風になりたい

自作の小説とエッセイをアップしています。テーマは「個人」としてどう生きるか。純文学風の作品が好みです。

『ベトナムの風 父の風』 第一話 『ベトナムの風』

2015年08月04日 07時16分00秒 | 純文学小説『ベトナムの風 父の風』

 ベトナムの風

 使い古した莚から褐色の足首が出ている。
 二本の足首は亜熱帯の勁(つよ)い陽射しを艶やかに照り返し、まるで喧嘩別れでもしたみたいにそれぞれ不自然な方向へ向いていた。檸檬色のビーチサンダルが足元にひっくり返っていた。
 莚は灰色に変色して四周の端がぼろぼろにほつれている。強い風が吹けばばらばらになってしまいそうだ。足首の反対側では赤錆色の血が流れ、焼けたアスファルトの上にどろりと溜まっていた。僕は、父さんの遺したベトナム戦争のドキュメンタリー写真を想い起こした。
「ハイティーンの男の子だわ。かわいそうに」
 イファが悲しそうに小さな口許を手で押さえた。イファは小柄でのんびりとした面差しの女の子だった。つぶらな小さな瞳をしていて、時折、ふと少女のようなあどけないまなざしをする。真面目でやさしい中学生の女の子がそのまま大人になったようだ。彼女は暑い国ばかり半年ほど旅行していたそうで、顔は幾重にも日焼けしている。インドで買ったという鮮やかな柄の更紗を腰に巻いていた。
「見たの?」
 僕は訊いた。
「うん、さっきね。――マモルが来るちょっと前に農夫が莚を持ってきたのよ。それまでは倒れたままだった」
 一〇〇ccの赤いバイクが莚の傍に転がり、砕け散ったヘッドライトの破片がきらきら光る。ハンドルが不気味にひしゃげ、へこんだエンジンからオイルが滲み漏れていた。バイクの前には、黄色いダンプカーがハンドルを切って斜めになったまま停まり、ほかの車に通せんぼをしていた。
「筵の周りだけ、時間が止まっているみたいだね」
 僕がつぶやくと、
「とまっているわよ。男の子は死んだんだもの」
 と、イファはひっそり合掌する。
 父さんがこの国で死んだ時も、こんな風に莚を掛けられていたのかもしれない。そう思うと胸が疼く。いたたまれなくなった僕は筵から目を逸らした。青い稲が揺れる田圃のなかにアスファルト道が向こうの丘へ真っ直ぐ延び、バスやトラックが数珠繋ぎに並ぶ。遠くで陽炎が揺れた。深く澄んだ蒼穹にちぎった真綿のような白い雲がぽつりぽつり浮かんでいた。
 お揃いの赤い野球帽を被ったベトナム人の若い男が二人、見物人の輪に割りこんだ。二人ともかなりの長身でTシャツに短パン姿だった。面白おかしそうに莚を指差しては長い腕を振り回し、大きな声で愉快そうにはしゃぐ。
「時間がかかりそうだね」
 僕は言った。ベトナムでは交通事故の時、車を道の脇へよせたりせず、そのままの状態で警察の処理が終わるのを待つのだといつか父さんが言っていたことを思い出した。
「警察が男の子の家族を捜しているんですって」
 イファはかすれた声で言い、筵をじっと見つめたまま身じろぎもしない。
 僕は今朝、カンボジアのプノンペンでサイゴン行きツーリストバスに乗った。十一人乗りのミニバスが二台用意してあって、乗客は全員外国人のバックパッカーだった。東洋人もいれば西洋人もいた。席に坐って出発を待っていると旅慣れた感じの女の子が、
「アニョハセヨ」
 と、韓国語で僕に声をかけて隣に腰掛けた。それがイファだった。
「Hi, I`m a Japanese」
 僕がほほえみながら英語で返すと、イファはびっくりした顔をして小さく舌を出し、「Sorry」と照れ笑いした。
「食べて」
 イファはビニール袋に入れたフランスパンを僕に勧める。フランスの植民地だった影響からプノンペンの街角ではあちらこちらでフランスパンを売っていた。
「ありがとう。でも、いいよ。さっき朝食を食べたばかりなんだ」
 僕は断ったのだけど、
「遠慮しなくていいから。男の子はたくさん食べなくっちゃいけないのよ」
 と、イファは僕にフランスパンを手渡した。焼き立てのパンは温かい。僕は礼を言ってフランスパンを齧った。お腹が温まったおかげで、今日はついにベトナムへ行くんだぞと昂(たかぶ)っていた気持ちがほっこり落ち着いた。
 プノンペンを出発してから舗装の壊れたひどい道を走って河をフェリーで渡り、またでこぼこ道を走った。プノンペンから離れればはなれるほど道は悪くなり、窓ガラスが土煙に濁る。僕とイファはアンコールワットやプノンペンでの旅の体験を楽しくおしゃべりしていたのだけど、そのうち悪路にくたびれてしまい二人ともぐっすり眠りこんだ。
