goo blog サービス終了のお知らせ 

旨い処探索同好会

アトリエ葉神 公式 ブログ・サイト

翻訳 026 ヤスオ・クニヨシ Yasuo Kuniyoshi

2013年02月15日 09時25分32秒 | 翻訳

Escaped Bull by Jon Corbino

Daniel was very encouraging and he showed two of my paintings in his gallery in 1921. A thrilling experience, for it was my first opportunity in a real gallery. The next year I had a one-man show.

I came through the show unscathed except for the astonishing assumption that I was a humorist. I wasn't trying to be funny but everyone thought I was. I was painting cows at that time because somehow I felt very near to the cow. Besides I thought I understood the animal. You see I was born, judging by the Japanese calendar, in a "cow year." According to legend I believed my fate to be guided, more or less, by the bovine kingdom. Also I was interested in the cow because I thought it decorative as well as ugly and so I painted cows constantly until I was exhausted.



ダニエルは、1921年(大正10年)に、彼の画廊で私の二つの作品を展示し、随分励ましてくれました。 それは私にとって本物の画廊での最初の機会で、スリル満点の経験でした。 翌年には、個展を開きました。

私が、ユーモアのある人と言うビックリするような仮定をされた事以外は、個展は無事に終わりました。 私は、面白くしようとしたのではないのですが、誰もがそう思いました。 その時私は、牛を描いていました、何故ならどう言う訳か牛を身近に感じたからです。 それに加えて私は牛を理解していると思っていました。 私は、日本の暦の審判で、丑年生まれなのです。 私の信じている言い伝えによると私の運命は、多かれ少なかれ、牛王国によって導かれているのです。 そしてそのうえ私は牛に興味がありました、何故なら牛は華やかでいて醜いと思いました、だから疲れ果てるまで絶えず牛を描いたのです。



訳語感:
クニヨシは、丑年生まれだったのですね。 昔の人は丑年生まれの人はこうで、寅年生まれの人はああだとよく言っていましたが、明治生まれのクニヨシもその話は聞かされて育ったのでしょう。

ここでクニヨシが否定している事、私はヒューモリストではないと言っているのですが、周りは勝手にそのように決めています。 困った事に、こういった間違った評論はよくあることです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

翻訳 025 ヤスオ・クニヨシ Yasuo Kuniyoshi

2013年02月13日 10時16分59秒 | 翻訳

Mother by John Sloan

From now on painting was my whole life. I met Hamilton Easter Field and he offered me a place to stay in Ogunquit, Maine, during the summer so that I could work, and an apartment in Brooklyn for the winter. My second summer in Ogunquit I married Katherine Schmidt. The Niles Spencers and ourselves spent many a warm evening talking about Cézanne and modern painting.

By this time I was out of school and anxious to show my work. The only two places I knew of where a young painter, whose work was in the modern idiom, could have an exhibition was at the Montross and Daniel Galleries.



その頃から絵を描くことが、私の全てになりました。 ハミルトン・イースター・フィールドに出会い彼は、私が絵を描けるように夏の間にはメイン州オガンクイットに滞在する場所を、冬にはニューヨークのアパートを、提供してくれました。 二年目の夏にキャサリン・シュミットと結婚しました。 ニールス・スペンサー家族と私達は、暖かい夕暮れ頃に、よくセザンヌや現代絵画について語り合って過ごしました。

私は、この頃までには学校を出ていて、作品の展示を切望していました。 現代的表現形式の作品を制作する若い画家が展覧会を開けるのは、モントロスとダニエル画廊の、唯二つの場所しか私は知りませんでした。
 


訳後記:
オーティス・レディングのヒットソング、「ドック・オブ・ザ・ベイ」が、ギターで弾けるようになった。 今度はラビン・スプーンフル(The Lovin' Spoonful)のデイドリーム(Daydream)と、ドゥービー・ブラザーズ(Doobie Brothers)のロングトレイン・ラニング(Long Train Running)を練習している。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

翻訳 024 ヤスオ・クニヨシ Yasuo Kuniyoshi

2013年02月11日 17時04分56秒 | 翻訳

Young Girl by Alexander Brook

Around this time Louis Bouche introduced Alexander Brook and myself to the Penguin Club. I was terribly excited to be asked to show my work there along with such artists as Kuhn, Weber, Pascin and several other noteworthy painters. This small but fertile group helped to establish the roots of contemporary American painting. Considered rebels of their time they waged a vigorous battle against conservatism with might and humor. We knew how to play and enjoy ourselves in those days.



