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風になりたい

自作の小説とエッセイをアップしています。テーマは「個人」としてどう生きるか。純文学風の作品が好みです。

うなぎのたれ丼(連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第402話)

2018年07月20日 06時45分45秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』

 学生の頃はとにかく腹が減ってしかたなかった。

 東京で一人暮らしをしていたのだけど、バイト代は次からつぎへと食費で消えてゆく。

 うなぎの蒲焼は大好物だけど、そんなエンゲル係数の高い生活を送っていたのでは、なかなかうなぎの蒲焼は手が出ない。スーパーでうなぎの蒲焼をみかけても、限られたお金でとにかく量をみたさなくてはいけないから、ほかのものを買うしかない。

 でも、ときどき、

「ああ、うなぎが食べたいなあ」

 と、どうしても食べたくてしかたなくなってしまうときがある。うなぎの匂いが鼻孔をつつくようだ。スーパーの棚に並んだパック詰めのうなぎが僕に食べてくれとささやきかけるようだ。うなぎを見ているだけでつばがわいて、お腹が空く。

 そんな時は、うなぎのたれを買って帰り、うなぎのたれ丼を作った。なんのことはない、どんぶり飯にうなぎのたれをかけただけのものである。

 御飯にしみこませたうなぎのたれを味わいながらうなぎを食べた気分になる。どうせうなぎを食べるのだったら、スーパーのパック詰めではなくて、浜松駅で売っている駅弁のうなぎ弁当を食べたいなあなんて思ったりして。

 いろんなことを想像しながらうなぎのたれ丼を食べた後は、ちょっぴり贅沢した気分になったのだった。





(2017年7月9日発表)
 この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第402話として投稿しました。
 『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。もしよければ、ほかの話もご覧ください。
http://ncode.syosetu.com/n8686m/


梶井基次郎『檸檬』――心に棲む美しい爆弾(連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第401)

2018年07月14日 06時45分45秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』

 美しい私小説だ。折に触れて読み返してしまう。主人公が「えたいの知れない不吉な塊」という実存的不安を抱えながら京都の町へ散歩に出かけたときのことを書いてある。

 初めのほうは、なにげない街角の風景描写、店に並んだこまごまとした雑貨の描写、幼い頃の想い出の回想などが続き、それが心をなごましてくれる。個人的には、幼い頃、びいどろを口にくわえてみたりしたものだったというくだりが好きだ。読んでいて、こちらも涼しい気持ちになる。

 主人公はまるでお金がないという状況で、かなりの借金も抱えているようだが、心の余裕までは失っていないようだ。主人公は、こまごまとした雑貨を眺めては上等の鉛筆を買ったりして、ごくささやかな贅沢を愉しむという。主人公のこのゆとりが読み手にも心のゆとりを与えてくれる。一緒に散歩しているような気分を味わえる。



 さて、主人公は散歩先の青果店で檸檬を買う



「いったい私はあの檸檬が好きだ。レモンエロウの絵具をチューブから搾り出して固めたようなあの単純な色も、それからあの丈たけの詰まった紡錘形の恰好かっこうも。」



 この檸檬の描写がたまらなく素敵だ。きれいな檸檬が目の前に浮かんでくるようだ。

 ここでうまいなと思うのは、檸檬の重さを確かめているところだ。



「美しいものを重量に換算して来た重さ」



 美を重さにして描写することで読み手の胸にその美しさがすとんと落ちる。なにかの感情を手に取ってみることのできるものの重さで置き換えてみるという手法はうまくはまると効果的だ。



 檸檬を買ってすっかり嬉しくなった主人公は丸善へ入り、本棚から取り出した画集を積み上げて遊ぶ。なにか足りないなと思った主人公は積み上げた画集の上に檸檬を置いてみる。



「檸檬の色彩はガチャガチャした色の階調をひっそりと紡錘形の身体の中へ吸収してしまって、カーンと冴えかえっていた。」



 主人公はその美しさに満足するのだが、そこでふといたずら心を起こす。檸檬を片づけずにそのまま置き去りにして出て行ってしまうのだ。しかも、心のなかでその檸檬が大爆発する光景を想像しながら。ちょっとした社会への反抗といったところだろうか。小説は主人公が丸善を出て、京極を下っていくところで終わる。



