昭和11年に行われた武神祭の貴重な写真を当時興惣代であった太田覚次郎氏のお宅から拝借する事ができた。
タイトル写真は、太田家の玄関に飾られた武神祭に献納する「櫻と橘の造花」と「鬼大鏡餅」である。
武神祭の数日前に興浜住民によって搗かれた餅を当日の朝まで惣代宅の玄関に飾られたのであろうと推測される。
当時は今と違い興浜村の中での集会場所は金刀比羅神社社務所しか無かったのではと想像する。
その金刀比羅神社社務所も確か誰かが住んでいたように聞いている。
従って、現在なら公民館等に保管しておけたが、昭和11年当時は惣代宅となったのであろう。
下の写真はタイトル写真の裏側に書かれていた部分を拡大したものであるが。
「昭和11年3月7日 武神祭 鬼ノ鏡 供進 桜橘造花 鬼鏡餅二石 内 一石鏡 一石配リ餅 太田家」とある。
鬼鏡餅二石(内 一石鏡 一石配リ餅) とある。
1石分を大鏡餅に搗き、1石分を餅まき用の小餅にしたという事である。
一石(いっこく)について書いてみよう。
1合(ごう)≒180ml、10合=1升(しょう)、100合=1斗(と)、1000合=1石(こく)である。
米俵1俵=4斗=400合であるので、1石は2.5俵という事になる。
1俵をkg換算すると60kgになる。従って1石=60kg×2.5=150kgという事である。
現在の武神祭では各村8俵の餅米を使用しているようである。
8俵という事は3石よりも少し多い量である。
上の写真は武神祭での興浜檀尻の貴重な写真である。
魚吹八幡神社楼門前と推察さきる。檀尻の後方に移っているのは東側の燈籠であろう。
この時の前梃子の一人は興ちゃんの亡くなった祖父であると亡くなった祖母から聞いた事がある。
現在前梃子や梃子持ちは赤鬼・青鬼のスパッツを着用したりしているが、当時は色粉を体に塗ってのまわし姿であったようだ。
帰って来てからお風呂で洗い流すのが大変だったと祖母は語っていた。祭りではいつも家族の弁当を造っては渉外のリヤカーに届けるのが精一杯で祭りに行った事が無かった祖母である。
※太田家の方々には貴重な写真を提供して頂き感謝の気持ちで一杯です。
太田覚次郎氏は大正14年10月から昭和24年1月までの期間興惣代として興浜の干拓事業等現在の興浜の礎を造られた偉大な方である。現在太田家の方と共に興浜偉人の一人として調査中である。
「太田家」とは、本町にあるお宅ですか?
また、写真の檀尻は、今、福知村にあるものですか?
今年度も微力ですが興伸会の一人として頑張ります。
70年以上前の画像ですか~とても貴重なお写真ですね。
昔の魚吹八幡神社参道は立派な松の木が並び、とても風情があったと聞きます。
本町にあるお宅です。
昔醤油屋さんで現在の自動販売機が置かれている場所がお店の玄関でそこに飾られていたとの事です。
明治22年製作の福知村で活躍中の今年123歳の檀尻です。
この写真の頃もまだ松並木があったと思うのですが調べておきます。
興伸会活動頑張って下さい。