風になりたい

自作の小説とエッセイをアップしています。テーマは「個人」としてどう生きるか。純文学風の作品が好みです。

富国貧民の時代に (エッセイ)

2011年03月05日 17時02分51秒 | エッセイ
 
 万葉歌人の山上憶良の代表作に『貧窮問答歌』という作品がある。国語の教科書に載っているので習った人も多いだろう。
 貧困にあえぐ農民が、

 天地《あまつち》は 広しといへど 我がためは 狭くやなりぬる
 日月《ひつき》は 明《あか》しといへど 我がためは 照りやたまはぬ

 と嘆く。食べ物がなく、鍋にくもの巣が張っているありさまだというのに、村長が税金を取り立てにやってきては怒鳴りたてる。

 かくばかり すべなきものか 世間の道

 と、主人公は途方に暮れてしまう。
 民から奪い取れるだけ奪い取るというこのようなむごい政治が行われていたのははるか昔のことだと思っていたのだが、二十一世紀の日本に似たような状況が出現した。

 二〇〇一年に小泉・竹中政権が発足して以来、日本国政府は「新自由主義」という名の「棄民政策」を取り続けている。自国民を貧窮のどん底へ突き落とす過酷な政策だ。
 当時、日本中が小泉純一郎の口にする「改革」という言葉に期待したが、実はとんでもない欺瞞だった。
 ご存知の通り、小泉・竹中コンビが「改革」を実行して以来、日本人の大多数は貧しくなる一方で、フルタイムで働いても食うや食わずのワーキングプアが大量に増加した。もちろん、ネットカフェ難民、ホームレスも大幅に増えている。フルタイムで働いているにもかかわらず、月給が生活保護の満額にも達しない労働者が大勢いるというのは、どう考えてもおかしい。日本は衰えているとはいえ、まだGDP世界第三位(二〇〇九年の一人当たりGDPでは世界十七位)の経済力を誇っている。ごく真面目に働いて真面目に暮している人がこれほどおおぜい食うや食わずの状況に置かれるはずがない。まったくおかしなことだ。日本人が貧しくなったのはこの小泉・竹中コンビの「改革」が元凶にほかならない。彼らはペテン師だった。
 経済的困難から家庭が崩壊したり、自殺者や精神を病んでしまう人々が続出する一方、企業は法人税減税などの恩恵を受け、二〇〇七年のミニバブルの頃には史上最高益をたたき出す企業が続出した。しかし、その時も日本人の暮らしは楽にならなかった。
 自由で公平《フェア》な競争というのが、新自由主義の建前だが、本当の目的は、政治屋・高級官僚といった特権階級や企業が国民を生活できないほどの低賃金でこき使ってしぼれるだけしぼりとること――つまり、搾取することにある。
 たとえば、今年、日産のカルロス・ゴーンは八億円もの報酬を手に入れて話題になったが、日産の社員の平均年収は約百万円も下がったという。つまり、カルロス・ゴーンは日産の社員の給与を奪い、自分の懐に入れたのである。とんでもない話だが、これが新自由主義の実態だ。
 新自由主義とは、国や一部の企業を富ませ、国民を貧しくする富国貧民政策にほかならない。このような政策のおかげで自殺者まで出るのだから、公権力を濫用した合法的な殺人といっても差し支えないだろう。小泉・竹中コンビは人殺しだ。昔の映画に「一人殺せば殺人者、百万人殺せば英雄だ」というセリフがあった。それになぞらえれば、彼らは英雄ということになるのだろうが。
「最大多数の最大幸福」が政治の目的だとすれば、それとはまったく逆の政策が実行され続けていたのである。このために日本は疲弊してしまった。民主党の鳩山政権では軌道修正が試みられたものの、大手マスコミや霞ヶ関をはじめとする既得権益擁護勢力の抵抗に遭い、短命に終わった。鳩山首相の後を継いだ管直人は再び新自由主義へ舵を切り、その後、野田、安倍も新自由主義による富国貧民の方針に従って政府を運営している。ついでにいえば、菅直人も、野田佳彦も、安倍晋三も、みな人殺しだ。命の大切さを一顧だにしない。
 新自由主義による害悪は、なによりも社会が破壊されてしまったことだ。
 人は一人では生きていかれない。かならず、誰かと助け合って生きなければならない。だから人間は社会を作る。アリストテレスが「人間は社会的動物である」と言ったゆえんは、ともに生き、そして助け合うことにある。本来、社会には助け合いの機能が備わっており、それが社会の中核をなす機能ともいえるのだが、それがすっかり壊されてしまった。