 プノンペンから七時間ほど走り、午後二時頃、ようやくベトナム国境に着いた。僕は揺れと暑さでくたくただった。バスを降りて重いバックパックを背負いながら徒歩で国境(ボーダー)を越え、待機していたベトナム側のバスに乗り換えた。こちらは大型の観光バス一台だった。出発して十分ほど走ったところで、バスはトラックの列の最後尾について停まってしまった。十分経っても走り出す気配がないから、僕はどうなっているのだろうと様子を見にきたのだった。
 野次馬が増えた。地元のベトナム人もいれば、ツーリストバスの乗客もいる。
 イファは、プロレスラーのような逞しい体格をした西洋人の若い女の子に話しかける。彼女はまぶしい金髪を兵隊のように短く刈り込み、迷彩色のタンクトップにアーミーパンツで身をかためていた。
「スウェーデンからきたんだって」
 イファは僕に言い、
「こちらはジャパニーズよ」
 と、僕を紹介した。
「にているねえ。コリアンもジャパニーズも見わけがつかないよ」
 スウェーデンの女の子が野太い声で愉快そうに笑うと、
「わたしも区別がつかないのよ。けさだってマモルのことを自分の国の人と間違えちゃったし」
 と、さっきまでショックを受けて悲しそうにしていたイファもようやく笑った。
 赤い野球帽のベトナム人たちがスウェーデンの女の子を指差し、なにごとかを陽気に話しかける。彼女が手を振ると、ベトナム人の二人は両手を頭の上で叩いて欣(よろこ)んだ。一人が腕を上げて二の腕に瘤を作ってみせる。彼女は、負けないよとでも言いた気な顔でウエイトリフティングのポーズを作った。
 突然、赤い野球帽の一人がしなやかに身を躍らせ、莚をさっと捲った。
 莚は想いの外、高く舞い上がる。
 仰向けの死体は腰のあたりから下が折れ曲がり、かっと眼を見開いたまま首を横に向けている。莚はふわりと影を落として覆い被さったのだけど、莚の位置がずれて血糊のこびりついた側頭が露(あらわ)になった。僕は死んだ男に近づき莚を正した。アスファルトが焼けついているから、血の焦げた匂いがした。
 野球帽のベトナム人たちは自慢げに拳を突き上げ、二人でハイタッチをしてはしゃぐ。
 ――死体を弄ぶだなんて。
 僕は首を振り、見物人の輪を離れた。
 道路の端に立って水田を見渡すと、竹で編んだ円錐形の菅笠をかぶった老人が膝上ほどの高さに並んだ稲のなかでせっせと草抜きをしている姿が見えた。田圃の向こうには瓦で屋根を葺いた高床式の家が建ち、誰かが軒先に吊り下げたハンモックで昼寝をしている。僕はひとつ伸びをしてから、心に刺さった何かを抜こうと深く息を吸った。強く青く、稲の匂いがする。
「ベトナムは好いわね」
 イファが肩を並べた。
「そうだね」
 僕はあいまいに相槌を打った。
「道が舗装してあるし、稲も植わっているわ。なんだかベトナムへくるとなにもかもが急に明るくなったみたい」
 カンボジアはすべてが赤茶色に染まり荒涼としていた。田圃も畑も道も荒れ果てたままだった。ベトナムもカンボジアも降り注ぐ陽光は同じはずなのに、国境を跨いだだけでイファの言うとおりなにもかもが変わった。
 そよ風がやさしく吹く。
「好い風ね」
 イファが腕を広げるから、僕も同じようにしてみた。
 瞳を閉じて体いっぱいで風を受ける。
 爽やかな風の粒が身体を吹き抜ける。
 ベトナムの風は軽やかだ。まるで森林浴をしているみたいで空気がおいしい。僕の田舎も空気のきれいなところだけど、こちらのほうが味わいが深いような気がする。森や林に植わっている木の種類が多いほど空気は味わいを増してよりおいしくなる。たぶん、このあたりにはいろんな木が生えているのだろう。
 父さんはきっと、ベトナムのこの風が気に入ったに違いない。
 この風を好きになってベトナムと関わり続け、この国で死んだのだろう。仏間の額縁で三十七歳のままでいる父さんの顔を想い浮かべた。僕が子供の頃、父さんはベトナムから帰ってくると土産物に買ってきた竹細工の玩具で一緒に遊んだり、ベトナム産の蜂蜜を一緒に舐めながらベトナムの話をしてくれたりしたものだった。
 ふと眼を開けると、七歳くらいのベトナム人の少年が僕たちの横で真似をしていた。少年と眼が合う。彼は白い歯を出して笑った。肌の色が濃いぶん、歯の白さが際立つ。それが少年の健やかな笑顔を一層まぶしいものに見せていた。少年はいい遊び相手を見つけたという風に甲高い声でなにごとかを言い、じれったそうに僕の腕を取ってじゃんけんの仕草をした。僕がグーを出すと少年はパーを出して勝ったと喜ぶ。後出しなのに無邪気にはしゃぐ彼がかわいかった。
