(01)
(ⅰ)
1 (1) ∀x{弟子x→∃y[師匠yx&(x<y)]} A
1 (2) 弟子a→∃y[師匠ya&(a<y)]} 1UE
3(3) 弟子a&∀y[師匠ya→(a≧y)] A
3(4) 弟子a 3&E
3(5) ∀y[師匠ya→(a≧y)] 3&E
3(6) 師匠ba→(a≧b) 1UE
3(7) ~師匠ba∨(a≧b) 6含意の定義
3(8) ~[師匠ba&(a<b)] 7ド・モルガンの法則
3(9) ∀y~[師匠ya&(a<y)] 8UI
3(ア) ~∃y[師匠ya&(a<y)] 9量化子の関係
13(イ) ∃y[師匠ya&(a<y)] 24MPP
13(ウ) ~∃y[師匠ya&(a<y)]&
∃y[師匠ya&(a<y)] アイ&I
1 (エ) ~{弟子a&∀y[師匠ya→(a≧b)]} 3ウRAA
1 (オ)∀x~{弟子x&∀y[師匠yx→(x≧y)]} エUI
1 (カ)~∃x{弟子x&∀y[師匠yx→(x≧y)]} オ量化子の関係
(ⅱ)
1 (1)~∃x{弟子x&∀y[師匠yx→(x≧y)]} A
1 (2)∀x~{弟子x&∀y[師匠yx→(x≧y)]} 1量化子の関係
1 (3) ~{弟子a&∀y[師匠ya→(a≧y)]} 2UE
1 (4) ~弟子a∨~∀y[師匠ya→(a≧y)] 3ド・モルガンの法則
5 (5) ~∀y[師匠ya→(a≧y)] A
5 (6) ∃y~[師匠ya→(a≧y)] 5量化子の関係
7 (7) ~[師匠ba→(a≧b)] A
7 (8) ~[~師匠ba∨(a≧b)] 7含意の定義
7 (9) [師匠ba&(a<b)] 8ド・モルガンの法則
7 (ア) ∃y[師匠ya&(a<y)] 9EI
5 (イ) ∃y[師匠ya&(a<y)] 57ア
5 (ウ) ~弟子a∨∃y[師匠ya&(a<y)] イ∨I
エ(エ) ~弟子a A
エ(オ) ~弟子a∨∃y[師匠ya&(a<y)] エ∨I
1 (カ) ~弟子a∨∃y[師匠ya&(a<y)] 45ウエオ∨E
1 (キ) 弟子a→∃y[師匠ya&(a<y)] カ含意の定義
1 (ク) ∀x{弟子x→∃y[師匠yx&(x<y)]} キUI
(02)
(ⅲ)
1 (1)~∀x{弟子x→∃y[師匠yx&(x<y)]} A
1 (2)∃x~{弟子x→∃y[師匠yx&(x<y)]} 1含意の定義
3(3) ~{弟子a→∃y[師匠ya&(a<y)]} A
3(4) ~{~弟子a∨∃y[師匠ya&(a<y)]} 3含意の定義
3(5) 弟子a&~∃y[師匠ya&(a<y) 4ド・モルガンの法則
3(6) 弟子a 5&E
3(7) ~∃y[師匠ya&(a<y)] 5&E
3(8) ∀y~[師匠ya&(a<y)] 7量化子の関係
3(9) ~[師匠ba&(a<b)] 8UE
3(ア) ~師匠ba∨(a≧b) 9ド・モルガンの法則
3(イ) 師匠ba→(a≧b) ア含意の定義
3(ウ) ∀y[師匠ya→(a≧y)] イUI
3(エ) 弟子a&∀y[師匠ya→(a≧y)] 6U&I
3(オ) ∃x{弟子x&∀y[師匠yx→(x≧y)]} エEI
1 (カ) ∃x{弟子x&∀y[師匠yx→(x≧y)]} 23オEE
(ⅳ)
1 (1) ∃x{弟子x&∀y[師匠yx→(x≧y)]} A
2(2) 弟子a&∀y[師匠ya→(a≧y)] A
2(3) 弟子a 2&E
2(4) ∀y[師匠ya→(a≧y)] 2&E
2(5) 師匠ba→(a≧b) 4UE
2(6) ~師匠ba∨(a≧b) 5含意の定義
2(7) ~[師匠ba&(a<b)] 6ド・モルガンの法則
2(8) ∀y~[師匠ya&(a<y)] 7UI
2(9) ~∃y[師匠ya&(a<y)] 8量化子の関係
2(ア) 弟子a&~∃y[師匠ya&(a<y)] 39&I
2(イ) ~{~弟子a∨∃y[師匠ya&(a<y)]} 9ド・モルガンの法則
2(ウ) ~{弟子a→∃y[師匠ya&(a<y)]} イ含意の定義
2(エ)∃x~{弟子x→∃y[師匠yx&(x<y)]} ウEI
1 (オ)∃x~{弟子x→∃y[師匠yx&(x<y)]} 12エEE
