観察 Observation

研究室メンバーによる自然についてのエッセー

「おもしろいと思うことをやればいい」

2012-09-08 14:42:32 | 12.7
教授 高槻成紀

 昨年の8月、たいへんお世話になっていた菊池多賀夫先生が逝去された。私が東北大学の時代に自然のみかたなどについて教えていただいただけでなく、私生活でもお世話になった。ご命日にまにあうべく追悼文集を編集して、よいものができた。そこに書いた文章の精神は、今麻布大学で学生に接するときの私につながるものがあるので、採録のような形でとりあげることにした。東北大学では老教授以外は先生を「さん」と呼ぶ習慣だった。

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おもしろいと思うことをやればいい:菊池さんから教えてもらったこと

 菊池さんとの思い出はたくさんあるが、多数の寄稿者がさまざまな思い出を語られるであろうから、私は東北大学植物生態学研究室に吉岡邦二先生がおられ、飯泉先生が助教授で菊池さんが助手だったころの学生という立場から、その頃のことを中心に書くことにしよう。
 私が研究室に入ったのはストレートではなかった。今、私は動物生態学を専攻していることになっているから、植物生態学出身ということを不思議に思う若い人もいる。実際、東北大学に入学したのも動物生態学を学ぶためであった。だが当時動物生態学の研究室は栗原康先生が教授でミクロな動物しか対象にできないということだった。私は当惑し、おかしな理屈だが「野外生態学ができるなら」という理由で植物生態学研究室の門を叩いた。飯泉先生が家畜と草原群落の関係を研究しておられたという話をきいて興味をもったのである。
 大学院に入って吉岡先生に相談したら、それなら金華山のシカによる影響を調べてみなさいといわれた。吉岡先生は定年前の最後の年で、たいへんにお忙しく、私たちにはかまっておられないようだった。それでもと思い、部屋の前をうろうろしながら思い切ってノックをして、一度金華山につれていって下さいとお願いした。秋ぐらいだったと思うが、それが実現した。私は緊張しながらごいっしょした。先生は船の中でも原稿を書いておられた。先生は小柄で体はあまり丈夫なようには見えなかったのだが、山を歩くときはひょいひょいと年齢を感じさせない身軽さで歩かれるので、驚いた。ときどき立ち止まっては植物の名前を教えて下さった。当時、院生は広木詔三さんと平慎二さんの二人だけで、ほかの研究室に比べると少なく、活気が乏しいと感じていた。セミナーなどもなかった。
 修士の二年生になったら、飯泉先生が指導して下さることになった。相談にいくと「金華山は山だけど、山であることよりも、島であることのほうが意味が大きいのですよ。違いますか。」とおっしゃった。私はその言葉は覚えているが、意味はよくわからなかった。当時はの私は先生に研究のことを相談するということはほとんどしなかった。というより距離がありすぎてできなかった。
 菊池さんはときどき自分の調査に私たちを連れていって下さった。日比野紘一郎さんや山中三男さんや三浦修さん、それに地理学教室の牧田肇さんなどと交流があり、皆さん「ネコさん」と呼んでおられたが(飯泉先生だけがアクセントが違い「ネコさん」と「ネ」のほうを高く発音された)、私はそれは慣れ慣れし過ぎるのではないかと抵抗があり「菊池さん」と呼んでいた。菊池さんと調査に行くと、ばりばりデータをとって、調査地から調査地に急いで移動するという感じではなく、むしろ山道を歩きながら気づいたことをポツリポツリと語られ、そういうことから教えてもらったことが多かったように思う。
 先日も学生を連れて山を歩きながらハクウンボクをみつけて、その枝を見ながら、菊池さんが「ハクウンボクの枝は妙に皮が剥げるんだよな」と言われたのを思い出した。そして同じように私は学生にそのことを伝えた。
 植物についてのそうした知識も菊池さんらしいが、菊池さんの菊池さんらしさは、林や山をもう少し大きく見る視点にあったと思う。当時私は土壌や地形に興味をもつことができなかった。それらが植物にとって重要であることはわかるが、それはむしろ当然のことであって、生き物のおもしろさはそこにあるのではなく、そうした基礎に立って、そこで暮らす植物の生き方の巧みさとか、それが動物とどう関係するかということを見いだすことにあるのだと思っていた。だが、菊池さんに山につれていってもらううちに、だんだんと「植物の下側」のおもしろさがわかってきた。
 「トチノキは谷を背負って生えている、と表現していたんだ」と自分が若い頃にとらえていた植物と地形の関係についての直感を語っておられたのを憶えている。それは崖錐のことを説明するときで、崩落を含む岩等が集まって崖錐を作り、その下には水が流れていて、そういうところにトチノキとかサワグルミとかジュウモンジシダなどがよく出てくることを説明しているときだった「背負って」というのは直感だが、調べてみるとそれはトチノキが生えているところの後ろには必ず崖錐があるという原理のあることがわかる。調査はそうしたことを裏付ける作業だが、減少を発見するにはそうした直感をもつことが大切だということを言いたかったようだ。
 当時、植物生態学では群落分類学が勢いがあった。というより、植物生態学すなわち群落分類学だという雰囲気が被っていた。群落記載とは種の出現の記述であり、その組み合わせで「分類」するというものだ。それは「なぜ」を説明するものではなく、私は全然興味をもてなかった。私は菊池さんもそういう研究をしておられると思っていた。
 飯泉先生は教授になられるとセミナーを開かれた。講義でしか話を聞いていなかった先生方が発言されるのを聞くのは新鮮だった。それで少しずつ気がついてきたのは、群落分類学だけが植物生態学ではないらしいということ、どうやら飯泉先生はそういう流れに批判的であるようだということだった。私は生意気な学生で、今西錦司やそのスクールの研究者の本や論文をよく読んでいて、憧れてもいたから、東北大学のいわば手堅く、地味な学風に不満感があった。吉岡先生は穏やかな人柄だったが、今西錦司の話になったとき
