本棚の裏の小部屋

大人の広汎性発達障害の
確定診断を受ける前も受けた後も
相変わらず冴えない日々を送っています

宮城刑務所と保春院

2018-07-13 | 日記
学生の頃
利用する通学バスの中に、
古城経由という路線があって

ふるじろ

読んで字のごとく古いお城
昔この辺にお城があったのかなと
ボーッと頭をよぎるくらいでしたが、

◇◇◇◇◇

伊達政宗が、仙台城下を作ってから約30年後くらいに
一国一城令に反し、幕府には「屋敷」として建造の許可を得て

自らが工事の細部まで指揮をし
城下南東の「古城」とよばれるあたりに第二の城・若林城を築いた・・・

という事を、かなり遅まきながら大人になってからブラタモリを観て知りました。

仙台市のHPには、政宗公が晩年を過ごすための隠居所と言われてきましたが、
研究の結果、現在は実際に執務を行った場所と考えられている と書かれています。

◇◇◇◇◇

仙台駅近くの五橋の道路が変にY字路になっていて、
どうしてわざわざ車の流れが不自然になる区画構造になっているのか
そこをバスや車で通る度に、不思議だなー不便だなーと感じていましたが

若林城の完成に合わせ、城下町として奥州街道沿いに荒町から河原町までの町割がなされ、
河原町からまっすぐ東に向かい城に至る道が通ったのが、その理由だったんですね。

長年の謎が解けて、ものすごく感動しました。

◇◇◇◇◇

ただ、どうしてその若林城の跡地を
現在の宮城刑務所に利用したのか経緯が分からなくて。

宮城刑務所のすぐ近くには、少年院や、女子少年院もあり
「古城経由」なので、グルーッとその周辺をバスで回っていると、
いろいろと昭和な妄想をしてしまい(特に帰宅時)気分が重くなるという事がありました。

少し話が逸れましたが、調べましたら

『 政宗はこの城で8年間を過ごした後、寛永13年(1636)に江戸で亡くなり
その3年後の春には建物が解体されて仙台城二の丸に移され、
政宗の遺言によって堀だけが残されました。
延宝年間(1673~81)には藩の焔硝蔵(火薬庫)がつくられ、
貞享4年(1687)には爆発事故で死者を出しています。
6代藩主宗村が別荘を置いたとも伝えられていますが、
江戸時代が終わるまで城跡の周囲はさびれたままでした。』(仙台市HP)

『 明治になって城跡は伊達宗基の所有地になり、一時荒廃したが、
開拓によって桑畑になった。西南戦争後の1878年(明治11年)に5800円で警視庁が買い上げ、
1879年(明治12年)に宮城集治監を設けた。これが1903年(明治36年)に宮城監獄、
1922年(大正11年)に宮城刑務所と改称して21世紀初めの現在に至る。』(Wikipedia)

と、なってますね。
警視庁が土地を買ったので、そこに刑務所を建てたと。

◇◇◇◇◇

真偽のほどは不明ですが、刑務所は北に向かって
刑罰が厳しい人が収容されていると聞いたり何かで読んだりしましたが、本当かな。

以前、伯父の葬儀の時に
他県で刑務官をしている従兄弟と話をしていて

「仙台ってあれ(死刑執行の刑場)あるよね」

と言われ、確かに刑が重い人もこちらに来るのだなとは思いましたが。

◇◇◇◇◇

それで、もっと謎に思ったのが
引き取り手のない死刑囚の埋葬場所なんですが、

保春院

少林山 保春院

どうして伊達政宗つながりなのだろう? 何故、政宗つながりにした?
若林区だから? いやいや若林区には新寺とかいろいろあるだろう。 単に近いから?

『 少林山とは古い表記でワカバヤシ(若林)を表しており、
近くにある現在の宮城刑務所の地には、以前は伊達政宗公の出城でもあった若林城が建っていました。
また保春院という名前は政宗公の父輝宗公が亡くなった後、母義姫が出家した際に、
政宗公の師である北山の覚範寺開山(初代住職)虎哉宗乙禅師より頂いた
法名「保春院殿花窓久栄尼大姉(ほしゅんいんでんかそうきゅうえいにだいし)」に由来しています。』

『 政宗公は寛永13年(1636)義姫の十三回忌にあたり菩提を弔うために、
覚範寺第四世清岳宗拙和尚を開山として迎え保春院を創建しました。
政宗公最後の参勤となる江戸出発の2日前の4月18日に、8年の歳月をかけ
創建された保春院の完成を祝い参詣したあと、杜鵑の初音を聴くために
経ヶ峯に立ち寄りお城に帰りました。その際、家臣の奥山大学に「死後この辺りに墓所を定めるように」
と指示した事は大変有名な逸話になっています。政宗公は翌月24日に江戸の屋敷で亡くなり、
後に瑞鳳殿と瑞鳳寺が忠宗公によって建立されました。政宗公の遺体はすぐに江戸から覚範寺に移され
葬儀は清岳和尚導師のもと挙行されました。その縁により清岳和尚は瑞鳳寺完成時に開山として
保春院より移住されました。覚範寺、保春院、瑞鳳寺の三ヶ寺の住職を歴任されたのです。』

HPの写真はとても美しく安らぐ雰囲気で清らかですね。

◇◇◇◇◇

小さい頃に母親とバスでかな。
その付近を通った時にですね、おもむろに母が話すわけですよ。

「死刑囚で亡くなると、親族の多くが遺体を引き取りたがらないんだって。
保春院には、そういう人達も埋葬されているんだよ」

その話を聞く前からずっと、その近辺のガードレール下が
子どもの私にとって、何だか凄く怖い場所だった為に、その後もずっと

ずーーーっと、大人になってからも何かしら物々しい雰囲気を感じ続けているのが呪縛です。

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