時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

​人生を支える絵画に出会う(1)

2021年06月14日 | 書棚の片隅から



 Matar, Hisham マタール、ヒシャーム*1という作家をご存知だろうか。あるいはDuccio di Buonibsegna ドウッチョ・ディ・ブオニンセーニャ*2 という画家は?

 Quizというわけではない。海外ではそれぞれの分野でかなり知られている。しかし、日本では一部の人々を別にすれば、ほとんど馴染みがない名前だろう。
 
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N.B.
*1
ヒシャーム マタール,Hisham Matar,作家。
1970年、ニューヨークでリビア人の両親の間に生まれる。幼少年期をトリポリ、カイロで過ごす。1986年以降、イギリス在住。2006年、In the Country of Men (邦訳『リビアの小さな赤い実』金原瑞人・野沢佳織訳、ポプラ社、2006年)で小説家としてデビュー。自伝的要素の色濃い作品は高い評価を受け、ブッカー賞の最終候補にノミネートされたほか、英国王立文学協会賞など、数々の賞を受けた。

続いて、リビアのカダフィ政権崩壊後に発表したThe Return. In the Country of Men (邦訳『帰還―父と息子を分かつ国』金原瑞人・野沢佳織訳、人文書院、2018年)はさらに高い評価を受けることになった。
『帰還』は、2017年のピューリッツァー賞(伝記部門)ほか、数多くの文学賞を受賞した。バラク・オバマ、C・アディーチェ、カズオ・イシグロなどの著名人が絶賛する世界的ベストセラーとなった。

 1018年7月には、オバマ前米大統領が、退任後初のアフリカ旅行を前に、「この夏、お薦めの本」の一冊にあげて、話題になった。ナイジェリア出身の女性作家、チママンダ・アディーチェは本作について、「心を動かされ、涙した。愛と故郷について教えられた」と述べ、英国の作家カズオ・イシグロも「引き裂かれた家族をめぐる、不屈の精神に貫かれた感動的な回想録」と称賛している。[以上、上掲書PR文などから]


*2
Duccio di Buonibsegna ドウッチョ・ディ・ブオニンセーニャ(ca1255/1260〜ca 1319)は中世ゴシック期のイタリアの画家、13世紀末から14世紀初頭、シエナ(イタリア共和国トスカーナ州中部の都市)で活動した。

シエーナあるいはシエナはフィレンツェからさほど離れていないが、独立精神が強い。とりわけ美術の面に見られる。この画家は、13〜15世紀に発展した美術史上の「シエナ派」Siena school の祖ともいわれる。ちなみにSienaの現地発音は「スィエーナ」に近い。

ドウッチョは、ゴシックとルネサンスの橋渡しをした西洋絵画史上重要な画家の一人として知られる。
「シエナ派」は、グイド・ダ・シエナ(13世紀後半に活動)を先駆者として、ビザンティン美術の影響を受けたドウッチョ・ディ・ブオニンセーニャが偉大な画家として登場した。彼がシエーナ大聖堂のために製作した巨大な多翼祭壇画《荘厳の聖母》は、今ではかなり散逸しているが、色彩にこめられた新しい感性、洗練された線描、物語表現などの面で、ビザンティン美術の伝統を刷新したものを継承している。さらに彼の影響を受けたシモーネ・マルティーニ、ドメニコ、タッデオ・ディ・バルトーロ、サセッタ、マッテオ・ディ・ジョヴァンニなどが活躍した。
 
シエナ派のなかでは、ジョットから多くを学んだピエトロ・ロレンツェティ、アンブロージョ・ロレンツェッティの兄弟などが知られている。
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シエナで1か月を過ごすまで
さて、今回取り上げるのは、現代の作家ヒシャム・マタールの手になる下掲の新著である:
 
Hisham Matar, A Month in Siena, Penguin Books, 2019 、(邦訳なし、表題仮訳『シエーナで過ごした1か月』)

小著ながら、作者の自伝的前作を継承する大変印象深い作品である。ブログ筆者が取り上げたのは、前著『帰還―父と息子を分かつ国』を読み、感動したことによる。

ヒシャム・マタールは19歳の時、ロンドンでの学生時代を過ごしていた。当時ガダフィ体制への反抗者であった父親は、カイロで誘拐され、リビアへ連れ戻されて投獄され、「水に塩が溶けるように消し去られた」。ここに至るまでの家族の人生遍歴は凄まじいとしか言いようがない。このトラウマのような体験の影がこの新著にも色濃く反映されている。

