風になりたい

自作の小説とエッセイをアップしています。テーマは「個人」としてどう生きるか。純文学風の作品が好みです。

空飛ぶクジラはやさしく唄う 第8話

2012年01月03日 19時45分45秒 | 恋愛小説『空飛ぶクジラはやさしく唄う』

 ふたりで生きようね


 柿が熟した田舎町を抜け、山道を進む。窓をすかすと、ひんやりした風が車内で渦を巻く。冷水で顔を洗ったようで清々《すがすが》しい。
 ヘアピンカーブが連続する厳しい道を想像していたのだけど、比較的なだらかだ。思ったより楽に運転できる。遥は、かくんと首を折り曲げて熟睡したままだった。近頃は寝つきの悪い夜が続いていたけど、今日はよく眠っている。悪い夢にもうなされていないようだ。
 ゆるやかな峠を越えて、狭い盆地へ向かっておりる。ところどころ色づいた林の向こうに、冬枯れた田んぼが広がっていた。細い川が盆地の真ん中を流れている。
 山を降りたところに道の駅があったので、いささかくたびれた僕は駐車場へ入った。まだ早朝だから車の姿はまばらだ。おばさんが土産物コーナーのシャッターを上げている。
 サイドブレーキの音で遥が目を覚ました。
「着いたの?」
 うっすらと目を明けた遥は伸びをする。
「まだだよ。すこし休憩しよう。遥は顔を洗ってきなよ」
 僕はあごあたりを指差した。
「えっ? うん」
 遥は気恥ずかしそうにうなずく。よだれの痕《あと》がついていた。よほどぐっすり眠れたんだなと思って、僕は安心した。トランクを開けてボストンバッグを出した。洗顔セットを手にした遥は、さっそくお手洗いへ行った。
 駅の裏手に和風庭園があった。鯉の泳ぐ池を囲むようにして松や梅が植わっている。きれいな芝生が庭全体を覆っていてさわやかだ。庭の片隅には信楽焼きのたぬきが「いらっしゃい」とでも言いた気に楽しそうな表情で立っていて、名前も知らない小鳥たちが梅の枝にとまっては飛び立つ。
 僕たちは、池のほとりのベンチに腰かけた。遥が寒そうにしたから、僕は自分のジャンパーを脱いで、遥に羽織らせた。
「ゆうちゃんは寒くないの」
「平気だよ。お腹は空いた?」
「ちょっと空いているかな」
「朝ごはんにしよう」
 僕は弁当箱を開けた。おにぎりにお新香をそえただけのシンプルな弁当だ。昨日、僕が作った。
「梅干とかつおぶしとこんぶがあるよ。どれがいい?」
「かつおぶしがいいな」
「この二つだよ」
 僕は真ん中に並んでいるおにぎりをさし、
「お茶はここにあるから」
 と、魔法瓶をふたりの間に置いた。
「いただきます」
 遥は、海苔を巻いたおにぎりをちいさくかじる。
「おいしいわね。ゆうちゃん、上手ね」
「おにぎりくらい僕だってにぎれるよ。ほら、中学校の卒業式の次の日もさ、僕がおにぎりを作ってハイキングに行っただろう」
 あの日、僕は遥を誘って渓流沿いのハイキングコースを歩き、山の中にある池へ行った。遥は入院したお母さんの看病や家事で忙しかったから、僕が弁当をこしらえることにしたのだった。
「あのスクランブルエッグを作ってくれた時ね」
「卵焼きのできそこないのね」
 弁当に卵焼きを入れようと思って挑戦してみたのだけど、うまく作れなかった。卵を折りたたむのがむずかしい。しかたないからかきまぜて、スクランブルエッグにしてしまった。火加減がわからず、いささか焦がしてしまった。
「ふつうにおいしかったわよ」
「それならよかったんだけど」
「そういえば、あの日、ゆうちゃんは元気がなかったわね」
「そう見えた?」
「うん」
「実はね、遥に告白しようと思って、ラブレターを用意していたんだ。僕たちは別々の高校へ行くことになっていただろ。だから、どうしても僕の気持ちを伝えておきたかったんだよ。それで、緊張していたんだ。どきどきし通しだったよ」
 あの日の光景が脳裡によみがえる。遥は紺色のリュックを背負っていた。あの頃のふたりがなつかしい。
「ボートに乗ったとき」