 無意味な競争が過度に助長され、人の絆が壊された。家庭内の親殺し、子殺しが激増した。コミュニケーション能力がもてはやされ、以前にもまして口先ばかりの人間がのさばるようになった。ごくありきたりな、だがかけがえのない日常生活が壊され、人間の良質な部分が破壊され続けている。新自由主義は「弱肉強食」そのものだ。理性とやさしさを持った人間をただの肉食動物へ変えてしまう。
 現代の国家は福祉国家の形態を取っている。つまり、助け合いという社会の機能を肩代わりするようにできているのだが、それも機能麻痺に陥っている。代表的な例が年金や生活保護といった福祉政策だ。
 たとえば、生活保護を申請した場合、窓口でなんだかんだと文句をつけられて申請さえできない場合が多い。だが、生活保護を受け付けてもらえなかった人や申請を却下された人が行政訴訟を行なった場合、その勝訴率は約九割にものぼるという。一般的にいって行政訴訟で勝訴することはかなりむずかしいので、いかにでたらめなことがまかりとおっているかがわかるだろう。
 今の日本政府は、自分で背負いきれるはずのない責任を「自己責任」という名のもとに個人へ押し付け、たんなる「搾取装置」へと変貌してしまった。ちょうど、山上憶良の時代の政府のように。
 もし拙文を読んでいる人のなかで、ワーキングプアやネットカフェ難民になったり、仕事がないためにニートやひきこもりになっている人がいたら、よく聞いてほしい。
 あなたたちが今のような状況になったのは、決してあなたたちの責任ではない。本来は社会全体で負うべき責任が、あなたたちに押し付けられているだけだ。あなたたちに罪はない。自分の責任でもない。だからどうか、自分を責めることだけはやめてほしい。
 困った状況にあるのなら、派遣村で有名になったNPO法人「もやい」をはじめ、多くの労働・福祉関連の団体が活動を行なっている。そのような団体へ相談してみるのも一つの手だろう。専門的な知識と援助を得ることができる。
 とはいえ、自分の置かれた状況を打破するのは自分自身でしかないのもまた事実だ。誰も自分のかわりに生きてくれるわけではないのだから。
 個人が抱えている問題は、じつは社会と密接に結びついている。
 その日の糧を得るだけで精一杯な時は、得てして目の前のことをこなすだけで周りを見渡す余裕もないものだ。ひきこもりになっていれば閉ざされた空間でひとりぼっちで生きているように感じてしまうだろう。だが、山奥で暮らす世捨て人でもない限り、世間のなかで生きていることには変わりない。どんな境遇にあったとしても、あなたも社会の一員だ。
 一人ひとりがすこしずつなにかをなすことで世の中を変えることができる。本エッセイのようにつたないながら声をあげてみるのも一つの方法だ。ツイッターでもいい。生きていくためのサバイバル情報を交換することも一つの手段だろう。投票へ行くことで政治へ働きかけてみるのもいい方法だ。
 幸いなことに、日本はまがりなりにも民主主義の国家だ。これが今の中国のような一党独裁国なら、声を上げることも行動を起こすこともむずかしい。だが、日本にはとりあえず独裁国家のような縛りはない。比較的楽に声を上げられる。それを実行することもできる。
 希望は自分自身のすぐそばにある。
 だいじなことは、自分にできることを負担にならない範囲で手がけてみることだ。
 あなたが動かなければ、社会は変わらない。
 社会が変わらなければ、あなたも変われない。
 ほんのすこしのことでもいいから声を上げてみる。誰かへ働きかけてみる。ささかなことでもそれを積み重ね続ければ、いつの日かこのむごい状況から抜け出せると信じている。



あとがき

 2010年10月4日に執筆したエッセイです。
 http://ncode.syosetu.com/n1255o/

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ニューミュージック演歌の流... | トップ | 自由 (連載エッセイ『ゆっ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

エッセイ」カテゴリの最新記事