 原稿用紙にして十四枚しかないこの短編小説には、青春の実存的不安といったものがコンパクトにまとめてよく描かれている。それも、ただ憂鬱にひたったり観念を広げるのではなく、心に映る様々な感覚を通じてそれを描き、最後はいささか危険な遊び心で締めくくっているのがいい。「えたいの知れない不吉な塊」が美しい檸檬に転化して、最後にはそれが穏やかに爆発したようにも思える。



 主人公の青年は、市井に住む隠者のようだ。

 社会の生産活動にはかかわっていない。学校へも行っていないようだ。町中にじっと隠れ住み、感覚を研ぎ澄ませながら己の存在について考え続けている。逆にいえば、なにも持たずにひっそりと暮らしているからこそ、それができるのかもしれない。



 この小説を読み返すたび、心の中にすうっと風が吹き抜けたような気分になる。そうして、自分の心に中にある檸檬をじっと想像してしまう。それはいつ爆発するかもしれない美しい爆弾でもあるのだ。



(2017年6月29日発表)
 この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第401話として投稿しました。
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国際格安航空券でかえって高くついた話(連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第398話)

2018年06月19日 06時15分15秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』
 上海在住の日本人の友人が日本の役所での手続きのために一時帰国した。その時、彼は日本のある格安航空会社のチケットを買った。往復で一五〇〇元だ。一般の航空会社のチケットなら往復二五〇〇元から三〇〇〇元強はするのでかなりお得なはずだった。

 彼は木曜日に上海から格安航空会社のフライトに乗って関空へ行き、金曜日は地元で手続きをすませ、土曜日に上海へ戻ろうとした。

 搭乗開始時刻になってカウンターの前に並んだ。しかし、いっこうに搭乗手続きが始まらない。一時間ほど立って待った挙句、その航空会社は上海側の天候理由によってフライトを取り消しますと通告した。

 そのフライトのキャンセル分の料金は返ってくるが、ほかのケアは一切なし。その航空会社は一日一便しか飛んでいないので、ほかの便への振り替えもなければ、市内への送迎もなく、かなり遅い時間だったが、もちろんホテルの手配などもなかった。なんのケアもしないから格安でチケットを売っているわけだけど。

 あいにく、土曜日の夜とあって大阪市内の安めのホテルはどこも満室。神戸行きのバスがまだ走っていたのでそれに乗って神戸三宮のホテルに泊まり、大急ぎでネットで翌日のフライトのチケットを買った。日曜日にまたキャンセルになれば困る。月曜日から仕事だ。それだものだから、一般の航空会社のチケットにした。

 結局、チケットを買いなおしたおかげで往復合計四五〇〇元くらいかかってしまった。ほとんど当日券を買う羽目になったから、帰りの便がえらく高かった。最初から一般の航空会社のチケットを買った場合に比べて、二、三万円高くついた計算だ。日曜日の別の航空会社の飛行機はきちんと飛んで、ぶじに上海へ戻ってこられた。

 飛行機がきちんと飛んでくれれば問題ないが、キャンセルになったら大変だ。主に国際線用の上海浦東空港も、主に国内線用の上海虹橋空港も過密スケジュールなので、いったんなんらかの原因で遅れが発生すると取り返しのつかない状況になることがしばしばある。とくに夜遅い便はキャンセルになりやすい。

 日本へ帰る時に格安航空会社の便にしようかなと考えたこともあったけど、キャンセルのリスクがあるから考え物だなと思った。時間に余裕がある時だったらいいけどね。


(2017年4月20日発表)
 この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第398話として投稿しました。
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奈良公園の鹿に噛まれた姪っ子

