先日参加した一夜城の散策の折 ガイドさんから教わったのですが、
戦国時代の小田原城には、石垣も 水をたたえたお堀も なかったそうです。
北条氏は城下町全体を広く土塁で囲み、土塁の外はV字の深い溝(水が無いので「空堀」というそうです)を掘っていたのですって。
関東ローム層の赤土は 崩れにくく、場所によっては15mもの防壁が作られていたのだとか。
日曜日、城山の西にあるという空堀の遺構「小峯の大掘切(こみねのおおほりきり)」へ行ってみました。
相洋学園の西の辻に その遺構はありました。
↑車やバイクが入らないように柵が設けられていますが、ちゃんと人間用の入り口が設けられています。
長い年月の間に溝は埋まってしまったようですが、それでもかなりの高さ!
「矢折れ」もシャープなラインを残しています。(右側が「城山」)
射手が狙いやすいようにわざと張り出しを作っている訳、です。って写真ではよくわかりませんねー・・・。
ここは太閤の「一夜城」が 谷の向こうにはっきり見えたと思われる場所。
ここに立った兵士は きっと緊張した面持ちで敵の城を眺めたのでしょうね。
知らずに歩けば、落ち葉の積もった 味わい深い小道ですが__
この日はこの後 板橋方面へ山を下ってみました。
戦国時代の小田原城には、石垣も 水をたたえたお堀も なかったそうです。
北条氏は城下町全体を広く土塁で囲み、土塁の外はV字の深い溝(水が無いので「空堀」というそうです)を掘っていたのですって。
関東ローム層の赤土は 崩れにくく、場所によっては15mもの防壁が作られていたのだとか。
日曜日、城山の西にあるという空堀の遺構「小峯の大掘切(こみねのおおほりきり)」へ行ってみました。
相洋学園の西の辻に その遺構はありました。
↑車やバイクが入らないように柵が設けられていますが、ちゃんと人間用の入り口が設けられています。
長い年月の間に溝は埋まってしまったようですが、それでもかなりの高さ!
「矢折れ」もシャープなラインを残しています。(右側が「城山」)
射手が狙いやすいようにわざと張り出しを作っている訳、です。って写真ではよくわかりませんねー・・・。
ここは太閤の「一夜城」が 谷の向こうにはっきり見えたと思われる場所。
ここに立った兵士は きっと緊張した面持ちで敵の城を眺めたのでしょうね。
知らずに歩けば、落ち葉の積もった 味わい深い小道ですが__
この日はこの後 板橋方面へ山を下ってみました。