前回に引き続き,木曽義仲の愛妾山吹についてお話ししましょう。
寿永3年1月,いよいよ京に攻め入ってきた鎌倉勢。
義仲にとっても,これが最期の戦いとなりました。
義仲は,愛妾巴とともに,最後の戦場を駆けめぐりましたが,山吹は病気か何かで戦闘に参加できず,都にとどまることになってしまいました。
平家物語等を見ても,女武者の存在は木曽軍の中くらいしか見られませんが,木曽という厳しい環境の中で生きていくためには女性としても身体を鍛練して生きていかざるを得ず,木曽の女性には,自然と男性並みの戦闘能力が身に付いていたのかもしれません。
巴については,武芸の一環として「巴ヶ淵」において水泳の鍛錬をしていたという伝説が残っているほどです。
これらのことからも,巴や山吹,はたまた近隣の出身である葵なども,愛する殿方とともに出陣することは女性の誇りだったのかもしれません。
そんな木曽女性の心理を考えれば,殿の最後の戦いに同行できないことは,山吹にとって屈辱以外の何物でもなかったでしょう。
やがて,義仲は粟津の地で討ち取られます。
その首が六条河原でさらされたことは,以前「義仲の足跡を辿る9」においてお話ししました。
ここで,山吹の逸話があります。
六条河原の首掛けの木には無数の首がさらされていました
義仲の首もそのひとつでした
あるとき何者かが,人知れず義仲の首をそこから盗みだしました。
その者は,義仲の首を笹の葉に載せて引きずって,三条河原付近までたどり着き,密かに弔っていました
その者こそ山吹であったとのことです。
病に伏せっていた山吹ですが,木曽義仲の妻とも妾とも言われている女性を,鎌倉勢が見逃すはずはありません。
山吹は女乞食にでも身を代えて,追っ手の目をくらましたのでしょう。
動くのもままならない身で,意地でも愛する義仲さまを取り返すべく,首掛けの木からなんとか義仲の首を取り落とし,笹の葉にくるんで,人知れず夜の闇の中を去っていったのでしょうか。
この伝説に基づく塚が,京都の京阪三条駅から南東へ徒歩3分くらいの距離にある有済小学校敷地内に存在します。
山吹御前塚(京都新聞出版センター発行「義経ハンドブック」より転載)↑
この場所は,小学校の敷地内で,学校側に事前予約をしていないと入れないため,ワタシも行き当たりばったり現地まで行ったのはいいものの,この塚の現物を見ることはできませんでした
よって,ガイドブックの写真を恐れながら転載させていただきました…
この地に埋めた首が義仲のものだとしたら,前にお話しした法観寺の義仲の首塚には誰の首が埋められているのでしょう?
そもそも夜の闇の中,身体の自由の利かなかった山吹が,義仲の首を判別することができたのでしょうか?
昼のうちに事前に義仲の首の場所をチェックしていたのでしょうか?
謎は深まるばかりです。
なお,吉川英治氏の「新・平家物語」では,義仲に出会ってからここに至るまでの山吹の心情の変化をかなり狂信的に表現しており,義仲を巡る巴・葵・山吹の三つどもえの争いに強烈なスパイスを利かせています