2018年05月03日 07時15分15秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』

 上海人の奥さんの姪っ子が学校の手配した旅行で日本へ行き、東京、京都、奈良を回っている。姪っ子は高校三年生。もうあと数か月で卒業だ。
 浅草や秋葉原へ行ったり、京都の寺町通を歩いたりと楽しそうな写真を送ってきていたのだが、突然、奈良で鹿に噛まれたと奥さんに知らせてきた。姪っ子は肘を噛まれ、スカートも食いちぎられて穴が開いてしまったそうだ。
「奈良の鹿はほんとに悪いわねえ」
 奥さんは楽しそうに言う。
 以前、日本へ帰った時、奥さんを奈良へ連れて行ったことがあった。奥さんは鹿がお辞儀をしてせんべえをねだったり、すり寄ってきてもせんべえがないのがわかるとそっぽを向いたりするのを見て喜んだ。鹿のずる賢いところがいたく気に入ったようだ。なかなかやるじゃないかというわけだ。
「奈良の鹿はそんなに人を噛むの?」
 奥さんは僕に訊く。
「噛まないよ。僕は幼稚園の頃から何十回も奈良公園へ遊びに行ったけど、噛まれたことなんて一度もないよ」
 僕はどうして噛まれるのか不思議に思い首をひねった。僕が子供の頃に住んでいたところでは、小学校、中学校、高校と遠足で奈良へよく行った。家族で奈良公園へ遊びに出かけるのも定番だった。鹿に噛まれたことは一度もないし、周りで噛まれたという話を聞いたこともない。子供の頃、奈良へ行くとわくわくした。楽しかった。
 微信(中国版LINE)で、彼女が鹿と遊んでいる様子を摂った動画が送られてきたので、奥さんといっしょに観た。彼女の同級生が撮影したらしい。
 鹿にすり寄られた姪っ子は「うわっ」と歓声をあげながら、鹿せんべいを手に掲げたままゆるゆると逃げた。当然、鹿は追いかけてくる。鹿は姪っ子を引き留めようとしてスカートをくわえ、さらに姪っ子の手にしたせんべいを食べようとして彼女の肘を噛んでしまったのだ。
「そら、こんなことをしたらあかんわ」
 僕はため息をついて言った。
「鹿にせんべいをあげてそれを食べている間にさっと逃げるか、それとも寄ってきた鹿にいさぎよく全部あげてしまうかしないと」
 姪っ子の周りでは、彼女のクラスメートたちが鹿の鼻先でせんべいをちらつかせながらせんべいをくわえようと首を伸ばす鹿の写真を撮ったりする姿も映っていた。危険な行為だ。鹿をじらせてはいけない。
 義母や義姉が鹿に噛まれても大丈夫なのかと訊いてくる。口蹄疫や狂犬病に感染するのではないのかと心配したのだ。
「三日くらいしたら角が生えてくるかもね」
 と僕は冗談を言ってなごませ、
「病気になったりしないよ。奈良公園の鹿からなにかに感染病をうつされた人はいないから。心配しないで」
 と安心させた。姪っ子へは日本の消毒薬の名前を書いて送り、これを薬局の店員さんへ見せて買いなさいと伝えておいた。
「あのスカートは私が買ってあげたのよ。かわいいスカートなのに。あの子に絶対似合うと思って選んだのよ」
 奥さんは残念そうだ。
 僕は、姪っ子の様子を動画に撮っていた男子のクラスメートがなにくれとなく姪っ子へやさしげに話しかけているので、可愛い姪っ子に変な虫がついたのではないかと、むしろそちらのほうが気がかりだった。


(2017年4月9日発表)
 この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第397話として投稿しました。
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?なお寺のパンフレット(連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第394話)

2018年04月19日 06時40分40秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』

 広東省のあるお寺へ行った時のこと。
 のどかな山のなかにあり、大きな寺だった。観光名所にもなっているらしく、境内のなかは観光客がぞろぞろ歩いている。
 休憩所の片隅に寺紹介のパンフレットが置いてあったのでぱらぱらとめくってみた。
 そのお寺の沿革のほかに、お釈迦さまを拝むとこんなにいいことがあると漫画の挿絵付きでいろんな現世利益が書いてある。そのなかに、お釈迦さまに帰依すれば、来世はお役人に生まれ変わって大儲けできるというのがあった。その挿絵には机の前に坐って札束の山を嬉しそうに眺めている禿げ頭のおじさんの姿が描かれている。
 僕は目が点になった。
 これを仏教と呼んでいいのだろうか?
 家内安全、安産、病気平癒ならまだ理解できるし、誰もが願うものだけど、お役人になって賄賂をがっぽりもらってお金持ちになれるというのはいかがなものだろう。すべての欲望を捨て去って解脱するのが仏教の最終目標だとすれば、生まれ変わったら協力な権力を握って、その権力を金銭に変えて大金持ちになるというのは、いかにも執着心が強すぎる。悟りを得るのとは方向性が真逆だ。
 そんなあまりにも俗物根性を丸出しにした祈願をされても、お釈迦さまは微苦笑するだけのような気がするけど。


