興浜(おきのはま)で候 

興(こう)ちゃんの手掘り郷土史

橋で候3 二見横河公園 3

2010年03月21日 | 橋梁

 石碑にはめ込まれた銅版に横河家の歴史が記されています。

 写真では読みづらいので解読してみました。

 


             二 見 横 河 家 に つ い て

 古くから、歌枕として多くの宮廷歌人に親しまれた二見の浦を見はるかすこの地は、横河家本邸跡で、横河家および横河グループ関連事業の発祥の地である。

 横河家は、宇多源氏である近江の佐々木の党の一族で、南北朝の頃、十一世弥三左衛門重光は、宇佐八幡宮において、神息の剣を賜わり、播磨の強賊を平らげた武将で、その功により室谷郷を得たので、室谷を姓とした。重光が太祖で、正慶2年(1333)に没し、鬼貢神として、東二見に祀られている。

 室町時代に公孝は、別所氏に属して武功をたて、姓を横河と改め、文明4年(1472)に観音寺本堂横に法船寺を建てた。

 室谷安重は、元亀年中(1570~73)に二見を襲った海賊の将と戦って共に戦死したため、兄重定は、残族を泉州田川まで追ってこれを降伏させた。郷民は、慈父のように敬慕した、兩今、家の白壁を塗り変えて赤壁としたので、赤壁の家と呼ばれた。

 重定の子重陳は、慶長6年(1601)16歳の時、池田輝政に仕えて船大将を命ぜられ、水夫百余人を指揮した。高砂築城の時、重陳は、龍山から巨石を切り出して使用し大いに賞せられた。同19年11月、大坂冬の陣に重陳は、池田忠雄の船大将を勤め、伯楽渕において、敵将平子主膳を討ち取ったので、この戦、一番槍一番首の功として、家康と忠雄とから感状を、忠雄の母良照院から感文を授けられた。

 寛永元年(1624)、大坂城桜紋の石垣築造の時重陳は、備前犬嶋から、縦4間、横8間の巨石を切り出して海上を大坂城に運び、人々を驚かした。桜門前の巨石がこれである。

 この公園の隣の菩提寺観音寺にある重陳の巨碑は、市指定文化財である。

 横河秋涛は、安定の長男で、西洋医学を志し、江戸に出て、杉田、坪井の二大学者について、蘭学を学び、嘉永3年(1850)、帰郷して、西洋医術による新医療を開始したので、患者や門生が次々と絶えず、地方医療の発展に貢献した。秋涛は、温順篤好の人で、和漢洋の学に通じ、著書に「開化の入口」、「医統歌」が、遺詠集に、「播陽風土詩」がある。

 秋涛の長男規一は、司法省、大審院に奉職の後、三井組に入り、八王寺銀行、冨士製紙会社の創業に尽して、斯界の発展に尽瘁した。

 横河震八郎は、秋涛の第二子で、明治3年大坂開成学校に学び、さらに各地で医学を修めて神戸市において開業した。わが国初の西洋医学による小児科医で、伝染病隔離病棟、その他を多数設置して、社会に貢献した。

 正五位工学博士横河民輔は、秋涛の第三子で、明治23年に、帝国大学工科大学造家学科を卒業し、わが国最初の、鉄骨構造建築物である旧三井本店を建てた。民輔は、横河工務所を開設して、日本を代表する多くの鉄骨建築物を建てた。また、横河橋梁製作所、横河電機製作所(現横河電機株式会社)他を設立した優れた大事業家であり、母校帝大工科大学講師も勤めた。その他博士は、財団法人尚徳学園理事長として、女子高等教育の向上に貢献した。さらに東洋古陶磁にも造詣が深く、帝室博物館(現東京国立博物館)顧問、文部省国宝保存会委員として活躍した。

 横河一郎は、震八郎の長男で、ドイツに留学して、電気計器の研究に当った、横河電機製作所の代表者として、同社の基礎を作り上げた努力の人で、人情味豊かな人であった。

 横河英は、一郎の妹で、神戸女学院、日本女子大学英文科を卒業して、大井家に嫁いだが、夫の死によって復籍した。大正11年、父の協力を得て、この横河家本邸と庭園を開放して、「コドモのお里」を開園し、二見家庭塾も開いた。戦後は、市社会教育委員、市公民館運営審議会委員として、十余年の永い間、深い学識と広い教養をもって社会活動に尽した。

 ここに、われら横河家の由来を記録し、祖先の御霊に捧げ、永く市民の憩いの場として、この地を、明石市に送るものであります。

昭和62年3月

三 十 九 世 横 河 安 雄                                      
       大 井 淳 道                                      
横河電機株式会社代表取締役社長    横 河 正 三                                      
株式会社横河橋梁製作所代表取締役会長 岸 本   實
               


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