 僕たちはふたり同時に言った。
「遥、なに?」
「いいのよ。ゆうちゃん、言ってよ」
「池でボートを漕いだ時、その手紙を渡そうと思ったんだけど、遥は僕を避けているような素振りだったから、とうとう渡せなかったんだ。なんだか怒っているみたいな感じがしたし」
「怒ってなんかいなかったわ。とまどっていたのはあったかもしれないけど」
「中三の時、誰かほかに好きな人がいたの?」
「ううん」
 遥は首を振る。
「私もね、ゆうちゃんのことが好きだったの。机の引き出しを引いてはゆうちゃんといっしょに撮った写真をなんども眺めたり、一晩中、ゆうちゃんのことを考えて眠れなかったこともあったわ。ゆうちゃんがわたしのことを好きなのはわかっていたから、早く自分の気持ちを打ち明けてくれないかな、なんて思っていたこともあったの」
「ばれてたんだ」
「わかるわよ。だって、ゆうちゃんはいつもわたしのほうを見ていたじゃない。授業中も、掃除の時も、部活で校庭を走っていた時だって」
「なんだ。それだったら、あの時、思い切って渡せばよかったね。あの手紙は一週間くらいかけて何度も書き直したんだよ」
「渡してくれなくてよかったわ。あの時、もしゆうちゃんがわたしに告白したら、いいお友達でいましょうって言うつもりだったの。もしそうしてたら、こうしてふたりでいっしょに過ごすこともなかったかもね。ゆうちゃんはもっと素敵な人を見つけていたかもしれないわ」
「どうして断るつもりだったの?」
「怖かったのよ。男の人がみんな怖かったわ。――じつはね、高校の合格発表があった後、あの人から電話があったの」
「お父さんから?」
「うん。あの人の家でいっしょに暮らさないかって。高校生になるのを機会に、わたしを取り戻そうとしたのよ。もちろん、断ったわ。そんなつもりなんてぜんぜんないもの。お母さんをいじめたあの人を憎んでいた。今も、これからも、ずっとそうよ。あの人をお父さんなんて呼ぶことはないし、許すことなんてないわ。お母さんが鬱病になったのはあの人のせいだもの。
 それでね、たぶん電話じゃすまないだろうなって思っていたら、案の定、あの人はうちへやってきたの。うわべだけの笑顔でわたしを説得しようとしたわ。いっしょに暮らせば経済的にも安定するし、家事はおばあちゃんが全部やってくれるから自分のことだけに専念すればいい、進学塾でも習い事でも好きなことをやらせてやる、将来のことを考えたらそのほうがぜったい得だとかなんとかいいことばかりいってね。まるでセールスマンよ。
 わたしがどうしても首をたてに振らないものだから、あの人はやっぱりキレて怒鳴り始めたわ。でも、わたしに直接怒らずにお母さんの悪口ばっかりいうのよ。お前はお母さんを信用しているかもしれないけど、とんでもない女なんだって。聞いていられなかった。そばで坐っていたお母さんは泣き出しちゃうし。
 あの人は、俺の言うことを聞くまではぜったいに帰らないっていう態度だった。しかたがないから、わたしは警察へ電話をかけて、お巡りさんにきてもらったの。駆けつけてくれたお巡りさんに、お母さんとあの人の離婚協議書のコピーを見せて、困っているから追い払ってほしいってお願いしたら、あの人は急に態度を変えてぺこぺこしだして、それでようやく退散したわ。警察沙汰になったら困るものね。
 そのあとがたいへんだったわ。お母さんはひどく傷ついてしまって、また具合が悪くなってしまったの。結局、入院するよりほかに手立てがなかったわ。あの人がこなければ、あんなことにならなかったのに。わたしはわたしで、どうしようもないくらい落ちこんじゃった。高校に合格してほっとした矢先だったのにね」
 遥は、やりきれなさそうに首を振った。
「そんなことがあったんだ。どうして話してくれなかったの」
「ゆうちゃんにも話せないくらいふさぎこんでいたのよ」
「それにしてもさ、それでどうして僕まで怖くなってしまうの? たぶん、僕は遥のお父さんと正反対の性格だよ」
