歳なりしを,母なくなくかかへて,信乃へ越え,木曾中三兼遠がもとにゆき,「是いかにもしてそだてて,人になして見せたまへ」と言ひければ,兼遠うけとって,かひがひしう廿余年養育す。」
(岩波文庫「平家物語(二)」より)
大蔵の戦いにおいて義仲の命を救った斎藤実盛,畠山重能ではありますが,平治の乱後以降,長年平家方に仕えてきた彼らは最後まで源氏方につくことを潔しとせず,後々義仲戦場で相まみえることとなります。運命とは皮肉なものですね
一方,大蔵の戦いで名を上げた義平は,以後悪源太義平と呼ばれ,世に名を轟かせることになります。
ちなみに,義仲には兄仲家がいました。
大蔵の戦いの際,仲家がどのようにして落ち延びたのかは勉強不足のワタシの知るところではありませんが,思うに上記畠山,斎藤らがなんとかしたんでしょうね。
その後孤児となっていたのを,源三位頼政が引き取り養子にしたことが,平家物語に記されています。
しかし,残念ながら頼政挙兵の時,宇治の戦いにおいて討死しました。
平家物語巻第四「宮御最期」の記述です。
「この仲家と申は,故帯刀の先生義方が嫡子也。みなし子にてありしを,三位入道養子にして不便にし給ひしが,日来の契を変ぜず,一所にて死ににけるこそむざんなれ。」
(岩波文庫「平家物語(二)」より)
嵐山町のホームページはこちらをクリック
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さて,前シリーズ「義仲の里を歩く」では,木曽義仲の育った日義村の史蹟をご紹介しましたが,今シリーズにおいては,ワタシが歩き回ってきた義仲にまつわるさまざまな史蹟を,ワタシの拙い知識とともにご紹介していきます。
第1回目は,義仲の出生の地,埼玉県比企郡嵐山町をご紹介します。
嵐山町は埼玉県のほぼ中心部に位置します。
現在でも過度の都市化を免れ,嵐山渓谷など自然が残る美しい町です。
さて,時代は平安時代末期の1153年,木曽義仲の父である源義賢は,帯刀先生(東宮御所の警護をする武士の長)のポストを辞した後,現在の嵐山町大蔵地区に,広大な館(通称「大蔵館」)を構えました。
その広さは,東西約200メートル,南北約220メートルにも及んだそうです。
現在でも,堀や土塁の一部が残されています。
現在大蔵神社が建っている小高い丘のあたりに,この「大蔵館」の中核があったとされています。
↑大蔵神社
義賢は,館近くの鎌形地区(現,班溪寺の辺り)に愛妾小枝を住まわせ,1154年,二人の間に一人の男児が生まれました。
名は駒王丸,後の木曽義仲です。
鎌形地区にある鎌形八幡神社には,義仲の産湯に汲んだとされる清水が湧いてます。
↑鎌形八幡神社
ところで,義賢が帯刀先生という高ポストを退いてまで関東に下ってきたのは,義賢の兄義朝と,父為義との対立に起因することが大きいようです。
当時義朝は,長男である義平を鎌倉に住まわせ,着々と勢力を広げていました。
義朝が今後何をしでかすかわからないと恐れた為義は,それを抑止せんと,義賢を関東に派遣したのです。
ただ,保元の乱の3年も前から,朝廷の勢力関係により為義親子が振り回されていたというのもなんとなく腑に落ちませんが…ひょっとすると単なる左遷だったのかもしれません^^;
そんな背景の中,義平は,目の上のたんこぶである叔父義賢を撃つべく,1155年,大蔵館に夜襲をかけました(大蔵の戦い)。
一族はことごとく討死。義賢も非業の死を遂げ,駒王丸も命の危険にさらされました。
そのとき,駒王丸と母小枝御前を脱出させたのが義平の配下である畠山重能と斎藤実盛でした。
義賢の正妻は畠山氏から嫁いできていました。そんなことからも,重能も義賢とはゆかりの深い関係だったに違いありません。
時代の流れに逆らえなかったとはいえ,重能はこの母子を不憫に思ったのでしょう。
重能は年長者である実盛を頼りに,混乱に乗じて駒王丸らを救出。
実盛は,自分の屋敷に駒王丸らを7日間かくまった後,信濃国の中原兼遠の下へ逃がしたのでした。
駒王丸は元服までの間,兼遠の館のある現木曽福島町で暮らすことになります。
平家物語巻第六「廻文」の章では,このことを次のとおり記してあります。
「父義方は,久寿二年八月十六日,鎌倉の悪源太義平が為に誅せらる。其時義仲二歳なりしを,母なくなくかかへて,信乃へ越え,木曾中三兼遠がもとにゆき,「是いかにもしてそだてて,人になして見せたまへ」と言ひければ,兼遠うけとって,かひがひしう廿余年養育す。」
(岩波文庫「平家物語(二)」より)
大蔵の戦いにおいて義仲の命を救った斎藤実盛,畠山重能ではありますが,平治の乱後以降,長年平家方に仕えてきた彼らは最後まで源氏方につくことを潔しとせず,後々義仲戦場で相まみえることとなります。運命とは皮肉なものですね
一方,大蔵の戦いで名を上げた義平は,以後悪源太義平と呼ばれ,世に名を轟かせることになります。
ちなみに,義仲には兄仲家がいました。
大蔵の戦いの際,仲家がどのようにして落ち延びたのかは勉強不足のワタシの知るところではありませんが,思うに上記畠山,斎藤らがなんとかしたんでしょうね。
その後孤児となっていたのを,源三位頼政が引き取り養子にしたことが,平家物語に記されています。
しかし,残念ながら頼政挙兵の時,宇治の戦いにおいて討死しました。
平家物語巻第四「宮御最期」の記述です。
「この仲家と申は,故帯刀の先生義方が嫡子也。みなし子にてありしを,三位入道養子にして不便にし給ひしが,日来の契を変ぜず,一所にて死ににけるこそむざんなれ。」
(岩波文庫「平家物語(二)」より)
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トラバ ありがとうございます。
素晴らしい記事を送っていただき、大変参考になりました。
今後ともよろしくお願いします。
拙い記事で恐縮ですが,またお越しいただければうれしいです^^
こちらこそよろしくお願いします。