―「昨日(令和元年08月20日)」の記事を書き直します。―
(01)
漢語文法の基礎となっている文法的な関係として、次の四つの関係をあげることができる。
(一)主述関係 主語 ― 述語
(二)修飾関係 修飾語―被修飾語
(三)補足関係 叙述語― 補語
(四)並列関係 並列語― 並列語
(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、281・282頁改)
(02)
(四)並列関係 といふのは、例へば、
花鳥=花と鳥
風雨=風と雨
死生=死と生
来見=来たり見る
等を、言ふ。
然るに、
(03)
① 非不読書=
① 非[不〔読(書)〕]。
に於いて、
① 非[ ]⇒[ ]非
① 不〔 〕⇒〔 〕不
① 読( )⇒( )読
といふ「移動」を行ふと、
① [〔(書)読〕不]非=
① [〔(書を)読ま〕不るに]非ず=
① 書を読まないのではない。
(04)
② 非不読英文=
② 非[不〔読(英文)〕]。
に於いて、
② 非[ ]⇒[ ]非
② 不〔 〕⇒〔 〕不
② 読( )⇒( )読
といふ「移動」を行ふと、
② [〔(英文)読〕不]非=
② [〔(英文を)読ま〕不るに]非ず=
② 英文を読まないのではない。
(05)
③ 非必不読英文=
③ 非[必不〔読(英文)〕]。
に於いて、
③ 非[ ]⇒[ ]非
③ 不〔 〕⇒〔 〕不
③ 読( )⇒( )読
といふ「移動」を行ふと、
③ [必〔(英文)読〕不]非=
③ [必ずしも〔(英文を)読ま〕不るに]非ず=
③ 必ずしも英文を読まないのではない。
(06)
④ 我非必不読英文者=
④ 我非[必不〔読(英文)〕者]。
に於いて、
④ 非[ ]⇒[ ]非
④ 不〔 〕⇒〔 〕不
④ 読( )⇒( )読
といふ「移動」を行ふと、
④ 我[必〔(英文)読〕不者]非=
④ 我は[必ずしも〔(英文を)読ま〕不る者に]非ず=
④ 私は、必ずしも英文を読まない者ではない。
然るに、
(07)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。しかし、訓読は、国語の語順に置きかえて読むことが、その大きな原則となっている。それでその補足構造によっている文も、返り点によって、国語としての語順が示されている(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、296頁)。
従って、
(01)~(07)により、
(08)
① 非[不〔読(文)〕]。
② 非[不〔読(英文)〕]。
③ 非[必不〔読(英文)〕]。
④ 我非[必不〔読(英文)〕者]。
並びに、
① [〔(書を)読ま〕不るに]非ず。
② [〔(英文を)読ま〕不るに]非ず。
③ [必ずしも〔(英文を)読ま〕不るに]非ず。
④ 我は[必ずしも〔(英文を)読ま〕不る者に]非ず。
に於ける、
①[ 〔 ( ) 〕 ]
②[ 〔 ( ) 〕 ]
③[ 〔 ( ) 〕 ]
④[ 〔 ( ) 〕 ]
といふ「括弧」は、
(ⅰ)「漢文の補足構造」と、
(ⅱ)「国語の補足構造」と、
(ⅲ)「漢文訓読の語順」とを、表してゐる。
従って、
(08)により、
(09)
① 非レ不レ読レ文。
② 非レ不レ読ニ英文一。
③ 非二必不一レ読ニ英文一。
④ 我非下必不レ読二英文一者上。
といふ「漢文」を、
① [〔(文を)読ま〕不るに]非ず。
② [〔(英文を)読ま〕不るに]非ず。
③ [必ずしも〔(英文を)読ま〕不るに]非ず。
④ 我は[必ずしも〔(英文を)読ま〕不る者に]非ず。
といふ風に「訓読」したとしても、「語順は、変はる」一方で、「補足構造は、変はらない。」
従って、
(10)
⑤ 小蛇以ニ一咬一殺ニ大牛一。
といふ「漢文」を、
⑤ 小蛇以(一咬)殺(大牛)⇒
⑤ 小蛇(一咬)以(大牛)殺=
⑤ 小蛇(一咬を)以て(大牛を)殺す。
といふ風に「訓読」したとしても、「語順は、変はる」一方で、「補足構造は、変はらない。」
然るに、
(11)
Q. ラテン語の語順の自由さについて
Q. 突然のメールで恐縮ですが、私がラテン語学習で感じた感想を述べさせてください。ラテン語学習で私が特に(接続法の次に)面食らったのが、語順の自由さです。
古代ローマの人たちは、この語順をはたしてどのように受け止めていたのでしょうか。
例えば、こういう一節があります。
Parva necat morsū spatiōsum vīpera taurum.