「わかっているわ。わかっていたのよ。でも、もしゆうちゃんがあの人みたいになったらどうしようって思ってしまったの」
「遥をなじったり、いじめたりするってこと?」
「そうよ」
「そんなことしないよ。今まで一度もないだろ」
 僕は、ついむっとしてしまった。
「怒らないで。わたしはどうかしていたんだわ。素直にゆうちゃんの愛情を受けとればよかったのにね。よけいなことは考えずに、素直に好きだって思っていればよかったのよ。――あの日、わたしはゆうちゃんに悲しい思いをさせてしまったのね」
「そんなことないよ。あの後も、遥は僕と会ってくれたんだし。――むっとしてごめん。遥の気持ちはわかる気がするよ。小さい時にいっぱい怖い思いをしたから、その恐怖感がどうしても抜けないんだよね。でも、遥のお父さんはもうこないから」
 家族のもめ事のせいで自分の人生を思うように生きられない遥がかわいそうだ。家族という名の泥濘《ぬかるみ》に足を取られたのでは、たまったものではない。
「そうだといいけど」
 遥は自信なさそうにつぶやく。立ち直りかけては悪いことが起きてだめになってしまう、そんなことを繰り返しすぎたからだろう。
「遥のお父さんには僕たちの住所も電話番号も教えていないんだろ」
「うん」
「だったら大丈夫だよ。もう忘れていいんだよ」
「忘れたいわ」
「今までのことはみんな忘れていいんだよ」
 僕は遥を抱きしめた。遥の体温だけがあたたかい。
「大切なのはこれからだよ。ふたりで生きていこうね」
 そっとくちづけをかわすと、僕の頰に遥の涙がつたう。遥の唇は、おにぎりの海苔の香りがほのかに漂った。
「ごめんなさい。せっかくの旅行なのに泣いたりして」
「いいんだよ。でもさ、ひとつだけ約束してよ」
「なに?」
「今日はなにも考えないで景色だけを楽しもうよ。ほんとに、なにも考えなくていいんだよ。それから、温泉につかってのんびりしよう。なにも考えちゃだめだよ」
「約束するわ」
 遥は白い手で頰をぬぐいながらうなずく。僕は遥の背中をさすり、大丈夫だからと何度も繰り返しささやいた。


空飛ぶクジラはやさしく唄う 第7話

2012年01月02日 19時52分01秒 | 恋愛小説『空飛ぶクジラはやさしく唄う』
 命はよみがえるから


 遥の状態はよくならない。
 たまに機嫌がよくなったかなと思ったら、すぐに塞ぎこんでしまう。
 心療内科へ行こうと勧めたけど、
「病院へ行っても気休めにしかならないわ。お母さんが鬱病だったから、わかるの。心療内科のお医者さんは結局のところ世間一般の人で世間の価値観にとらわれているから、ほんとうにたいせつなことがわからないのよ。心の奥深くは治せないのよ。だから、自力で治すしかないの。薬でごまかしたら、あとでもっとつらくなるだけ。わたしのお母さんはお医者さんと薬に頼ってばかりだから、病院と家を一生行ったりきたりするはめになるのよ」
 と、遥は首を振るばかりだった。
 遥はやつれた。
 僕と暮らし始めてからすこしばかりふくよかになったのだけど、一時期はきつくなったブラジャーがゆるくなった。顔全体が痩せ、大きな目が力なく浮き上がる。そんな遥を見るたびに、胸が傷《いた》んだ。
 僕はどうすればいいのかわからなくなって、ヘアサロンのオカマさんに電話をかけた。オカマさんは仕事の後、喫茶店まできてくれた。
「あたしもね、気になってたのよ。すごくしょんぼりした顔をしたり、うつむいたまま顔を上げなかったりするから――。携帯でメールを送っても、気のない返事ばかり返ってくるのよね」
 オカマさんはいつものように顔をにこにこさせながら言った。彼の笑顔はふかしたての肉まんのようにほっこりしている。僕はほっと心がなごみ、救われた気がした。遥からなにか相談を受けてないかと訊いてみたけど、オカマさんは遥ちゃんは自分のことを話さないからと言い、
「まだ、ほんとうの意味であたしに心を開いてくれてないのよね。あたしは自分の妹のように思ってるんだけど」