(2017年3月1日発表)
 この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第394話として投稿しました。
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紫糯米(むらさきもちごめ)のおにぎり(連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第387話)

2018年04月13日 06時15分15秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』

 雲南省で留学していた頃、朝食に紫糯米むらさきもちごめのおにぎりをよく食べていた。
 学校の門のすぐ近くに、七十歳はとうに過ぎただろうおばあちゃんが屋台を引っ張ってきて売っていたのだ。白い普通の糯米を炊いたのと紫糯米を炊いたのとを混ぜてタオルのなかへいれ、タオルをぎゅっと絞って紡錘形のおにぎりにする。地元の人たちは、おにぎりのなかへ油条(中国揚げパン)を一切れと黒納豆を少し入れ、そこへザラメの砂糖をまぶしておにぎりの具にしていたけど、僕は揚げパンも納豆も砂糖もいらないからといって、白糯米と紫糯米だけでおにぎりを握ってもらっていた。紫糯米はあまくておいしい。毎日食べても飽きなかった。
 紫糯米は古代米の一種。日本でも健康食品として売っているようだ。造血作用があるだとか、皮膚アレルギーによいといった話を聞いたことがある。ただし、この紫糯米は栽培がいささか面倒なのだそうだ。稲の背が高いので倒れやすいという。
 雲南省の南にある西双版納シーサンパンナへお祭りを見に行った時、タイ族の女性が道端で紫糯米のおにぎりを並べていた。すべて紫糯米で作ったおにぎりだったから、亜熱帯の陽射しを照り返してとても色鮮やかでまぶしかった。僕はさっそくそのおにぎりを求めて堪能した。日本ではお祭りの日や祝い事の時に赤飯を炊くけれど、タイ族も同じような感覚で紫糯米を炊くのかもしれない。
 上海のスーパーでも紫糯米を売っている。それだものだから、時々、家族にリクエストして白米に紫糯米を混ぜて炊いてもらっている。紫色に染まった御飯を見るとなんとなく楽しくなる。体にもいい。




(2016年12月26日発表)
 この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第387話として投稿しました。
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資料写真の前衛的な縦横比率変更、あるいは近代的リアリズムの不成立?(連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第385話)

