当日参加者の方に配布した資料には下記のように書いた。
②塩社〔旧専売公社跡・現東京電機〕(旧赤穂塩務局網干出張所)
現在は東京電機工業(株)の社屋として使われている建物は、赤穂塩務局網干出張所として明治後期に建てられたものである。設計は大蔵省営繕課。建物の築年については資料が乏しく詳細は不明であるが、明治38年の塩の専売化に伴って全国の主要な塩産地に塩務局が設置されて行った時期の物と思われる。近代製塩技術の発達によって姿を消してしまった網干の塩田の歴史として、唯一当時の名残を示す建物である。
もう少し調べてみようと頑張りましたが、なかなか塩社の事が書かれたものが無いのが残念である。
『網干町史』と『揖保郡誌』に書かれている部分を掲載させて頂く。
『網干町史』より
明治21年網干製塩商社を設け大に改良を計った。
と書かれてある程度であるが、それより古い『揖保郡誌』にはもう少し詳しく書かれた部分がある。
『揖保郡誌』より
大阪地方専売局網干派出所
大阪専売局網干派出所は網干町新在家の中央南浜手に位置し明治38年赤穂塩務局網干出張所を設けた。主として網干浜に於ける塩田を所管して事務を取締まっていたが明治40年10月変革されて専売局赤穂収納所の出張所に属した。明治42年12月赤穂収納所は合併されて赤穂専売支局となる。次いで大正2年6月官制の改正となって神戸専売支局に属するに至りしも大正11年またも官制の改正を見て大阪地方専売局の出張所と改称され大正13年12月出張所は派出所に変更されて大阪地方専売局網干派出所と称へ揖保郡一円を所管し、塩売捌区域(しおうりさばくくいき)は揖保宍粟両郡に亘り塩収納販売及び専売取締を行って極めて成績を揚げている。
東京電機工業株式会社のホームページによると、同社がここ新在家355-2に本店を大江島から移転したのが昭和37年2月24日とあり、「大きな楠に囲まれ、夏場もクーラー無しで過ごしています。」と書かれてある。
大蔵省と書かれた境界杭
裏側にある建物は塩の貯蔵庫であったのであろう。
つづく
私と同じだけの歴史を積み重ねてるのね!
厳密に言えば、私の方が1日長いけど・・・
と、妙なところに感心しています。
この倉庫、裏側から見たところだったのね。
今になってわかったわ!!
裏側の倉庫が塩の貯蔵庫と書きましたが、推測です。
多分間違い無いでしょう。