六畳の神殿

私の神さまは様々な姿をしています。他者の善意、自分の良心、自然、文化、季節、社会・・それらへの祈りの記。

さだまさしのトークから

2008年12月07日 | 心や命のこと
 ネタバレ注意です。
 ・・ったって、35周年記念コンサートツアーは私が行った12月4日で千秋楽だったのだから、もうバラしても問題ないのかな??

 それとも、版権とかに抵触しちゃうだろうか。

 ちょっといろいろ考えてしまったので、トークの要旨だけ引用しまして、あと私の意見などを書きたいと思います。

 12月4日のコンサートの模様はwowwowか何かで放送予定みたいなので、もしそれを観るのを楽しみにしている方は、この先は読まないで下さいね~。

 ・・長々と前置きしたから、このくらいでイイ?

 さて。
 いろいろ考えてしまった「まっさんトーク」とは。

 例の、秋葉事件の犯人についてのまっさんの想い、でした。

 まっさんがコンサートの間中しつこくシツコク繰り返していたように【意見には個人差があります。】これはあくまで、まっさんのトークを聴いての私の考えです。

 まっさんはこんな内容の話をした。
 『罪は許されない、それはもちろんだけど、それとは別に。たとえば、目の前で小さな子供が流されて溺れているとする。自分が手を差しのべればその子は確実に助かる。いきなりそういう場面に遭遇した時、秋葉事件の犯人の彼だったらどうするだろう?わかんないけど、オレは、彼だってとっさに手を差しのべると思うんだよね・・甘いと言われるかもしれないけど、オレはそう信じたい。』

 私は、その意見にはうなずけなかった。どうしても。

 人の中の善を、私も信じたい。
 でも、あの犯人が『あのまま』では、無理なんじゃないかなと思った。

 いきなりそういう場面に出くわした時。
 周囲に誰かいてその場を見ていたら、彼は手をさしのべ子供を救うだろう。
 でも、周囲に彼と子供の他に誰もいなかったら? さしのべないかもしれない、と私は思った。だってそれほどの暗黒が彼の中に無ければ、あの無差別事件などおこせるわけがないもの。

 逆に。
 周囲で誰か見ていて、彼が手をさしのべて子供を救う(救わざるを得なくなる、でも良い)・・そういうたぐいの『英雄体験』が、彼の人生の中でひとつでもあればよかったのに・・と、しんみりしてしまった。

 たったひとつ、他愛ない出来事でもいい、彼が注目されて、褒められて、「うん、オレってなかなかイイかも」とほっこりできるような体験が、あったらよかったのに。そしたら、あんな事件をおこして、尊い命が失われたり、彼自身の人生が破滅せずに済んだかもしれないのに。
 そんな奇跡的な偶然に恵まれなかったのも、彼の運命だったのだろうか・・。

 あるいは、事件直前、作業服がないとキレて暴れた時なんかに「おい、ちょっと来い」と無理矢理連れだして「いいから飲め ぜんぶぶちまけろ」と言ってくれる男気のある人が、周囲にいたらよかったのに。

 罪は罪。個人の責任。
 それはそうなんだけど、その過程にもっと何か回避の手立てはあったんじゃないかと。とても些細で、個人的だけど、重要なことが。時と共に積もり積もってゆく、目に見えない、とりかえしのつかない、何か。

 それを担っている社会の成人のひとりとして、これは誰もが考えなければならない教訓。なのにそれを自らの問題として考えてみようとせずに「人間の根底の善を信じよう」と呼びかけるだけでは、やっぱ甘すぎると思う。

 また、それを社会システムの問題だ経済格差だとそっちの方向に振り向けようと騒ぐのも、卑怯だと私は思う。

 抽象的すぎる話になっちゃった。

 後日、私自身の実例をひいて、もうちょっと書きます。



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