2018年03月16日 07時15分15秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』

 中国人スタッフから上がってくる資料に写真が貼りつけてあると、たいていの場合、写真の縦横比率を思いっきり変更してある。普通の写真で撮影したのにまるで魚眼レンズで撮影したようにビヨーンと横へ伸びていたり、縦に伸ばし過ぎて人間がマッチ棒のように細長くなっていたりする。とてもへんてこりん写真だ。見ていてなんだか落ち着かない。
 以前は、写真は自然に見えるように比率をあまり変えてはいけないといちいち指導していたのだけど、十人いればほぼ十人が縦横比率を前衛芸術的に変更してくるうえに、何度言ってもなおらないので、僕は白旗をあげてその指導をあきらめてしまった。僕自身が資料を作る時は、そのビヨーンと伸びた写真を自然に見えるくらいの比率になおしてパワーポイントやエクセルへ貼りつける。
 中国人がなぜこんなことをするのかといえば、どうも写真の中身よりも、写真の枠の大小をそろえることを優先させるからのようだ。
「この写真はおかしくない? だって、この人は団子みたいにまんまるくなってるじゃない?」
 と僕が問いかけても、
「こうしないと枠がそろわないから」
 たいていの中国人スタッフは首をひねり、そう答える。
「見ていて不自然でしょ。気持ち悪くない?」
 僕が質問を続けると、
 ――あんまり気にならないけど。
 というふうに困惑したように首をかしげる。
「このパワーポイントの資料は二〇枚あるよね。たしかにきれいに枠がそろっているけど、二〇枚分の写真の枠をそろえるのは大変だし、むりにそろえる必要はないよ。ほら、こんなふうにして写真がきれいに見えるようにしてみたら」
 僕はパソコンの画面をいじりながらパワーポイントに貼りつけてある写真の枠の大小を変えて――枠の縦横比率と同時に写真の縦横比率も変わる――写真が自然に見えるようにしてみると、
「これでは枠がそろわないから、おかしくなってしまう。きれいに見えない」
 と中国人スタッフは慌てる。
「うーん」
 僕はうなってしまった。
 彼らにとってなによりも大切なのは、全ページの枠がそろっていて、パッと見で「きれいそう」に見えることなのだ。そうしてよい第一印象を与えることがだいじで、写真自体の見栄えは二の次になってしまう。
 僕にしてみれば、縦横に異常に長くなった写真は見るにたえないものなのだけど、彼らはまったくといっていいほど気にならない。
 おそらく、こういうことなのだろう。
 僕は自然主義リアリズムの視座で写真を見ている。ほとんどの日本人は自然主義リアリズムの考え方で写真を見る。だから、写真が自然に見えることが最優先になり、枠の大小をそろえることには気を払わない。しかし、中国人――すくなくとも僕が今仕事場で接している中国人たち――は「自然主義リアリズム」の視座がないので、写真が自然に見えるかどうかには気を払わない。彼らには「自然主義リアリズム」などよりももっと大切な考え方や原理ドグマがあり、それに従えば、写真の縦横比率をゆがめてでも枠をそろえるほうが切実なこととなる。ただ、彼らのその考え方や原理ドグマがなになのかは、僕はいまだによくわからない。
 もちろん、これはどちらがいいとかわるいとかの問題ではなくて、考え方が違うということだけなのだけど。



(2016年12月15日発表)
 この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第385話として投稿しました。
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識字の普及から見た中国(連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第384話)

2018年03月06日 07時15分15秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』

 日本において若者がほぼ読み書きできるようになったは一九二五年頃と思われる。日本の識字率は地域によって差が激しかったから、それよりももっと前に若者がほぼ読み書きできるようになっていた地域があったかもしれないが、日本全国でそのようになったのはだいたい大正時代の終わりから昭和のはじめくらいと見ていいのだろう。今から九十年ほど前のことである。今ではほぼ百パーセント。識字率の調査もその必要がないと行われなくなったほどだ。
 大陸中国の識字率は、一九七〇年で約五十パーセントだった。人民の半分は読み書きできなかったことになる。それが一九八〇年には七十パーセントへ上がり、一九九〇年には八十パーセント、二〇〇〇年には九十パーセントを越えた。今では約九十五パーセントくらいだという。このデータがどこまで正確なのかはわからないが、この数値からみれば、若者がほぼ読み書きできるようになったのは一九九〇年くらいのこととみていいのだろう。今から四半世紀前のことだ。日本より六十五年ほど遅れて識字が普及したことになる。
 僕は、これまでに中国で読み書きのできない人に何人も出会ったことがある。自分の名前を書けない人すらいた。そんな人たちは、文字を書く必要のない安い単純労働で働いている。農村で育ち、子供の頃から農作業の手伝いや家で子守りをして学校へ行かせてもらえなかったケースが多い。
 広大な土地に十何億人もの人間がひしめいている国で識字を普及させるのは並大抵のプロジェクトではないと思うが、中国で識字の普及が遅れた原因には文化大革命も挙げられる。
 一九六七年から一九七七年までの約十年間、中国は文化大革命が行われた。この時代は知識が悪とされ、ろくな学校教育が行われなかった。中学生以上は「知識分子」とみなされ、生徒は思想改造のために農村へ送られて強制労働に従事した。
 一九九〇年に識字率が約八十パーセントに達して若者がほぼ読み書きできるようになったのは、一九七八年あたりに学校が再開されて、子供が学校でまともな教育を受けられるようになったからだろう。
 もちろん、いわゆる文革世代のすべての人たちが読み書きできないわけではない。むしろ読み書きできる人のほうが多いのだが、この世代の人たちに話を聞くと、
「自分たちはろくに教育を受けなかったせいで学がない。小学生程度の知識しかなくてむずかしいことはわからないから、いい仕事には就けない」
 と自嘲気味に嘆いたりすることがわりとある。実際、文革世代の子供で高等教育を受けた人たちが、中国にとっては新しい産業で専門知識を必要とする仕事に就き、親の何倍もの収入を稼ぐケースが多数あった。ともあれ、教育によって人生が変わることをまざまざと実感しているのが文革世代ということになりそうだ。
 産業の発展には識字の普及が欠かせない。マニュアルを読んだり、書類を作成しなけば仕事にならない。識字率が低いままで産業革命に成功した国はない。中国が世界の工場となってここまで経済発展できたのも、高い識字率があってこそだ。
 ただ、識字が普及したからといってすぐに近代的な仕事をしっかりこなせるようになるかといえば、そういうわけでもなさそうだ。
 中国で仕事をしていると中国人スタッフの事務処理能力の低さに難儀させられてしまうことがしばしばある。几帳面すぎる日本人とは違って、よくも悪くも大雑把な中国人の国民性もあるのだろうが、簡単な処理や確認がいつまでたってもできなかったりする。要するに基礎力が低いのだ。基礎ができていないから、応用力も乏しい。創意工夫が求められる新しい業務になると立ち尽くしてしまい、にっちもさっちも動かなくなることもしばしばだ。
 読み書きができるようになって知識を身に着けた世代が子供を育てて、その子供にさらに知識を身に着けさせる。このサイクルを三世代、四世代と繰り返さなければ、人民が全体的に基礎力を身に着けるという状態にはならないのかもしれない。中国の西欧近代化は始まってからまだ四半世紀しかたっていない。国全体が成熟するまでには、おそらく数十年という単位の時間でまだまだ時間がかかるのだろう。


