↑班溪寺山門
木曽義仲の愛妾の中に,山吹という名前が出てきます。
源平盛衰記をざっと眺めると,この名前は見あたりませんが,平家物語においては,「木曾最期」の段で一箇所だけ見ることができます。
「木曾殿は,信濃より,巴・山吹とて二人の便女を具せられたり。山吹はいたはりあって都へとどまりぬ。」
(岩波文庫「平家物語(三)」より)
これを見ると,山吹はなんらかの体調不良により,以後の戦闘には参加せず,都に留まっていたことがうかがえます
この山吹も,巴と同様,単なる義仲の妾だったのか,それとも正妻だったのかは諸説あるようです。
鎌倉へ質子として出された清水冠者義高が,義仲と巴との間の子であるとすれば,源平盛衰記において,巴が最期に鎌倉方に捕らえられたのも,愛する息子に会うためにわざと捕らえられたと考えれば納得のいく話で,吉川英治氏の「新・平家」でも巴正妻説の立場で描かれていますが,義高は山吹との間の子であるとの説もあるようです。
ワタシが埴生護国八幡宮で購入した「源平倶利伽羅合戦記」の年表を見ると
「1170年(嘉応二)兼遠の兄,海野兼保の娘山吹,義仲に嫁ぐ。」
との記載があり,これによると,巴は中原兼遠の娘であると言われているので,巴と山吹は従姉妹どうしであることになりますね。
義高が山吹の子とするならば,大河「義経」で,義高が巴を「おばうえ」と呼んでいたつじつまが合います。
さて,今回は義高が山吹の子であるとの解釈で,山吹に関わる史跡を一つ紹介しましょう。
以前,「義仲の足跡を辿る1」において,義仲誕生の地,嵐山町をご紹介しましたが,義仲の父義賢が館を構えた大蔵の地に「班溪寺」という曹洞宗のお寺があります。
説明板を読むと,この寺の梵鐘に次のとおり刻まれているとのことです。
「木曽義仲長男清水冠者源義高為阿母威徳院殿班溪妙虎大姉創建スル也」
妙虎大姉というのが山吹のことであり,1185年4月に鎌倉を脱出し入間河原で討たれた義高の菩提を弔うため建てたというのがこの寺の由来のようです。
この寺の境内には墓地があり,そこには山吹の墓まであります。
↑山吹の墓
塔婆や塚の文言がはっきりしないため,これも説明板によりますと,「建久元年(1190年)11月22日ここに寂す」とあるそうです。
信濃生まれ,信濃育ちの山吹が,あえて武蔵国までやってきて,子の義高の冥福を祈り,その地に果てたというのも一つのドラマですが,次回は,京において最期の戦闘に参加できなかった山吹についての逸話をご紹介しましょう。