マタールはロンドン在住時から13〜15世紀イタリアのシエナ派の作品に魅せられてきた。彼が最初その作品に出会ったのは、ロンドンのナショナル・ギャラリーであった。マタールは昼食時にギャラリーを訪れていた。そして一枚の絵画にほとんど一時間を費やしていた。なんと彼の父親は、この時に誘拐されていた。「絵は見ていない時に変わる。思いがけない方角に」。

時が過ぎ、かつては建築学専攻だったマタールは、シエナ派の作品のシンメトリカルな形、キリスト教のシンボリズムに魅惑されていた。そして、かねてからの願望達成のため、シェナに1か月ほど滞在し、美術と都市を実体験するためにやってきた。しかし、彼は前著に記した体験に強くとらわれていることに気づく。ここから人生の新しい次元へ脱却、移行できるのだろうか。

シエナはフィレンツエから遠くはないが、芸術、とりわけ美術の領域では独立精神が強い都市である。13-15世紀に発展した「シエナ派」の拠点として知られている。ブログ筆者も二度訪れたが、中世の姿をそのままに残す美しい町だった。



吸引力は美術館
マタールが魅了されていたのは、シエナ派の著名画家ドウッチョの『受胎告知』The Annunciation や『盲目で生まれた男の治癒』などの作品だった。マタールは「色彩、微妙なパターン、そしてこれらの作品の時間が停止したドラマが自分のために必要なのだと考えていた」。

 
Duccio, The Healing of the Man Born Blind, Tempera on wood, 45.1 x 46.7 cm, 1311, National Gallery, London
ドウッチョ《盲目に生まれた男の治癒》

このドウッチョの作品を見ても、色彩の明るさ、線描の洗練、堅実な物語表現などの点で、ビザンティン風を刷新するものが感じられる。画面中央、キリストに見えない目を拭われた杖をついた男は、右側の泉で目を洗い見えるようになり、杖を捨てている。絵の構成は稚拙とも言えるが、時間を止めたこの奇蹟の表現は当時の人々には分かりやすい。

マタールがシェーナで1か月を過ごすことを決めた最大の理由は、美術館であった。毎日出かけては長い時間を一部屋で過ごす。それに気づいた美術館スタッフが折り畳み椅子を持ってきてくれるまでになる。最初は断ったが、まもなくそれが有用なことが分かる。

美術館を訪れた後は旧市街城壁まで行き、ひとつの町としての存在を確かめる。旧市街は「シエナ歴史地区」として世界遺産に登録されている。建築学専攻だけに、その描写は細部に入り巧みだ。

小著だが、随所に著者がシエナへ到るまでの旅で出会い、心を打たれた絵画作品のイメージが挿入されており、コロナ禍の重苦しい夏に楽しみながら、疲れた心のセラピーとして読むにもふさわしい。ちなみに、1348年、シエナは黒死病の流行で打撃を受けている。新型コロナウイルスの感染に苦悩する現代世界と重なるところがある。

最後のページに挿入されているのは、マタールが仕事でロンドンからニューヨークへ飛び、後から合流した妻ダイアナと共に、滞在中毎週のように訪れていたというメトロポリタン美術館所蔵のジョバンニ・ディ・パオロ《パラダイス》(1445年)のテンペラ画である。



Giovanni di Paolo,(Giovanni di Paolo di Grazia) (Italian, Siena 1398–1482 Siena), Paradise, Tempera and gold on canvas, 1445
ジョヴァンニ・ディ・パオロ《パラダイス》1445年

この作品はメトロポリタンが所蔵する《パラダイスの創造と追放》と併せてシエーナのサン・ドメニコ教会にあった祭壇画のベース(predella)を構成していた。この二つの作品は画家の最傑作に位置付けられている。画家はフィレンツェで見たフラ・アンジェリコの作品に強い影響を受けたが、そのフィレンツッェ様式は斥け、架空の上掲のようなタペストリー様式を採用した。

美術作品には、しばしばそれを見る人々の心の内に入り込み、傷ついた心を癒やしたり、時には人生の方向まで変える力がある。シエナへの旅がマタールの創作活動にいかなる変化をもたらしただろうか。マタールがニューヨークであった友人夫妻(夫は大学教授、妻は成功した弁護士)は外見だけを見れば、人生での成功者であるかに映る。しかし、彼らが述懐するように、内面的にはさまざまな苦悩、不満、願望などを抱えている。取り上げる絵画が14-15世紀イタリアの作品であろうとも、現代人に与える多くのものを内在している。多くの不安に満ちた時代にあって、いかにすれば人生を豊かに生きる作品に出会えるか。
この小著の先には何が待っているのだろうか。楽しみにその時を待ちたい。




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