(2016年11月27日発表)
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いきなりポケットへお札を突っ込まれても(連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第381話)

2018年01月08日 07時15分15秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』

 出張で出かけるために上海の浦東空港へ行った時のこと。
 朝七時、浦東空港に着いた。入口の外の灰皿でたばこを吸っていると、東洋人のおじさんに、
「日本人デスカ」
 と外国訛りの日本語で話しかけられた。
「そうです」
 と答えると、
「アア、日本人。韓国人カトオモッタ」
 とおじさんは言い、
「私ハ、北朝鮮人」
 とやおら財布からお札を取り出す。
「偉大ナ指導者」
 北朝鮮のお札は初めて見たけど、確かにかの国の偉大な指導者の肖像が印刷してある。中国のお札には毛沢東の肖像が印刷してあるけど、北朝鮮も同じことをしているのだなと思いながら、珍しさに釣り込まれて覗き込んだ瞬間、
「アゲル」
 とおじさんは僕のズボンのポケットにお札を突っ込もうとした。
「要らない」
 僕は慌てて逃げた。
 片言の日本語を操るくらいだから日本へ行ったことがある人なのだろう。親切でくれようとしたのかもしれないけど、知らない人からお金をもらうわけにはいかないから。



(2016年10月25日発表)
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雨乞いのダンス(連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第378話)

2017年10月01日 06時45分45秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』

(今回は寓話です。)