 僕は少年とイファにあっちむいてほいを教え、三人で遊んだ。
 じゃんけんで勝った時、トンボを捕まえるように指をぐるぐる廻してどこへ向けるのかわらないようにした。少年は厚い唇を嬉しそうに結び僕の指の動きを追いかける。
 さっと上へ向ける。
 少年はつられて空を仰ぐ。
 とびきりの笑顔が弾けた。
 しばらくそうして遊んだ後、少年は「もう行かなきゃ。また遊んでね」というようなことを元気よく言って駆け去った。
「かわいい子ね。うちの甥っ子みたいだわ」
 イファは楽しそうに肩をゆらして目を細める。
 少年はふと立ち止まって振り返り、ちぎれんばかりに手を振った。僕とイファも「元気でね」と叫びながら手を振り返した。彼と出会い、じゃんけんをして遊ぶことはもう二度とないのだろう。一期一会。少年の後姿が愛しかった。
「のどが渇いたね。なにか飲もうよ」
 僕はイファを誘って道端の小さな売店へ入った。
 竹で作った粗末な小屋の軒先に冷蔵庫を置き冷たい飲み物を売っている。店の棚には缶詰や蚊取線香や洗剤といった日用雑貨が並んでいた。僕とイファはガラス瓶のオレンジジュースを買って店先の長椅子に座った。椰子の葉で葺いた屋根が張り出して日蔭になっている。日向(ひなた)にいると汗ばむほどだけど、蔭へ入れば涼しかった。
 透明な瓶にストローを挿す。
 子供の頃に駄菓子屋で飲んだような甘ったるい味だった。
 イファはジュースを飲みながらサイゴンへ着いてからのことを話し始めた。バスはサイゴンのファングーラオ通りという安宿街に着くらしい。そこには一泊三ドルのゲストハウスが軒を連ねているので、陽が暮れてからサイゴンへ到着しても宿に困ることはないそうだ。
「ベトコンツアーが面白いって聞いたわ。クチトンネルっていうベトナム戦争のときにベトコンが掘った地下トンネルへ入るんだって。そこがベトコンの基地になっていたそうよ」
「そういえば、僕の父さんがそのトンネルへ入ったって話してくれたっけ」
「お父さんもベトナムを旅行したことがあるの?」
「旅行じゃなくて、仕事でしょっちゅうきていたんだ」
「旅行ガイドなの?」
 イファは楽しげにころころと笑った。
「戦場カメラマンだったんだ。ベトナム戦争を撮影していたんだよ」
「すごいわね。銃弾のなかを潜り抜けるなんて、ジャパニーズスピリットの塊ね」
「そんなんじゃないよ。どこにでもいるごく普通の人だよ。でも、ベトナムから帰ってくるとちょっと怖かったかな。そばに近づくとなんだか怒られているような気がしたもの。たぶん、父さんは戦場の匂いをまとって帰ってきたんだろうね。いっしょにお風呂に入ったら、肩や足に針で縫った痕があったりしてさ、父さんは帰ってくるたびに傷を作ってたよ」
「いまもベトナムの写真を撮っているの?」
「ずいぶん前に逝っちゃった」
「ごめんなさい」
「いいんだよ。戦争が終わってからも父さんは日本とベトナムを行ったり来たりしてベトナムが復興する姿を撮り続けていたんだけど、戦争の四年後、サイゴンで強盗に襲われてしまった。僕は父さんがベトナムの話をしてくれるのをいつも楽しみにしていたんだ。『お前がもうすこし大きくなったら、もっといろんな話をしてあげるよ』って言ってくれてたけど、話を聞くことができなくなっちゃった」
「お父さんを偲(しの)ぶ旅なのね」
「そうなんだ。正直言って、今までベトナムには複雑な想いもあったし、おっかないところだと思っていたけど、この頃、父さんが遺してくれた写真を見ながら、父さんはなにを話そうとしてくれてたんだろうってよく考えるようになったんだ。ここへくれば父さんが話そうとしていたことがすこしはわかるかなって思って、それで思い切ってベトナムを旅することにしたんだよ」
「お父さんの声が聞こえればいいわね」
「そうなればほんとにいいな。――父さんのことを教えてくれた人もいたんだけどね。父さんが死んでから四年経った頃、父さんの友人だったベトナム人が訪ねてきていろいろ話してくれたことがあったんだ」
「日本まで?」
「うん。わざわざ遠くから来てくれたんだ。その時の話を聞いてくれるかな」
「もちろんよ」
 イファは穏やかにうなずく。
 この話は今まで誰にもしたことがなかった。
 少年時代からずっと胸の奥にしまっていたことだった。だけど、今はどうしても誰かに話したかった。イファが話を聞くと言ってくれたおかげで、気持ちが楽になった。ジュースをもう二本買って一本をイファに手渡し、僕は話し始めた。



(つづく)

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