「あれはエッセーだから」
とやや強い調子で言い、続けて、それよりは事実を重んじてデータを十分に示すことこそ重要だと言われた。
 飯泉先生の研究は多彩であるが、私は「ウマタテバ」関連をよく読んでいた。ウマタテバとは牧場などで、家畜がよく集まる場所のことで、そこは踏みつけによって裸地化するが、同時に特異な群落になる。飯泉先生はそれを家畜が種子を運んで糞をするからだということを実証的に示す研究をされた。一連の論文には「なぜ」に答える精神があった。「ウマタテバは牧場のヘソなんですよ。」と言われた。私は
「そういう植物生態学もあるのか」
と意外に思い、しかもそういう研究をしていた先生が自分の指導教官であることが不思議な気がした。講義では一度も聞いたことがなかったからである。
 ある日、シカの行動圏の調査について雑談をしていたら、「高槻君、今西を読んでいるらしいね。私がウマタテバをやっていたときね、学会でウシの社会性の話をしたら、今西さんがえらく評価してくれてね」
と言われて、驚いた。その後も、私が博物学的なことに興味がありながら、そういう生態学は今どきしてはいけないのだと呑む込むようにしているのをみて、おもしろいと思うことをやればいいと背中を押すような発言をされたことがある。菊池さんはお茶を飲みながら雑談をするのが好きで、私もよく参加した。飯泉先生はめったに合流されなかったが、ごくまれに突然参加され、驚くほど楽しげに話されることがあった。あるとき、先生が南方熊楠について熱く語られてまたまた驚いた。それまで飯泉先生は生理生態学などを鋭利に解析するような研究が得意だと思っていたからである。そのときどうやら南方のような複雑系に興味があるのかもしれないと思ったが、先生はその後「イグネ」などに興味を示されて、私は得心した。先生が熊楠を「ノウナン」と発音されたのを憶えている。
 しばらくして、菊池さんは完全に博物学的だということがわかった。それだけではない。私は研究の参考にするために今西、梅棹忠夫、吉良龍夫、伊谷純一郎、河合雅雄などを熟読していたが、当然の流れとしてそのスクールの社会学系のものも読んでいた。ただ後者はいわばファンとして読んでいたにすぎなかった。ある日、菊池さんが
「高槻、中尾佐助が来ることになったよ」
と嬉しそうに話された。教室セミナーという外部講師を招くセミナーがあったのだが、そのひとりとして農学者の中尾佐助を呼ぶことになったというのだ。中尾は農学者というより、「東亜半月弧」の提唱者の一人であり、後の照葉樹林文化論へと発展する理論体系の基礎を作った大学者である。その中尾の招聘の提案を菊池さんがしたということだった。菊池さんは農業にも深い興味をもっておられて「日本農業史」の厚い本が部屋にあった。
 研究者として専門的な部分はきちっと押さえながら、もっと幅広く勉強する。それはいわば知的な楽しみで、菊池さんにはおもしろいことであれば、専門と「周辺」にあまり境界がなかったように感じる。
 調査に行くと、少し早めに切り上げて、こけしの職人の仕事場に寄ることがあった。菊池さんはこうした伝統的な職人の仕事が好きで、みやげ店で買うのではなく、仕事場で職人の顔をみて、話をして買うというふうだった。自分で轆轤を手に入れてこけしや独楽を自作するほどだった。器用な人だった。私のみるところ、器用な人にはどちらかというとものごとをきちんとするのが好きで、字なども活字のように楷書で書かないと気がすまないという人と、仕事には夢中になるが形式にはこだわらない人がいるようだ。菊池さんは後者で、字は達筆で行書だった。ペンよりは筆を、金属よりは木材を好む人だった。
 マングローブの調査で西表島につれて行ってもらったとき、もちろん地形と群落のことを懸命に調査したのだが、菊池さんは西表の若者が夕方に蛇皮線をひきながら民謡を歌うようすを
「あれがいいんだよ」
と、研究室では見せない表情で話された。菊池さんは民謡もうまかった。
 植物の研究と道楽としての木工や民謡にも、知的な楽しみという通底するものがあって、菊池さんの中ではその境界もあまりなかったように思う。
 菊池さんは後に学会の会長を務められたが、大きな組織で大声で影響力をふるうというより、気心の知れた小さなグループで、あまり大きくない声で話しながら、じっくりと研究をするというスタイルを好まれたように思う。そして、そういう人のつながりを大切にされた。
 大切にされたといえば、菊池さんがお気に入りのこけしを手にして、なでるようにこけしの表情を眺めるようすとか、愛用のカメラを左手に持ち、右手でレンズを持つときのようすなどが、懐かしく想い出される。

 私は研究や道楽ということだけでない部分でも菊池さんから教えてもらったことがたくさんあるし、学生への接しかたなどにも思うことがあるのだが、紙数も尽きたし、それは他の寄稿作品から読み取れるに違いない。私は学生時代の植物生態学研究室の空気と、三十代の若い菊池さんから、既成の学問枠にとらわれずに、自分がおもしろいと思うものをそのまま追求すればよいということを教えてもらったことを書いて筆を擱こうと思う。学生時代に菊池さんに邂逅できたことは、実に幸いだった。私はこれからも野山を歩き続けるが、これまでもそうだったように、ときどき菊池さんのあの穏やかな笑顔を思い出し、菊池さんがして下さったように、力まず、しかし惜しみなく若い世代に伝えていこうと思う。そうすることが菊池さんの精神を伝えることになるように思えるから。菊池さん、ありがとうございました。安らかにお眠り下さい。




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