 と、ため息をつくだけだった。
 僕は遥の最近の様子や生い立ちをざっと話した。オカマさんの言うとおり、遥は僕以外の人に自分のことを知られるのを極度に避けていたけど、彼にだったら許してくれるだろう。
「やっぱりね。そんな感じがしてたんだけど。――子供の頃に大切なものを壊された人は、どうしてもそうなってしまうのよ。自分を守ろうとしすぎて、しゃちほこばっちゃうのよね」
「遥は、話しかけても申し訳なさそうに顔を背けたりするんですよ。ちょっとした言葉を交わすのもつらいみたいで、怯えた顔をしてうつむくこともあるし。もしかしたら遥が自殺しちゃうんじゃないかって、はらはらするんです」
「自分の殻に閉じこもっちゃってるのね。周りの人の力を借りないとどうしようもないのにねえ。つらさを乗り越えるのは遥ちゃんの言うように自分の力でやらなくちゃいけないんだけど、誰か杖になってくれる人が必要なのよ。誰かに手伝ってもらわなくちゃ、人生の問題なんて乗り越えられるものじゃないわよ」
「僕がいくらでも杖になってあげるのに」
「純粋に人を愛したいっていう遥ちゃんの気持ちはよくわかるわ。できるんだったら、あたしもそうしたいもの。素晴らしい愛よね。でも、遥ちゃんは一途すぎるのよ。急ぎするぎって言えばいいのかしら」
「なにかいい方法はないでしょうか」
「あればいいんだけどねえ。あたしの頭じゃ思いつかないわ。焦らないでとか、もっとリラックスしていいのよとか、月並みなことしか思い浮かばないもの。――いちばん大事なことは、大切な人に愛されてるって心の底から実感できることね。それがわかれば、気持ちがずいぶん落ち着くものなのよ」
「愛しているつもりなんですけど、わかってくれてないのかな」
 思わず、僕は弱音を吐いてしまった。
「あら、ごめんなさい。そういうつもりで言ったんじゃないのよ。佑弥君が遥ちゃんをほんとうに大切にしてることはすっごく感じるわ。はたから見ていて羨ましいもの。あたしだって、遥ちゃんみたいに愛されてみたいし、いつかそんな彼氏に出会いたいって思うわ。でもね、よくあるじゃない。人が親身になっていいアドバイスをくれてるのに、ぜんぜん耳に入らないことって。落ちこんじゃって、自分を見失ってることって」
「そうなんですよね。遥は自分を見失っているんですよね。――どうやったら自分を取り戻してくれるんだろう」
 僕はため息をついた。
「佑弥君、ちょっと気分転換でもしてきたら。あなたが煮詰まったら、遥ちゃんはどうなるのよ」
「ほんとうにそうですよね。遥が頼れるのは僕しかいないから。――旅行にでもふらりと出かけたいんですけど」
「行ってくればいいじゃない」
「でも、遥が心配だからほっとけないですよ」
「それじゃあ、ふたりで行ってきたら。ふたりでいっしょに気分を入れ替えたらいいじゃない」
「この間、遥に旅行しようって言ったんだけど、黙って返事もしてくれなかったんです」
「八方手詰まりなのね」
 オカマさんは頰杖をつく。
「そうなんです。――こんなことを話してすみません」
「あら、どうしてそんなことを言うのよ。あたしたちは友達じゃない。そうでしょ」
「ありがとうございます」
「他人行儀ね。頭を下げるほどのことじゃないわよ。こんな時のために友達がいるんじゃない」
「女の子って、こんな時どうすれば気分転換できるんですか? 僕は遥しか知らないから、よくわからないんですよ。甘いものを食べたり、髪を切ったりした時に遥の気分がよくなるのはわかるんですけど」
「そう、それがあるじゃない」
 オカマさんは嬉しそうに両手を叩き、
「あのね――」
 と、思いついたアイデアをこっそり話してくれた。

 その週末、オカマさんは遥を呼び出してくれた。遥は気分がすぐれないことを理由にして断ろうとしたのだけど、
「せっかく、言ってくれてるんだからさ」
 と、僕は遥を引っ張ってヘアサロンへ行った。夕暮れた駅前の大通りは、金曜日とあって賑やかだった。