丁度この頃ルイス・ボーチェが、アレキサンダー・ブルックと私をペンギン・クラブに紹介してくれました。 私は、カーン、ウィーバー、パスキンや他幾人かの注目すべき画家達と一緒に、ペンギン・クラブで私の作品を展示することにとても興奮していました。 この小さくも想像力に富むグループが、今日のアメリカ絵画のルーツの設立を促進したのです。 この時期の反抗者達と重視されていた彼らは、大きな力とユーモアで保守主義に対向して激しい闘争をしかけていました。 当時の我々は、遊びや楽しみ方をよく知っていました。



訳後記:
今回の「ヤング・ガール」は、クニヨシの最もクロースだった学友のアレキサンダー・ブルックの作品です。 前回の「タットゥー、ヘァーカット、シェイヴ」も、やはり同じクニヨシの学友リージナルド・マーシの作品です。 ところで、このエッチングの中の指笛を吹いている松葉杖の男に気がつきましたか? 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

翻訳 023 ヤスオ・クニヨシ Yasuo Kuniyoshi

2013年02月08日 11時16分09秒 | 翻訳

Tattoo--Haircut--Shave by Reginald Marsh

This was a period of cultural activity in which I made every effort to absorb the life around me. I went to concerts religiously, although I must confess that I never understood the masterpieces I heard and still don't.

I was drawn into these activities through my association with the students at the League. Among them I made fast friends with Alexander Brook, Peggy Bacon, Henry Schnakenberg, Katherine Schmidt, Reginald Marsh, Edmund Duffy and Arnold Blanche.



この頃は、私の周りの生き方を吸収するため、出来るだけの努力をした教養的活動の時期でした。 私は信仰するようにコンサートに行きました、それにもかかわらず私が聞いた名曲を理解したことはないと打ち明けなければなりませんし、いまだに解りません。

私は、リーグでの学生達との交際により、こう言った活動に惹かれていきました。 中でもアレクサンダー・ブルック、ペギー・ベーコン、ヘンリー・シャナケンバーグ、キャサリン・シュミット、リージナルド・マーシ、エドモンド・ダフィー、やアーノルド・ブランチとすぐに友達になりました。




クニヨシのリーグでの学友へのリンク:読書 その三十七 フロク3―上、中、下 学友

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

翻訳 022 ヤスオ・クニヨシ Yasuo Kuniyoshi

2013年02月07日 07時19分58秒 | 翻訳

Women Shopping by Kenneth Hayes Miller

I had a great hunger for friends and companionship as a natural reaction, from my lonely wanderings. At the League I found warmth and kindness which I sorely needed. Kenneth Hayes Miller was very friendly toward me, even though it took me a long time to understand him. It was he who changed my outlook on art and I began to have a direction and motive, whereas before that I had had none. It was then that I began to see and study the old masters. I can remember very distinctly his introducing me to Daumier's drawings, and my trying to grasp their full meaning and significance.



