興浜(おきのはま)で候 

興(こう)ちゃんの手掘り郷土史

おんど豆

2008年02月03日 | 興浜新聞

おんど豆

 


興浜の町中を駈け回る子ども達 

  ここ姫路市網干区興浜では、2月3日節分の日の夕方になると、子どもたちが町中を走りまわり、お菓子をもらいにまわる風習が昔からある。何軒の家が出しているのかは確認不可能だが、年々減っているようだ。5年くらい私の子どもふたりがまだ廻っている頃は、大きな袋にふたつ分くらい貰って来ていた。

【おんど豆】と書いたが、正しくは【鬼の豆】であろう。ちょっとしたなまりであろう。

いつの頃からか:興浜在住の長老が幼い時にあった事までしかわからない。

お菓子と書いたが:最近はスナック菓子や箱入りのお菓子が多いが、30年くらい前ま
            では、豆や蜜柑であった。

どの家が出しているか:興浜の大覚寺門徒。(全てではない)
              平成に入ってから厄除けをかねて、厄年の方も出したりして
              いる。 

文献の節分の行事と、【おんど豆】 との共通点を調べてみた。                   

網干町史 
節分

【俗に年越しという。立春の前日である。立春は旧暦では年末であること多い。この日、鰯の頭を柊の枝にしして戸口に挟み、また麦飯に塩鰯をそえて食す。余宗(浄土真宗以外)の家では當夜『福は内、鬼は外』と呼んで豆まきをし、家内みなその年の数だけ豆を食べる子供等は此の家に豆を貰いに行く。また若い女などの変装して町を歩く風があったが、今はすたれた。】とある。
浄土真宗の家ではかつて豆撒きがなかったようだ。

姫路市史
寒行
 
【的形町・円光寺(法華宗)では1月16日より11日間寒周りをする。夕方より同教区の10ヶ寺が揃ってねずみ色の法被を着用し、うちわ太鼓を鳴らし、龍野市・加西市・神崎郡あたりまで回る。昔、カンカンサンといい、網干区新在家・善慶寺の役僧が寒修行のため素足で回ってきた。寒明けの日、和尚も一緒に来て子どもらに蜜柑を振舞った。】とある。
確認はしていないが、今日おんど豆をまわっている時に新在家善慶寺でも同じような事をしていると耳にした。
節分・節分祭
【立春の前日にあたり、大晦日と同じ行事をした。俗に『としこし』という。鬼を追い払うため、神社仏閣・個人などで、『福は内鬼は外』と追儺の豆撒きをする。鬼の侵入を防ぐため『鬼の目突き』といい、ヒイラギの小枝に鰯の頭を突きさして家の出入口にさして魔除けとする。
船場地区 節分の豆を『オンノマメ』といい、明治から大正にかけて、龍野町1丁目の
       三宅酒店では、節分になると、朝早くからたくさん大豆を炒り、子どもたち
       に振舞った。
八木地区 法華・禅宗の家では、子どもたちは大豆とカンコロリン(さつまいもを蒸
       し、細く切って干す)の炒ったものを貰いにまわった。 】とある。
『オンノマメ』に親近感を感じます。
2月3日節分
【『津田のくらし』の『四季おりおりのくらし』には、この日の子どもの行動を次のように記している。
加茂の日蓮宗の家には『鬼の豆くれんかかほりだせ、ほりだせ』と言って子どもが廻りました。似たような風習は市内各地にもみられます。荒川地区の禅宗の家では、『鬼の豆くだんせ、くれんかかほりだせ、ほりだせ』と言って廻りましたし、国分寺の檀家には『おばはん豆うっとくれ(投げてください)、豆まだこりこり(焼けていない)一合の豆おしいか』と言って家を廻っています。
 東南部の海岸地域では、『トシマメ オクレ トシマメ カシテ』と囃し、的形では『赤金来い、白金来い』と囃しながら子ども達が家を廻り豆やおやつなどをもらって歩いている。野里・船場・内町の商家では豆や蜜柑などをまいたので子どもは袋を持ってもらい歩いたという。
 このようなことは、冬から春にかわる一年の折り目にかつては神が家々を訪れ祝福して歩くという信仰があったが、その信仰が薄れ、七歳までは神の子といわれる子どもが代って訪れるようになったことを示し、その神への供物が強要の囃となったのではなかろうか。 】とある。


家の前に行列ができる事も


おんど豆とは『施し』ではないかと言い、今現在元気で暮らせて、
このようにできる事を感謝しながら子ども達に渡しておられたお宅にて
興浜のこどもが訪れる事を喜び、また成長を見守っておられます 


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