「遥ちゃん、よく来てくれたわね。待ってたのよ」
 オカマさんはいつもの笑顔で遥を迎えてくれた。白いモノトーンの内装で整えた店に『くるみ割り人形』が流れている。有線放送のバレエやオペラの曲ばかりかけているのがこの店の特徴だった。オカマさんはそれを気に入って勤めることにしたらしい。
「なに?」
 遥はきょとんとしている。
「さあ坐ってよ」
 オカマさんは美容椅子を足でさっと回転させた。
「予約を入れてないけど」
「あたしが入れたのよ。プレゼントよ」
「どうして? 誕生日でもないのに」
「誕生日じゃなくてもいいじゃない。プレゼントしたいから、プレゼントするの。いけないかしら」
「そんなことないけど」
 遥はまだとまどっている。
「遥、人の好意は素直に受け取るもんだよ。坐りなよ」
「でも――」
「いいから」
 僕は遥の背中を押して、遥を椅子に坐らせた。
「遥ちゃん、どんなふうにしようかしら」
 慣れた仕草で椅子を鏡へ向けたオカマさんは遥に訊く。
「いつもとおなじでいいわ」
「あら、それだったらプレゼントした甲斐がないじゃない。ちょっとさ、気分が明るくなるような感じにしない」
「いいけど」
「それじゃあね、あたしは前から遥ちゃんに似合うヘアスタイルを考えてたから、今日はそれを試してもいいかしら」
「おまかせするわ」
「よかった」
 オカマさんと僕は目を合わせてうなずいた。僕はよろしくお願いしますと言って、待合のソファーに腰かけた。
 オカマさんは遥の髪を洗い、さらさらとカットする。僕は宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を読みながら、二人の様子をちらちら見た。初めは暗い面持ちだった遥もカットが進むにつれて、薄皮をはぐように表情が落ち着いた。オカマさんがなにくれとなく遥に話しかける。遥は、鏡に映る自分を見ては二言三言《ふたことみこと》話して気持ちよさそうに目を閉じるようになった。
 カットの後、オカマさんはパーマを勧めた。
「当てたことがないから、いいわ」
 と、遥はしぶったのだけど、
「あたしに任せて。遥ちゃんのパーマデビューを担当させてもらえるなんて光栄だわ」
 と、オカマさんはそう言って無難にことを運んでくれた。
 僕のお腹が空いて耐えられそうになくなった頃、新しい遥ができあがった。いつものように生真面目そうな感じではなく、活発で楽しそうな髪形に仕上がった。なんという名前のヘアスタイルかは知らないけど、髪のすそがぴょんと跳ねていてかわいらしい。
「わたしはこんなふうにもなるのね」
 遥は手鏡を見ながらつぶやいた。まんざらでもなさそうだった。
「どう?」
 オカマさんが遥の肩にやさしく手をかける。
「いいわね。なんだか違う自分になったみたい」
 ようやく、遥は明るい笑顔をみせてくれた。
「そうでしょ。女は変わることができるのよ。いつでも新しい自分になれるの」
 セットを終えてから、三人近くにある魚料理専門のレストランへ行った。普通の食堂にくらべていささか値は張るけど、品のある味付けで料理はどれもおいしい。遥はハマチの刺身定食、オカマさんはブリの照り焼き定食、僕は日替わり定食を頼んだ。日替わりの中身はカレイの煮付けだった。
 オカマさんは小熊のような丸顔をにこにこさせて、遥の髪を何度も眺める。オカマさんとしても自信作のようだった。
「話は変わるけど、にわとりちゃんってすごいのよ」
 小鉢に入っているかぼちゃの煮物を食べながらオカマさんが言う。
「どうしてですか?」
 遥はちょうどハマチの刺身を口に入れたところだったので、僕がかわりに訊いた。
「廃鶏《はいけい》って聞いたことあるかしら」
「ないですけど」
 僕は首を振った。