1 (カ)~∀x{弟子x→∃y[師匠yx&(x<y)]} オ量化子の関係
従って、
(01)(02)により、
(03)
「それぞれの計算」により、
① ∀x{弟子x→∃y[師匠yx&(x<y)]}
② ~∃x{弟子x&∀y[師匠yx→(x≧y)]}
③ ~∀x{弟子x→∃y[師匠yx&(x<y)]}
④ ∃x{弟子x&∀y[師匠yx→(x≧y)]}
に於いて、
①=② であって、
③=④ である。
従って、
(03)により、
(04)
③ ~∀x{弟子x→∃y[師匠yx&(x<y)]}
④ ∃x{弟子x&∀y[師匠yx→(x≧y)]}
に於いて、すなはち、
③ すべてのxについて{xが弟子であるならば、あるyは[xの弟子であって、(xはyに及ばない)]}といふわけではない。
④ あるxは{弟子であって、すべてのyについて[yがxの師匠であるならば、(xはy以上である)]}。
に於いて、
③=④ である。
従って、
(05)
③ すべてのxについて{xが弟子であるならば、あるyは[xの弟子であって、(xはyに及ばない)]}といふわけではない。
④ あるxは{弟子であって、すべてのyについて[yがxの師匠であるならば、(xはy以上である)]}。
に於いて、すなはち、
③ すべての弟子が、自分の師匠に、及ばない、といふわけではない。
④ ある弟子は、自分の師匠、以上である。
に於いて、
③=④ である。
然るに、
(06)
③ 弟子不二必不一レ如レ師=
③ 弟子不[必不〔如(師)〕]⇒
③ 弟子[必〔(師)如〕不]不=
③ 弟子は[必ずしも〔(師に)如か〕不んば]あら不=
③ 弟子は、必ずしも、師匠に及ばない、といふわけではない。
従って、
(05)(06)により、
(07)
「番号」を付け直すとして、
① 弟子不必不如師。
② 弟子は必ずしも、師に如か不んばあら不。
③ ~∀x{弟子x→∃y[師匠yx&(x<y)]}。
④ すべてのxについて{xが弟子であるならば、あるyは[xの弟子であって、(xはyに及ばない)]}といふわけではない。
に於いて、
①=②=③=④ である。
然るに、
(08)
日常言語の文から述語計算の文の翻訳のためには、一般にあたまが柔軟であることが必要である。なんら確定的な規則があるわけでなく、量記号に十分に馴れるまでには、練習を積むことが必要である。そこに含まれている仕事は翻訳の仕事に違いないけれども、しかしそこへ翻訳が行われる形式言語(formal language)は、自然言語のシンタックスとは幾らか違ったシンタックスをもっており、また限られた述語 ― 論理的結合記号、変数、固有名、述語文字、および2つの量記号 ― しかもたない。その言語のおもな長所は、記法上の制限にもかかわらず、非常に広範な表現能力をもっていることである(E.J.レモン 著、武生治一郎・浅野楢英 訳、論理学初歩、1973年、130頁)。
従って、
(07)(08)により
(09)
② 弟子は必ずしも、師に如か不んばあら不。
といふ「日本語」が、「日常言語」であるのに対して、
③ ~∀x{弟子x→∃y[師匠yx&(x<y)]}。
といふ「述語論理」は、「人工言語」である。
然るに、
(10)
自然言語の外国人向けの教科書は、まず「こんにちは!」「ありがとう」のような簡単な言葉(ネイティブスピーカーの子供でもわかる言葉)から入る。いっぽう、漢文は自然言語ではなかった。また「聞いて話す」音声言語ではなく、「読んで書く」ための書記言語である。漢字の習得者だけが、漢文を学習できる。「ネイティブライター」は原理的に存在できない。― 中略 ―、「ネイティブライター」が存在できないという点では、中国人も外国人も平等である(加藤徹 著、白文後略 漢文一人学び、2013年、8・9頁)。
従って、
(07)(10)により、
(11)
② 弟子は必ずしも、師に如か不んばあら不。
といふ「日本語」が、「日常言語」であるのに対して、
① 弟子不必不如師。
といふ「漢文(文言文)」は、「人工言語(formal language)」である。
従って、
(09)(10)(11)により、
(12)
「番号」を付け直すと、
