年末、アタマに浮ぶ言葉の一つに「星霜」があります。
今は死語に近いかもしれませんが、年月や歳月より味わい深い。
幾星霜という使い方もあります。
星霜移り人は去り・・・。
これはたしか旧制一高の寮歌の一節。
古い本には、星霜を閲する、という用例も出てきます。
閲する、は、けみする、と読む。
けみする、と入力すると、閲する、と変換してくれるので、そうそう特殊な読み方でないのかも。
星霜を閲するは、年月を経る、ということ。
閲する、は読む、調べることにも用います。
その場合は、閲(えっ)すると読み、図書館の閲覧室やネット閲覧などでお馴染み。
ネット閲覧するソフトがブラウザ・・・これは余談です。
「星霜」はおそらく漢語?
歳月のほうは陶淵明の漢詩にあります。
・・・一日再びあしたなり難し 時に及んで当に勉励すべし 歳月人を待たず
「年末」よりは「年の暮れ」や「年の瀬」のほうが風情があります。
年の瀬や水の流れと人の身は・・・討ち入りの日はもう過ぎました。
ともかくもあなたまかせの年の暮れ・・・これは一茶の句。
今年最後のテクノの利用相談。
次の金曜日は年末の休館になるので、昨日は誰も利用出来るフリーの相談日でした。
が、暮れも押し迫ってきたせいか、利用者の数は少なさそう。
1時過ぎてからいつものように1Fのレストランでレイトランチ。
いつもは2種類ある日替わりランチがこの日は1種で、ステーキランチ。
ここのステーキはちょっと薄くて硬かったことを思い出し、ちょっと逡巡・・・。
他に食べたいと思うものもなく、結局それを注文。
しばらくして、エビ反りみたいなかっこうのステーキが出てきました。
薄い割にはナイフで切るのに大きな抵抗・・・安い肉を使っているな。
デザートとコーヒがついて680円のステーキじゃ文句は言えません。
よく噛まないと食べられないところも、アゴが丈夫で健康になっていいかも・・・。
デザートとコーヒーがいつもより美味しかったのは肉のおかげ?
1F事務所に立ち寄り、1月の申込状況を訊きました。
広報紙が出たばかりで、まだ4件ほど・・・来週、また教えてもらうことに。
3人の職員を相手に小一時間ほど油売り。
パソコンステーションに戻ってお仕事。
パソコン持ち込みの高齢のご婦人が手を挙げられたところに居合わせたので対応。
「わたし、92歳なんですよ」
えっ、大正のお生まれですか。
「大正13年」
自ら年齢を仰言られて、もしかして、わたしは同年輩に見られたのでしょうか・・・。
で、話をされたのがツェッペリン号を実際に見たという話。
あとで調べてみたら、このドイツの飛行船が茨城県の霞ヶ浦に寄港したのが1929年。
そのご婦人が5歳の時のこと・・・空飛ぶ化物のことを覚えていても不思議ではありませんが。
この活動を始めて以来、92歳はパソコンする人の最高齢者です。
この先、常連さんになられるなら、昭和初期の歴史でも勉強しておかないと・・・。
ともかくお達者でよいお年をお迎えください。
糸魚川市の大火、地震などの災害をのぞけば、ここ20年で最大の140棟に延焼。
最大24メートルの強風や、フェーン現象による乾燥がわざわいしたようです。
年が押し詰まった寒い中、住むところを失くした人たちに深く同情します。
小学生の頃、住んでいた新潟市にも大火がありました。
夜、信濃川をはさんだ西の市街地の空が一面、真っ赤に燃え広がっていた光景を覚えています。
調べてみたら1955年(昭和30年)のことでした。
台風通過後の強風にあおられて、市街地中心部の広い範囲に延焼。
県庁、県農協、新聞社、放送局、市役所、百貨店2つ、郵便局、銀行・・・。
およそ900棟の建物が焼失しました。
その大火をきっかけに市内を流れていた西堀、東堀などの掘割が埋められて道路になりました。
今、思えばクルマ社会に向かっての都市改造のきっかけだったのでしょう。
子供心にも気に入っていた堀とヤナギの街並みが消えてガッカリしました。
大火後数年、再興された商店街の2階建ての書店。
待てど暮せど待ち人来たらず、哀しい青春の一コマもありました。
ふるさとは遠きにありて思うもの・・・。
年忘れにはちょっと早いので、物忘れの話を。
ケータイを忘れ、メガネを忘れ、サイフを忘れ、予定を忘れ・・・。
忘れ物には事欠かない一年でした。
と思ったことも、1時間すれば忘れてしまうでしょう。
生きていることを忘れないのがなぜか不思議です。
そのうち、夢か現か幻か、なんて状態になり・・・それも老人力の現れかもしれません。
脳のある部分に電気刺激を与えると、記憶のフラッシュバックが起きる。
その実験から、記憶と神経細胞(ニューロン)とは対応付けがある。
一時期、そのように考えられたこともあったようです。
が、今は、個々のニューロンが個々の記憶の貯蔵庫ではない、と考える研究者が殆ど。
記憶は過去の正確な記録ではなく、その都度の状況に応じて新しく構成される。
そう唱える研究者もいます。
たしかに、自分の記憶がほんとうにその通りだったか、なかなか確信は持てません。
何かのきっかけで思い出し、その時の状況を含めて再度記憶され直す。
そう考えたほうが実感にマッチするようにも思います。
また、記憶とは単にものを覚える、というだけのことではなさそうです。
あの時、あの場所で・・・時間や場所などと一体となって記憶は構成されている気がします。
冬至が過ぎた日の朝、何年か前にも同じようなことを書いていた・・・とか。