「卵を産むにわとりちゃんが役に立たなくなると廃棄処分になっちゃうんだけど、それが廃鶏なの。狭い鶏舎のなかで二十四時間、強いライトを当てられてむりやり卵を産まさせられるでしょ。そうすると、体がぼろぼろになって卵を産めなくなっちゃうのよ。もうみてられないの。羽はぱさぱさだし、ぜんぜん艶がないのね。いくらトリートメントしても、毛染めしてもだめかなあって感じなのよ。おまけに、羽が抜け落ちて骨が見えるにわとりちゃんもいるのよ」
「かわいそうね」
 刺身を食べ終えた遥がようやく会話に参加した。新しい髪型がいい影響を与えているのか、今晩の遥はわりあいよく話す。
「ほんとにそうよね。でも、そんなにわとりちゃんたちのおかげであたしたちは安い値段で卵をいっぱい食べられるんだけどね。にわとりちゃんをこきつかってあたしたちは生きてるのよ。それはともかく、うちのお父さんが廃鶏を何羽かもらってきて飼うことにしたの。実家は農家だし、庭に放し飼いにしておけばいいから、手間もかからないのよ。
 去年のお盆に田舎へ帰った時にちょうど飼い始めたんだけど、いつまでもつのかしらって不安だったわ。死なせたら申し訳ないじゃない。でも、今年の夏に帰ったら、にわとりちゃんはまた卵を産むようになったの。すごいでしょ。毛も抜けて、おじいさんみたいによたよた歩いて、もうほとんど死にかけてたのに、ちいさな庭で暮らしているうちに元気になったのよ。一度は要らないって言われて捨てられたにわとりちゃんなのにね」
「すごいわね」
 遥は箸をとめ、感心したように言った。
「そうよ。命ってすごいのよ。リラックスして、気ままに庭を走り回って、そんなふうにふつうの暮らしをしてるだけで、ふつうに元気になるの。鶏舎にいた時より、ずっと元気なんじゃないかしら。それでね、にわとりちゃんが産んでくれた卵を食べたんだけど、それが甘くておいしいのよ。このあたりのスーパーでも地卵なんか売ってるけど、あんなの目じゃないわよ。ずっとずっとおいしいの。卵かけご飯なんかにしたら最高よ」
 話し終えたオカマさんは、おいしそうにブリの照り焼きをほおばる。僕はなぜ彼がそんな話をしたのかわかった。彼は廃鶏のことを語りながら、遥を励ましてくれている。僕は感謝の気持ちで胸がいっぱいになった。
 オカマさんは、地鶏の話をあれこれとしてくれた。
 農家で飼っている食肉用の鶏はむりやり成長させるための合成飼料を使わずに、粟や稗《ひえ》といった自然の雑穀を食べさせるから、味がとても濃いのだそうだ。毎日、庭先で運動をしているから、肉も引き締まって歯ごたえがある。オカマさんが実家へ帰ると、お父さんが必ず地鶏を一羽潰して鶏鍋を作ってくれるので、家族で鍋をつつくのがとても楽しみなのだとか。今度ふたりで遊びにいらっしゃいと誘ってくれた。
「腹ごなしに散歩しましょうよ。遥もいいだろ」
 店を出た後、僕は二人を散歩に誘った。
 街灯がともった住宅街へ入る。しんとして静かだ。遥はなんにも疑わずについてくる。やがて、目的地のタイムパーキングに着いた。
「二人でドライブへ行ってらっしゃい」
 オカマさんは車のキーを差し出す。彼のシビックを貸してもらうことになっていた。受け取ったキーホルダーにはアイヌ人形のコロポックルがついていた。
「いっしょにいかないの?」
 遥がオカマさんに訊くと、
「あたしは明日も仕事だから。早番だし。それじゃ」
 と、彼は小さくしなを作り、こまかくかわいらしく手を振る。
「今日はありがとうございました」
 僕は頭を下げた。
「楽しんできてね」
 にこにこしたオカマさんは振り向き、そのまま住宅街の角を曲がった。
「いいのかしら」
 遥は、まだ彼が消えたブロック塀のあたりを眺めている。
「旅行に連れてってあげて言って、貸してくれたんだよ」
「そうなの」
 遥はうつむいた。目の縁がにじんでいる。オカマさんの気持ちが通じたようだった。
 調布から夜の中央高速に乗った。
「どこへ行くの?」
 助手席の遥が言う。カーナビは西へ表示を出している。オカマさんがあらかじめセットしておいてくれていた。
「飛騨高山のあたりだよ。紅葉《もみじ》を観に行こう。ネットで調べたんだけど、今が見頃なんだって。明日の晩は温泉宿を予約してあるんだ」