私は、孤独な放浪からの自然な反動として友達や交際に大変渇望していました。 リーグで私にひどく必要だった、思いやりや優しさを見つけたのです。 ケニス・ヘイズ・ミラーを理解するのに私には時間が掛かりましたが、彼は私に、とても優しくしてくれました。 私の芸術に対する態度を変えたのは彼でした、そして私が以前は持ち合わせていなかった、方向性と動機を持ち始めたのです。 その時から昔の巨匠の作品を観て勉強を始めました。 彼によってドーミエの素描画を紹介されたこと、そのドローイングの持つ全ての意味合いや重要性をとらえようとした私の試みを大変明確に覚えています。



訳後感:
アメリカ・モダニズムの動きが活発になり、保守革新の争いと変革のニューヨーク美術界でクニヨシもやっと自分に合った学校と友達を見つける事が出来た様です。

ドーミエーに関してのリンク:読書 その二十二、フロク・2

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

翻訳 021 ヤスオ・クニヨシ Yasuo Kuniyoshi

2013年02月06日 08時17分33秒 | 翻訳

The Line Storm by John Steuart Curry

Nevertheless I was still restless and when I changed schools by going to the Art Students League all my classmates thought I was "going to the dogs." Up to then I hadn't made any friends, whether out of shyness or the small feeling of a stranger. At the League my life began to take on a real meaning. Heretofore things came and went aimlessly, from one stage to another, moving from day to day not knowing where the wind would take me next.



それにもかかわらず、私はまだ落ち着きませんでした、そしてアート・ステューデント・リーグに学校を変えたとき、クラスメートみんなは、「質が落ちる」と思っていました。 人見知りのせいか、チョットしたよそ者感覚でしょうか、私はそれまで友達を作りませんでした。 リーグでは私の人生は本来の意味を持ち始めました。 これまでは、一つのステージから別のステージに、日々移動し風が次に何処へ私を連れて行くのか知らないまま、目標もなく過ぎて行きました。



訳後記:
丁度このブログ更新をやっているとき、今朝のラジオでアラスカに漂着した、東北地震で海に流れ出されたゴミのニュースをやっていた。 小さな発泡スチロールの粒や石油、灯油、洗剤、薬品などの入った小さな容器などの漂着物がアラスカの長い海岸線や島のビーチに貯まり始めており、撤去するのは大変で、ある意味では以前に起きたタンカーからの油の流失より悪い影響を環境に及ぼすかもしれないと言っていた。 小さな地球は一つだけ、みんなで大切にしなければなりません。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

翻訳 020 ヤスオ・クニヨシ Yasuo Kuniyoshi

2013年02月05日 09時57分24秒 | 翻訳

Negro Band by Waldo Peirce

Homer Boss was the sole instructor of the school and I rubbed elbows with Stuart Davis and A.S. Baylinson. I thought that these men were already doing accomplished work. For the first time I began to feel at home.



ホーマー・ボスが学校では唯一人の先生で、スティワート・デーヴィスやエー・エス・バイリンソンと肘を付け合わせ勉強しました。 彼らはすでに熟達した作品を作っていると私は思っていました。
この頃初めて、私は家庭的雰囲気を感じ始めました。



訳後感:
インディペンデント・スクールでのクニヨシの学友達の作品へのリンク:
http://blog.goo.ne.jp/pacleaf/e/6c101c8cf89d406b5ab542f499aae4ca

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

翻訳 019 ヤスオ・クニヨシ Yasuo Kuniyoshi

2013年02月04日 10時12分12秒 | 翻訳

Carousel Horse by Yasuo Kuniyoshi

I was lost in the shuffle for a couple of year and then joined the Independent School, where everybody was talking about the Armory Show. Cubism was in the air. The Nude Descending a Staircase was creating a furore. Reproductions of van Gogh, Gauguin, and the masters of the late nineteenth century filled the walls of the school. I was caught up this excitement without really understanding what it was all about.



私は二年間程の改変の中で、自身を見失っていました、それからインディペンデント・スクールに加わり、そこではみんながアーモリー・ショウについて話していました。  キュービズムのことで、いっぱいでした。「階段を降りる裸婦像」は、熱狂的興奮を作り上げていました。 ヴァン・ゴッホやゴーガン、それに19世紀後半の巨匠達の複製が、学校の壁を埋め尽くしていました。 私は、何のことか本当に解らないままこの興奮に巻き込まれていました。 