激しい旱魃かんばつがある村を襲った。
 小さな川はほとんど干上がり、乾燥し過ぎた地面はひび割れ、田畑は枯れ始めた。
 これでは作物をまともに収穫できないと危機感を覚えた村人たちは、村の呪術師に相談した。呪術師はしわがれた老人だった。村の祭事を取り仕切り、赤子が生まれれば名付け親になり、病人が出れば悪魔祓いの儀式を行なって村人の病気をなおした。村人からは尊敬を集め、頼りにされていた。
「踊るんじゃよ」
 呪術師は厳かに言った。
 互いに顔を見合わせた村人はみな、そうするしかないと頷いた。他に方法はないのだ。
 村の広場にきらびやかに飾り付けた祭壇を設け、村人はなけなしの食料から雨の神様へお供えした。呪術師の合図とともに村人たちは神聖な円サークルを作って踊り始めた。雨が降らなければ収穫できない。作物がなければ、村人は飢え死にするしかない。暮らしを守らなくてはならない。みんな真剣そのものだった。呪術師は祭壇の中央で髪を振り乱して祈祷した。
 一日中踊ったものの雨は降らない。雨雲がやってくる気配もない。太陽はにくらしいほどに光り輝き、空は澄み切っている。それでも村人たちは、雨が降ることを信じて、その日も翌日も踊り続けた。
 さすがに村人たちは疲れ始めた。踊りが鈍くなる。
「なにをしとるんじゃ。みな死にたいのか? こんな踊りで雨が降るとでも思っておるのかい。元気を出してやりなさい」
 呪術師は村人を叱りつける。わずかばかりの休憩を取って気を入れ直した村人たちは、また踊り始めた。
 踊り続けて一週間が過ぎ、二週間が経った。雨の神様はまだ村人たちにこたえてくれない。空は晴れたままだ。田畑の作物はますます枯れる。
 村人たちは、どうやら雨の神様は自分たちを相手にしてくれていないようだから、とりあえずダンスを中断して深い井戸を掘ったほうがいいのではないかと相談を始めた。村の各所にある井戸もそのいくつかが枯れ始めていた。このままでは水すら飲めなくなる。呪術師は猛烈な剣幕で怒った。
「必ず雨は降る。降らないのは踊り方が悪いからだ」
 呪術師にここまで言われては、村人たちは従うよりほかになかった。なにしろ呪術師は権威があるのだ。呪術師のいうことに間違いはない。
 残りわずかになった村の食料からさらに祭壇へお供え物を捧げた。呪術師は踊り方をもう一度教えた。いささか妙な踊り方ではあったのだが、村人たちは呪術師がそう教えるからには間違いないだろうと納得した。雨の神様を喜ばせなくてはいけない。
 村人たちは雨乞いのダンスを続けた。
 空腹をこらえてはお供え物を出し続け、くる日もくる日も踊り続けた。踊りがだれると呪術師が叱りつけた。村人たちは叱られると気合を入れ直して、またしっかりと踊った。
 一か月が過ぎ、二か月が過ぎた。まだ雨は降らない。
 作物は実らない。食料はほとんど底を尽き、近くの山から食べられそうな草や木の根を探しては無理やりに腹へ流し込んだ。山の小動物は取り尽くし、虫でさえいとわずに食べた。
 痩せこけて骨と皮になった村人たちは栄養失調のためにばたばたと倒れ始めた。踊りの輪へ参加する人数は目に見えて減った。村人はもうしっかりと踊る気力がない。ただ惰性でふらふらと踊っている。
「なんだそのざまは! まじめに踊りなさい! 雨の神様はすぐそこまできておるんだぞ」
 ひとり、呪術師だけが気炎を吐く。呪術師はお供えのおさがりを食べる権利があったので、彼だけ健康体だった。残った村人たちは力なく呪術師を振り返る。もうろうとした村人たちの目は宙を泳いでいた。ここまでダンスして雨が一滴も降らないのでは、呪術師の祈祷に非がありそうなものだが、村人は誰も呪術師を疑わなかった。村人は素朴に呪術師を信じていた。飢えと渇きのために村人はとうとう死に始めた。
 さらに数週間が過ぎた。
 空は晴れ渡ったままだ。雨は降らない。村人たちはまるで死ぬために踊っているようなものだった。そして、とうとう最後の村人が息を引き取った。村には呪術師以外、誰もいなくなった。呪術師はがらんとした村を見渡して笑った。高笑いに笑った。
「わしは生き残った」
 ひとしきり笑った呪術師はせいせいしたとでも言いたげに満足そうな微笑みを浮かべた。
「あほどもめ。ダンスを踊ったところで雨が降るわけではなかろうに。わしにそんな力などあるはずがないわ。これまで何度か雨乞いがうまくいったのは、たまたま雨が降ってくれたからよ。これで村人すべての財産はわしのものだ。土地も家も銀の指輪も首飾りも、みんなわしだけのものだ。なによりこれだけの供え物の食糧があれば、わしはたらふく食うことができる。後のことはまたあとで考えよう」
 なんのことはない。村人の尊敬を集めた呪術師は、雨乞いのダンスという達成不可能な課題を無理やり村人へ押し付け、達成できないとやり方が悪いと罵っては責任を村人へなすりつけ、自分が肥え太って生き延びることしか考えていなかった。
 雨の神様は沈黙したままだった。


(2016年9月28日発表)
 この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第378話として投稿しました。
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