近頃、高校の必修科目の未履修が問題となっている。世界史や情報といった必修科目の授業時間にそれらを教えず、数学やその他受験に必要な科目を教えていたという問題だ。
この問題の一因には、有名大学に何人合格したかといった点でしか高校が評価されないことにあると思う。その評価の仕方は簡単で分かりやすいが、受験偏重主義に陥る。それは受験に必要か必要でないかでものの価値を決める考え方である。筆者も高校生の時はそのような考えをしていた気がする。世界史や倫理の授業中にこっそりと数学の勉強などをしていたものだ。その時には世界史や倫理など受験で使わないのだから勉強する意味は無いと思っていた。こういった意識が今回の問題を引き起こしたと思う。
理系科目は受験という強力な動機で勉強できたが文系科目はほとんどやらなかった。勉強してもそれを活かせる機会が無かったからだ。活かせる方法を考えれば良かったが、受験生にそんな余裕は無かった。日本史や世界史について何事かを語る機会、もっと砕けて雑談程度にでも話すようにすればよかった。もっと日本史や哲学について話し合っても良いと思う。
筆者は最近、世界史や日本史といった高校の時になんらの価値をも見出せず一顧だにしなかった科目の勉強を再び始めたいと思う。なぜならJ・S・ミルが言う様に「知識人はあらゆることについて何事かを知っており、何事かについてあらゆることを知っていなければならない」から。文責トミヤマ
この問題の一因には、有名大学に何人合格したかといった点でしか高校が評価されないことにあると思う。その評価の仕方は簡単で分かりやすいが、受験偏重主義に陥る。それは受験に必要か必要でないかでものの価値を決める考え方である。筆者も高校生の時はそのような考えをしていた気がする。世界史や倫理の授業中にこっそりと数学の勉強などをしていたものだ。その時には世界史や倫理など受験で使わないのだから勉強する意味は無いと思っていた。こういった意識が今回の問題を引き起こしたと思う。
理系科目は受験という強力な動機で勉強できたが文系科目はほとんどやらなかった。勉強してもそれを活かせる機会が無かったからだ。活かせる方法を考えれば良かったが、受験生にそんな余裕は無かった。日本史や世界史について何事かを語る機会、もっと砕けて雑談程度にでも話すようにすればよかった。もっと日本史や哲学について話し合っても良いと思う。
筆者は最近、世界史や日本史といった高校の時になんらの価値をも見出せず一顧だにしなかった科目の勉強を再び始めたいと思う。なぜならJ・S・ミルが言う様に「知識人はあらゆることについて何事かを知っており、何事かについてあらゆることを知っていなければならない」から。文責トミヤマ
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