訳後感:
アーモリー・ショウが当時のアメリカの美術界に与えた影響は、歴史に見るとうりであるが、その真っ直中にいた人達にとっては大きなエキサイトメントを体験しているわけで、特に美術の勉強を始めたばかりのクニヨシには、新しい芸術のうねりを理解するのは難しかったはずです。 しかしその事を正直に書いている点で、彼の誠実さを伺い知る事が出来ると思います。

「階段を降りる裸婦像」へのリンク:画家のツブヤキ 029 レディーメード その-10
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

翻訳 018 ヤスオ・クニヨシ Yasuo Kuniyoshi

2013年01月30日 12時05分21秒 | 翻訳

Central Park at Night by Adolf Dehn


A friend of father, Mr. Kawabe, who was a Japanese artist, helped me through the winter by giving me board and meals. In return I cleaned his studio. It was he who suggested that I go to the National Academy. I used to walk from Sixty-sixth Street to the National Academy on One Hundred and Ninth Street twice every day because I had no carfare. I tried to like the National Academy but after two months I quit.

* * * * *



父親の友人で、日本人アーティストのカワベ氏が、冬の間私に食事と部屋を与えて助けてくれました。 お返しに彼のスタジオの掃除をしました。 ナショナル・アカデミーに行くことを薦めたのはカワベ氏でした。 バス代が無かったので毎日、第66番街からナショナル・アカデミーのある第119番街まで歩いたものです。 私はナショナル・アカデミーが気に入るように試みましたが、二ヶ月後に止めてしまいました。

* * * * *



クニヨシの自伝は、前中後と三部に区切っていて、ここまでで全50パラグラフの約三分の一。
残りもこのペースでいけるかどうかは、お天気次第。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

翻訳 017 ヤスオ・クニヨシ Yasuo Kuniyoshi

2013年01月29日 12時24分38秒 | 翻訳

Union Square in Snow by Yasuo Kuniyoshi

Once again I fell back on art and decided to come to New York, the center of art activity. Again there was a repetition of the same hardships I experienced when I first came to this country -- odd jobs here and there where I could find them. It seemed like a cold world, especially since I spent the winter of 1910 without an overcoat. But by this time I had definitely decided to continue studying art. Somehow that aim was firm enough so that no matter what I did it was always bearable. I was entirely ignorant of the old masters; no one had ever mentioned them or the numerous museums. I was led to believe that if I painted long enough that would qualify me as an artist.



もう一度私は芸術の世界に戻り、そしてニューヨーク、芸術活動の中心、に来ることに決めたのでした。 又ここで私が最初にこの国に来た時の経験- -あっちこっちで何とか見つけた雑多な仕事をした--同じ苦難の繰り返しになりました。 特にオーバーコートもなく過ごした1910年(明治43年)の冬は、冷たい世の中のように思われました。 しかしこの時までには、私は芸術の勉強を続けると明確に決めていました。 ともかくその目標は充分に確固たるもので、どんなことをしても常に我慢出来ました。 今まで誰も昔の巨匠達や沢山ある美術館を話題にしたことはかったので、私は、完全に昔のマスター達に無知でした。 私は、充分長い間絵を描くとアーティストとしての資格が出来ると信じ込んでいました。



訳後感:
アートの世界に進むと決めると、早速アメリカ・アートの中心であるニューヨークに移る決断力と行動力は、若さもあったでしょうが、クニヨシには大変強いものがあったようです。

雪のユニオン・スクェアーは、1938年(昭和13年)に撮影されたものです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

翻訳 016 ヤスオ・クニヨシ Yasuo Kuniyoshi

2013年01月28日 10時28分25秒 | 翻訳

Airport by William Heaslip

Three years at the Los Angeles School of Art and Design and I was undecided as to my future. When an aviation meet for the first time was held at the San Domingo field in Los Angeles I was immediately drawn to it. Quick fame and an up and coming industry fired my imagination and so gave up studying at the art school. But I soon gave that up too, because I was scared.



