風になりたい

自作の小説とエッセイをアップしています。テーマは「個人」としてどう生きるか。純文学風の作品が好みです。

日本人は無宗教という誤解

2011年12月05日 06時40分00秒 | エッセイ

 もうすぐお正月だ。
 友人からくるメールを読むと日本は慌しそうだが、中国にいると師走の感じを肌で感じられない。中国も一応元旦を休日にしているが、漢民族は元旦を祝わずに春節(中国の旧正月、来年は二月十四日)を祝うので、町はクリスマスの飾りがちらほら残っているだけでいつものままだ。物足りないような気もするし、忙しさを免れてほっとしたような気もする。
 こんな風に外国で暮らして、外から日本を眺めていると、日本にいた時には当たり前だと思っていたことが、じつはおかしなことだと気づいたりする。
 日本人は無宗教という通説がそうだ。
 特定の宗教を篤く信仰している人は別として、大多数の日本人の日常に宗教的な要素はほとんどないようにみえる。たとえば、イスラム教とくらべてみると、その差は対照的だ。中国には新疆に住むウイグル族のほかに、全国的に散らばっている回族(※注)というイスラム教を信仰する民族がいるので、私が住んでいる広東省・広州にもイスラムの寺院がある。ラマダン(断食月)になるとイスラム寺院からお経らしき音楽が流れて、門からなかをうかがうと男女別々の部屋にわかれた信者が熱心に礼拝している。日常においても、頭からすっぽりスカーフをかぶって髪を隠した女性を寺院の近くではよく見かけるし、イスラム教徒は豚肉を食べてはいけないというタブーを守っている。結婚式の披露宴に行くと、会場の片隅に回族料理をならべたイスラム教徒専用テーブルが用意されていて、そこに回族の客人がかたまって坐っていることもある。宗教の掟にしたがい、比較的団結して暮らす彼らとくらべてみると、そのような掟のない日本人は無宗教のような印象をうける。が、日本人はまったく礼拝や参拝といった宗教活動をしないわけではない。そこに大きな誤解がひそんでいるように思える。
 日本人の代表的な宗教活動の一つは、やはり「初詣」だろう。
 正月になれば、大晦日から大勢の人が神社や寺院へ出かける。
 子供の頃、京阪沿線に住んでいたので、『紅白歌合戦』が終わると家を出て、京阪電車が終夜運行する急行に乗って岩清水八幡宮や八坂神社などへ初詣に行ったものだった。夜中の満員電車に乗るとわくわくしたし、境内の賑わいが好きだった。おみくじはかならず引いて、待ち人来るなどと書いてあるとうれしくなった。日本人は初詣をとくに宗教行事としてとらえることもなく、あるいはうすうすそう思っていてもその意識が希薄なまま、習慣として参拝している人が大多数ではないだろうか。ここで断っておきたいが、私はべつに初詣がいけないといっているのではない。初詣をして気持ちがさっぱりしたり、心が落ち着いたり、晴れやかな気分になるのなら、とてもいいことだと思う。人間にはそんな行事が必要だから。
 ただ、日本人のことをなにも知らない外国人が、この初詣を見たらどう感じるだろうか。いささか大袈裟だが、日本という国を人類学的に調査しにきた宇宙人の目で見てみるとどうなるだろう?
 元旦の三が日の間に、日本人のほとんどといっていいほどの大勢の人が参拝する。賽銭を投げてお祈りするだけではなく、わざわざ社へ入ってお祓いをうける人もいる。ニュースでは初詣の映像が繰り返し流れ、参拝者数の多い神社や寺院のランキングが発表されたりする。あの人波を見れば、やはり、初詣は日本人の宗教行事だと完全に思ってしまうのではないだろうか。
「日本人の宗教はなに?」という質問を中国人やほかの外国人から何回か受けて、こんなことを考えるようになった。家の仏壇が頭に浮かんだので仏教と答えようとしたのだが、仏壇には位牌が置いてあるし、別の部屋には神棚も祀ってある。どう答えてよいのか迷ってしまった。宗教のことばかりでなく、外国へきて外国人に日本のことを尋ねられると、いかに自分の国のことを知らないのかということを何度も痛感させられる。
 御釈迦さんの伝記や手塚治虫の『ブッダ』を読むと釈迦は親を敬えと言ったり、先祖を拝みなさいと言ったことは一度もない。むしろ、釈迦が悟りを開いてから里帰りした時に王族の兄弟や親戚をかたっぱしから引き抜いて修行させようとしたので、釈迦の父親が「これでは国を継ぐものがいなくなってしまう。これ以上は勘弁してくれ」と泣きを入れたりしているくらいだ。こんなのは、いいか悪いかは別にして親不孝に違いない。
 本来、仏教には先祖信仰の要素はなかったのだが、大雑把に言えば、仏教が伝播する際に親孝行をなによりも大切にする中国で先祖信仰の要素が仏教へ混入してそれが日本へやってきたのと、日本自体がもともと先祖信仰の国だったので神仏混淆となり、仏壇に位牌を置いて仏と先祖を一緒に拝む宗教が定着してしまった。
 いろいろ考えた挙句、「日本人の宗教はなに?」と外国人に尋ねられた時は、「主に仏教と神道、それからキリスト教の人もすこしいる」と答えるようにした。あいまいな答えなので、もうすこしすっきり言えないものかと自分でも思うが、あいまな島国のあいまいな人間だからしかたがない。仏教か神道のどちらかだけだと言ったのでは不正確な答えになってしまう。
 おそらく、日本人は無宗教なのではない。無宗教なのでなく、宗教にたいして無自覚なだけだ。初詣することがきわめて自然なように、仏教式で葬式をすることがきわめて自然なように、それがごく当たり前の習慣として身についているために、自身の宗教について深く考える機会がないだけのことだろう。鏡の前に立って自分をつぶさに観察したことがないだけのことだ。
 無自覚からくる誤解を紐解くこと。日本の世間、日本人、日本人である自分を突き放してじっくり観察すること。当たり前だと思っていることをそのままにしないで、なるべく客観的に論理立ててとらえるようにすること。そうすることによってはじめて、日本人の行動原理を読み解くことができるようになり、自分も含めた日本人がどのような人たちであるのかを理解することができるようになり、日本人や自分自身が抱えている課題を正面から分析することができるようになるのではないだろうか。ひいては、それが物を書くことにつながる。
 日本人が無宗教というのは、無自覚からくる誤解だ。
 初詣の習慣がすたれずに残っているということは、日本人に精霊信仰=先祖信仰という宗教が根付いていることの証左だろう。それも、そうとは自覚しないほどの深さで。空気のように当たり前に。そこに日本の世間や日本人の奥深くを読み解く鍵があるはずだ。



※イスラム教を信仰する人々。信仰の篤い人が大多数だが、戸籍上回族になっているものの、世俗化して漢民族と同じような暮らしをしている人たちもいる。


本エッセイは2009年12月30日に「小説家になろう」サイトで発表したものです。
http://ncode.syosetu.com/n1999j/

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