神社おそうじ隊、見参!公式ブログ

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☆2012.10.14~16 『 神社おそうじ隊 見参! 番外編・熊野』~その4~

2012年10月27日 | 2012.10.14~16 熊野

いよいよ「熊野三山」へと向かう朝。


海に面した宿から空を仰ぎ、蒼く広がる空に今日を感謝。。


熊野古道の象徴ともいわれる、全長約600メートル、267段の石段の続く大門坂より、神域へと入る。







そこはまさに異界への入口でもあるかのように、歩を進めていくその度ごとに、心のざわめきは自然に鎮まっていく。
杉、檜、楠…木漏れ日がたわむれに揺らぎ、参詣者を優しく包んでいく…。







ほどなく、熊野九十九王子の終点、多富気王子に。

熊野の参詣路に点在する小社や小祠を総称して「九十九王子」という。
「九十九」は正確な数字ではなく、それだけ多くあるという意味。
王子は熊野権現の御子とされ、参詣者を守護するという。


樹齢800年・楠大樹。


蛇にも遭遇…。



大門坂を登りきり、参道を多少賑わせたあと。
ようやく…


『熊野那智大社』
私はおそらく、この鳥居をくぐり境内へ上がったその感覚を、忘れることはないだろう。














熊野は、生と死の混淆した世界、だという。

人はひたすら死者の冥福を思いながら、ゆきなやんでいるとき、心の面影にめぐりあうのも不思議ではない。だがこの冥界を、だからといって、いちがいに死の国と決めつけるのに私は疑問を感じる。
熊野にせよ、長谷にせよ、とかく現代人は、生の国、都を離れたところに死者の国を置き、それを峻別しようとする。しかし、たとえばいま飛鳥の古都にこれほど多くの古墳が都市のなかに取り込まれていることは、死と生の区別について、今日とは違った感じ方をしていることを示している。なるほど、熊野は死者たちに親しい土地であったかもしれない。だが、それは死だけが占めていた国ではない。熊野を死の国と規定する説が多いだけに、私はこの問題に関心を持たざるを得ない。配置の関係からいえば、たとえば古代エジプトでの有名なピラミッド群のあるサッカーラは、首都メンフィスの死の都市だし、ナイル河中流のルクソールにある古代の首都テーベは対岸に死者の国であるいわゆる「王家の谷」をひかえている。もちろん、これは死者を死者として意識しているが、しかし、時に、生前の王宮よりも見事な墓を、それも一地域に集約してつくりあげている。つまり、生よりも死の世界への重視がうかがわれ、逆に、永遠なる死後と生との連続が、現実的に信じられている。
私のいいたいのは、死が、生と断絶していない実感なのである。
これは、少なくとも近代以後の私たちの死生観に根本からの反省をうながすものである。熊野が死の国だというときも、いちがいに、断絶と不浄としてとらえるのには疑問がある。むしろ、生と死との連続、不浄よりも浄化と再生の空間としてみるべきであろう。
(「熊野古道を歩く」栗田勇氏の論考より)






青岸渡寺

那智は観音の聖地でもある。
元々は神仏一体の境内であったことが伺われた。




さて、いよいよ大滝へ。













今年初め、以下のようなブログの記事を書いていた。
「死と再生」

大滝の下では、いまも復興への工事(いのり)が続けられている。

思えば、那智大社の御祭神は、熊野夫須美(ふすみ)大神。
イザナミノミコトとされるこの神は、フスミ=ムスヒ(産霊=結び)を示してもいる。
ムスヒは、衰えゆく魂に力を与え活性化するという、活動や生成発展の根本力を意味する、といわれる。

死も生も、連続した混淆したエネルギーの流れの顕れ。
どのような状況であっても、変わらず山から勢いよく流れ落ちてゆくその清冽な水流に御魂をつなげることで、カミなる何かを人はその意識の奥で感得する…のかもしれない。







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