ロス・エンジェルスのスクール・オブ・アート・アンド・デザインで三年間、私は将来のことを何も決めていませんでした。 ロス・エンジェルスのサン・ドミンゴの野原で飛行の会合が初めて開かれた時、私はそれにスグに引きつけられました。 手早い名声と新しい成長産業は、私の想像力に火を着けました、そこで美術学校での勉強を諦めました。 しかし飛行機の操縦も怖くなって同じ様に諦めてしまいました。



訳後記:
オハイオ州デイトンのライト兄弟が飛行機を発明してから、まだ当時の航空産業は、かなり危険を伴っていた事でしょう。 しかしここでもクニヨシの新しいものへの強い好奇心とチャレンジ精神が伺われます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

翻訳 015 ヤスオ・クニヨシ Yasuo Kuniyoshi その-15

2013年01月27日 10時30分32秒 | 翻訳

Bathers by John Costigan

My attitude was still a romantic one. To be an artist was a wonderful thing. Yet I didn't think too seriously of it. I painted but I never thought I would be able to become an artist.



私の気持ちは、まだ空想的なものでした。 アーティストになることは素晴らしい事でした。 でもその事を真剣に考えていませんでした。 私は絵を描いていましたが、アーティストになることが出来るだろうとは、決して思いませんでした。



訳後記:
ジョン・コスティガンの「バサーズ」は、以前このブログで紹介した「ジャッキー」と同様に眩しい太陽の光を上手く捕らえています、白黒ですが繊細な光と登場人物達の扱いはとても見事です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

翻訳 014 ヤスオ・クニヨシ Yasuo Kuniyoshi その-14

2013年01月26日 12時13分30秒 | 翻訳

Missouri Wheat Farmers by Joe Jones

While going to art school I earned my living by doing various odd jobs, such as working in the field of the Imperial Valley picking cantaloupes; picking grapes in Fresno, during the summer. In the winter I worked as a bell-hop at a hotel. It was not what I wanted to do, but I didn't mind since it enabled me to go to art school.



美術学校に通っている間、私は色々変わった仕事をこなして生活費を稼ぎました、例えば夏の間は、インペリアル・ヴァレーの畑でキャンタロープ・メロンを;フレスノでブドウを収穫しました。
冬には、ホテルのベル・ボーイとして働きました。 私のやりたい仕事ではありませんでしたが、それで美術学校に行けるので気になりませんでした。



訳後感:
ベル・ボーイ(bell-boy)とか、ページ・ボーイ(pageboy)は聞いたことがあるが、ベル・ホップ(bell-hop)は、多分古い言い方なのだろう、聞き慣れない言葉なので辞書を引くと、銀行内のメッセンジャーボーイ、ベル・ボーイと同じとあった。 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

翻訳 013 ヤスオ・クニヨシ Yasuo Kuniyoshi その-13

2013年01月25日 13時47分23秒 | 翻訳

Tree and Mountains by Luigi Lucioni

It may not be that the memory of this picture was responsible for my becoming an artist but remained as a symbol of my aims; to combine the rich traditions of the East with my accumulative experience and viewpoint of the West.



この絵の記憶が、私をアーティストした原因ではないかもしれませんが、東洋の豊かな伝統と私の積み重ねた経験で西洋的観点を結合させると言う、私の目標の象徴として残っていました。



訳後感:
一昨日は、久しぶりにほぼ一日雨が降った。 昨日は、一日中曇っていたが雨は降らなかった。
今日は、曇っていたが午後になって雨になった。 多分明日も似た様な天気だろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

翻訳 012 ヤスオ・クニヨシ Yasuo Kuniyoshi その-12

2013年01月23日 09時58分32秒 | 翻訳

Aspects of Suburban Life - Polo Spill by Paul Cadmus

As I look back, no doubt it was a very photographic depiction; the approach and medium strangely moved me and has left an impression vivid to this day.



思い返すに、それはまさに写真のような描写でした、作品の取り組みや絵の具の使い方に妙に感動し、私に今でも鮮明な印象を残しました。



訳後感:
そう言えば戦争のプロパガンダ的ポスターは、どこの国でも優秀な画工が、確かに強烈な印象を与える強いイメージを上手く描き上げていたと思う。 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする