Wildlife management is really about human management. 野生動物管理とは、動物にかかわる人間の在り方をどうこうする科学である。
今年7月下旬、札幌で「野生動物管理学術会議」という国際学会が開催されました。
「野生」動物を「管理」するという、そもそもの語義の矛盾。(人の管理下においたらそれは厳密な意味では野生ではないでしょう?) この部分はどんな共通認識のもとに、この学術会議は成立しているのか。その前提を了解しないまま参加しても、結局は議論の焦点をつかめないまま何も得るものなく終わるのではないか。そう思って、ぎりぎりまで参加をためらっていました。日本側主催者のメンツがアレでしたし。
でも実際参加してみたら、研究者の間では(日本の一部研究者の方々はともかく) 冒頭の認識が世界の趨勢であると分かったので、それが分かっただけでも参加してよかったです。得るものもあったし、こんななら、発表だってしてもよかったかも、と思いました。
そこで実感した、日本と諸外国との違い。
いろいろ思うことはあるのですが、一番感じたのが、科学者の「質」の違いでした。質、というのが当たっていなければ「姿勢」の違い、というのかな。
諸外国の科学者は、純粋に科学的な視点でものを語ろうとし、社会的な要請と科学的事実との線引きを混同したりしない。
また、自分と対立する理論に対して、安易に妥協はしない。言うことは言う。でも相手へのリスペクトは保持し、かといって卑屈になったり下手に出て阿ったりしない。相手が学生だろうと素人だろうと軽んじたりはせず、でも手加減もなし。まるでスポーツや格闘技みたいな感覚。だから話していてとてもすがすがしいし、対立してもわだかまりがない。それどころか、同じことに情熱を傾けている相手として、論敵に対して敵愾心どころか親しみさえ覚えてしまう。
ところが、日本の研究者は、何かこう、あるんですよ、裏に。
ある人がぽつりと「こういう国際会議なら、何の気兼ねもなく発表ができる。でも、自分の調査地周辺でタウンミーティングなんかした場合の発表なら、こうはいかない。ものすごく慎重に、言葉も選ばないと」って。
科学者が、科学的な事実を自由に語ることが許されない。言葉を慎重に選ばなければ語らせてももらえない。それが日本の現実なんだなぁ、と。
だから、社会的な文脈は脇に置いて純粋に科学的な議論をしようとするこちらに対し、あからさまに冷笑的な態度をとる研究者がいる。思うようにふるまえない自分の鬱屈をこちらにぶつけるかのように、上から目線で、頭ごなしに。
・・・でもそれって「科学」じゃないでしょ?「政治的かけひき」「行政手法」でしょ。
日本の科学者は、自分が何をやっているのかの自覚が、あまりになさすぎると思いました。
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