網干公民館だより2月号において、「網干歴史ウォーク通信9」で興ちゃんの記事が掲載された。
去年の4月13日に網干公民館主催歴史ウォーク 網干区垣内地区をウォーキングした時に古文書学習会のメンバーが交代でそれぞれ説明させてもらったのだが、その時興ちゃんは大覚寺が興浜に移る前の光接院跡の説明を担当させてもらった。
歴史ウォークが終ってからそれぞれ説明した者が順番にその時の事を記事にしているのだが、9回目で興ちゃんの番と相成った。
当日説明した文章を短くするより違う視線から、光接院跡の石碑を建立された当時の大覚寺の総代の方3名の方について書かせて頂いた。
皆さん興浜の方であるが建立されたのが約30年前の事であるので、すでに亡くなられておりそれぞれの息子さんからお話を伺い作成した。
ちょうど大覚寺の工事をさせて頂いているご縁でしょうか、偉人傳として渡邊鼎さんの事を現在掲載中であるが、この総代さんの父親と鼎さんが大覚寺のお世話をされていたようで、そのあたりもからめて今月も大覚寺特集の始まりだ。
今回は公民館だよりに掲載された文章をそのまま公開する事にした。
垣内に「大覚寺発祥の地」という昭和52年建立の石碑がある。大覚寺はもともとこの地にあった「釈迦堂」で後に「光接院」となり今から約460年前に現在の興浜に移った。その石碑の裏面に当時の大覚寺の檀徒総代をされていた加納利一氏・今栄三男氏・児島博氏の名前がある。皆興浜の方で加納氏と児島氏が共に篭屋、今栄氏が今若屋という屋号がある。今から150年前に興浜にできた金刀比羅神社にはこの屋号の玉垣が並んでいる。石碑がいにしえの歴史の世界にいざなってくれる。
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