興浜(おきのはま)で候 

興(こう)ちゃんの手掘り郷土史

興浜歴史資料館 Vol.1

2008年01月07日 | 丸亀藩興浜陣屋

 丸亀藩 網干陣屋門 (興浜歴史資料館) 1


南側道路の姫路市道網干1号線より


陣屋門の後ろ、写真右側が新しい興浜檀尻庫

  ここ興浜には、旧讃岐・丸亀藩の飛び地領当時の名残をとどめる陣屋門がある。龍野藩主京極高和が明暦3年(1657)、丸亀藩移封の後、揖保郡28ケ村などを治めるために設けられた『網干陣屋』の正門にあたり、推定建築年代は寛文年間(1661~1672年)。陣屋が明治3年の廃藩置県で取り壊された後も、興浜村の檀尻庫として生き残っていた。

 現在の陣屋門は昭和61年5月29日に修理復元される事が決定し、その年に解体復元され、昭和62年3月3日に完成式を行った。復元後、内部をミニ資料館、周辺を史跡公園として整備された。復元された陣屋門は間口5間半(10.3m)、奥行き2間余(4m)。ヒノキ、杉、ケヤキをを組み合わせ、白漆喰の外壁には、焼き杉の腰板を張りめぐらしている。京極家の角四ツ目門入りの丸瓦、鬼瓦など屋敷瓦すべてを淡路瓦の特産地西淡町(三原郡)に特別注文して新調した。

 内部はたたき土間、一部が武者窓付き板間になっている。旧陣屋門に使われていた京極家の角四ツ目門入り瓦や興浜に現在も居住する京極家家臣の子孫から提供をうけた品々を展示している。

 


『鶴松亭』の記念碑

 陣屋門は当初、旧揖保川舟付き場付近に西向きに建築されていたが、明治3年以降に東に40~50mの現在地に移築された際、東向きとなっていた。今回さらに道路に面するように南向きに変えられた。公園内にあった豊臣秀吉姫路在城当時の別荘『鶴松亭』の記念碑も陣屋門正面東に移設された。完成式には丸亀市長、京極家39代目当主の京極高晴さんも来られた。

 正徳元年(1711)丸亀藩領郡村高辻帳(村明細帳)によると、興浜村の家数175・人数800。嘉永元年(1848)丸亀藩の「西讃府志」によると家数311・人数1,235であった。

 


平成6年11月の古い説明版


平成19年12月新しくなった説明版

 
陣屋の外郭を現在の地図に合わせているので、わかりやすい

 陣屋門資料館の内部については、春の公開の後くわしくお知らせします。


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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
ご一緒しませんか (興ちゃん)
2008-05-25 09:52:54
春の公開に合わせて記事を書くつもりが、忘れていました。来年の公開までにはがんばります。
よかった一度じっくり見てみませんか。
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楽しみに待っていますね (みー@)
2008-05-24 19:48:27
内部の様子、ブログでの公開はいつかな?

行くたびに少しずつ、資料が増えているようにも思います。テーマを決めて、展示品の入れ替えができるといいのにね。
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