順通りの訳は「小さいのが、殺す、一咬みで、大きいのを、蛇が、牛を。」となります。
(Webサイト:山下太郎のラテン語入門)
然るに、
(12)
⑥ Parva (necat{morsū [spatiōsum〔)vīpera〕taurum]}=
⑥ 小さな(殺す{ 一咬みで[大きい 〔)蛇が 〕牛を ]}。
に於いて、
⑥ 小さな( )⇒( )小さな
⑥ 殺す{ }⇒{ }殺す
⑥ 一咬みで[ ]⇒[ ]一咬みで
⑥ 大きい〔 〕⇒〔 〕大きい
といふ「移動」を行ふと、
⑥ 小さな(殺す{ 一咬みで[大きい 〔)蛇が 〕牛を ]}⇒
⑥ ({ [ 〔)小さな蛇が 〕大きい 牛を ]一咬みで}殺す=
⑥ 小さな蛇が、大きい牛を、一咬みで、殺す。
といふ「ラテン語和訳」が、完成する。
然るに、
(13)
⑥{ [ 〔 ( ) 〕 ] }
といふ「括弧」に対して、
⑥ 小さな(殺す{ 一咬みで[大きい〔)蛇が〕牛を ]}
に於ける、
⑥( { [ 〔 ) 〕 ] }
といふ「それ」は、「括弧」ではない。
従って、
(10)~(13)により、
(14)
⑤ 小蛇以(一咬)殺(大牛)。
⑥ Parva (necat{morsū[spatiōsum〔)vīpera〕taurum]}。
に於ける、
⑤( )( )
⑥( { [ 〔 ) 〕 ] }
に於いて、
⑤ といふ「括弧」は、「漢文の補足構造」と、「訓読の語順」を表してゐて、
⑥ といふ「それ」は、固より、「括弧」ではなく、尚且つ、「ラテン語の補足構造」を、表してはゐない。
従って、
(14)により、
(15)
⑤ 小蛇以(一咬)殺(大牛)。
といふ「漢文」を、
⑤ 小蛇(一咬を)以て(大牛を)殺す。
といふ風に「訓読」することと、
⑥ Parva (necat{morsū[spatiōsum〔)vīpera〕taurum]}。
といふ「ラテン語」を、
⑥ ({ [ 〔)小さな蛇が 〕大きい 牛を ]一咬みで}殺す。
といふ風に「和訳」することは、「同じ」ではない。
従って、
(15)により、
(16)
例へば、「ラテン語・和訳」等を例にとって行ふ、
数年前、ある言語学教育関連の新聞の連載のコラムに、西洋文化研究者の発言が載せられていた。誰もが知る、孟浩然の『春眠』「春眠暁を覚えず・・・・・・」の引用から始まるそのコラムでは、なぜ高校の教科書にいまだに漢文訓読があるのかと疑問を呈し、「返り点」をたよりに「上がったり下がったりしながら、シラミつぶしに漢字にたどる」読み方はすでに時代遅れの代物であって、早くこうした状況から脱するべきだと主張する。「どこの国に外国語を母国語の語順で読む国があろう」かと嘆く筆者は、かつては漢文訓読が中国の歴史や文学を学ぶ唯一の手段であり「必要から編み出された苦肉の知恵であった」かもしれないが、いまや中国語を日本にいても学べる時代であり「漢文訓読を卒業するとき」だと主張するのである(「訓読」論 東アジア漢文世界と日本語、中村春作・市來津由彦・田尻祐一郎・前田勉 共編、2008年、1頁)。
といふ「主張」は、「正しく」はない。
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