① 弟子不必不如師。
② ~∀x{弟子x→∃y[師匠yx&(x<y)]}。
に於いて、
① は、「人工言語」であって、
② も、「人工言語」であるが故に、「ネイティブライター」が存在できないという点では、中国人も、日本人も、アメリカ人も平等である。
然るに、
(13)
江戸時代には、荻生徂来(おぎゅう・そらい、1666-1728)が、漢文訓読法を排斥して、漢詩文は唐音(中国語音)で音読すべきだと主張しました。
荻生徂来は、長崎通詞であった岡島冠山(おかじま・かんざん、1674-1728)から唐話(とうわ=中国語)を学んでいました。漢詩文を唐音で読むという徂来の主張は強固なもので、彼の古文辞学(擬古的な漢文)とともに一世を風靡する大流行となりました。ただし、当時のいわゆる唐音というのは、中国南方の方言音で、現在の北京語を基礎とした普通話(pŭ tōng huà)とはかなり違うものでした。当時、わが国は清国と正式の国交はなく、貿易は長崎において清国商人に信牌(貿易許可証)を与え、私貿易という形で許可していました。そのため、長崎で用いられる中国語も、清国商人が用いる南方方言だったのです(Webサイト:日本漢文の世界)。
然るに、
(14)
(倉石)徂徠は、単に唐音を操るといふ様なことに満足せず、漢文を学ぶには先ず支那語からとりかり、支那の俗語をば支那語で暗誦させ、これを日本語の俗語に訳し、決して和訓の顚倒読みをしてはならない、始めは零細な二字三字の句から始めて、遂に纏った書物を読ます、支那語が支那人ほど熟達してから、古い書物を読ませば、破竹の勢いで進歩すると説いたこれは、今日の様に外国語に対する理念が発達した時代から見れば、何の不思議もない「ことであるが、その当時、つとに、かかる意見を吐いたのは、たしかに一世に抜きんでた見識に相違ない(勉誠出版、「訓読」論、2008年、56頁)。
従って、
(12)(13)(14)により、
(15)
荻生徂来(1666-1728)だけでなく、
倉石武四郎(1897-1975)先生も、
① 弟子不必不如師。
といふ「漢文(文言文)」は、「人工言語」ではなく、「自然言語」であると、信じてゐたことになるが、
荻生徂徠はともかく、
倉石武四郎先生は、
② ~∀x{弟子x→∃y[師匠yx&(x<y)]}。
といふ「述語論理(Predicate logic)」の存在を、知ってゐない、とは思へない。
従って、
(15)により、
(16)
倉石武四郎(1897-1975)先生は、
① 弟子不必不如師。
② ~∀x{弟子x→∃y[師匠yx&(x<y)]}。
といふ「2つの言語」を、「全く異なる」ものとして、捉へていたはずであるが、
少なくとも、私にとっては、
① 弟子不[必不〔如(師)〕]。
② ~∀x{弟子x→∃y[師匠yx&(x<y)]}。
といふ「言語」は、両方とも、「理屈(論理)が先行する所の、(人工)言語)」である。
(17)
① 我非生而知文言文(我は生まれながらにして、文言文を知る者に非ず)。
② 我非生而知論理学(我は生まれながらにして、論理学を知る者に非ず)。
といふことに関しては、
① と、
② は、「同様」であるが、
その一方で、
① 弟子不[必不〔如(師)〕]。
② ~∀x{弟子x→∃y[師匠yx&(x<y)]}。
に於いて、
①=② である。
といふことは、
③ 生まれながらにして、「それを知ることが出来る仕組み」が、「頭(脳)」の中に、(生得的に、)備はってゐたものと、思はれる。
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19世紀に活躍したウィトゲンシュタインのご意見としては、伝統的な哲学はもはや存在せず。
19世紀に至っては「経験的な科学として独立していき」「哲学には未来がなく終焉する学問」だった様子です。
そう言いつつ、我が恩師であるA氏はそんなウィトゲンシュタインを熱く語ってくれましたので、はやり印象的な哲学者であったことでしょう。
とにかく原左都子にとりまして、哲学者であられた恩師A先生とは、その後の我が人生に於いて尚多大なる影響をもたらし下さっている恩師に他なりません。