「わたしはなにも持ってきてないわ」
「荷物はトランクに入っているよ。着替えもちゃんとあるから」
「いつ準備したの?」
「昼のあいだにね」
「知らなかった」
「遥が学校へ行っているうちに、全部用意したんだ」
「そうなの。ありがとう」
「お礼なら、篠山《ささやま》さんに言わなくっちゃ。彼がお膳立てしてくれたんだよ。帰ったら、お礼になにかご馳走しようね」
「わたしの作ったコロッケが好きだっていってたわ」
「そういえば、いつかそんな話をしてたね」
「あまったコロッケでサンドイッチを作って、いっしょに食べたことがあったの。ささちゃんはすごく喜んでくれて、また食べさせてちょうだいって言ってたんだけど、まだ作ってないのよ。でも、カットしてパーマまでかけてくれたのに、コロッケじゃ、つりあわないわね」
「コロッケとほかにご馳走を用意して、篠山さんをうちに招待しようよ」
 遥はなにも答えない。助手席を見ると、遥はもう眠っていた。
 心なしか、いつもより安らかな寝顔だ。愛されているということを実感してくれたからだろうか。もしそうなら、ほんとうにいいのだけど。
 相模湖を抜けて、大月ジャンクションをまっすぐ走る。先へ進めば進むほど乗用車が減ってトラックが増える。数珠繋ぎに走るトラックを何回も追い越した。
 イグニッションキーについたコロポックルがゆらゆら揺れる。民族衣装を着て細い目を微笑ませた小人だった。妖精とも、アイヌ民族が暮らしている地域の先住民族ともいわれている。コロポックルの笑顔はとてもやさしい。野仏のようにただ微笑んでいた。
 黒い山影のうえに月が見えるだけで、星はひとつも見えない。長いトンネルをずっと走っているようだ。FMから静かな音楽が流れる。車の風切音だけが響いている。
 遥のことを考えると、せつなくなってしまう。
 いつまでたっても晴れない暗い霧のなかで少女時代を過ごした遥は、平凡な倖せを手に入れることすらできない。ありふれた倖せのなかで育ち、そのまま平穏な人生を送る人もいるというのに、純粋すぎるほど純粋な遥には次から次へと不幸が降りかかってしまう。たぶん、遥の心には、まるで時限爆弾のようななにかとんでもないものが埋め込まれていて、それを解除しない限り、倖せになれないのだろう。それは憎しみの種、あるいは恨みの種と呼ぶべきものなのかもしれない。遥の言っていた堕落した愛情が心のなかで腐ったものなのかもしれない。それがわかっているから、心の桎梏《しっこく》になっているものを外そうとして、遥はひたすら純粋な愛を追い求めてしまうのだ。それさえ手に入ればすべてが解決するはずなのだけど、簡単には手に入らないものだから、いつも挫折感にさいなまれてしまう。自分の影に怯えてしまう。
 僕は、そんな遥に寄り添ってあげることしかできない。
 無力なんだとつくづく思う。
 どうしてあげればいいのかはわからないけど、今はただ、ぐっすり眠って欲しかった。オカマさんが話してくれたように、リラックスして普通に暮らせば、いつか悲しみの長いトンネルを突き抜けて、コロポックルのように穏やかな笑顔を浮かべながら暮らせる日がくると信じたかった。命を取り戻した鶏のように、元気になってくれると思いたかった。
 途中のサービスエリアで車をとめて二時間ばかり仮眠を取った。夜が冷たく白む頃、高速道路を降りた。

空飛ぶクジラはやさしく唄う 第6話

2012年01月01日 17時06分22秒 | 恋愛小説『空飛ぶクジラはやさしく唄う』
 まっさらな心を思い出して


「ゆうちゃん、生理がこないの」
 遥は蒼ざめた顔をしていた。夕飯の洗い物を終えたばかりの濡れた手をエプロンでぬぐう。
「どれくらい遅れてるの?」
「十日くらいかな。もうとっくにきてもいいはずなのに」
「ちょっと調べてみようか」
 僕は、薬箱から妊娠検査薬キットを出した。
 遥の生理が遅れたことは、前にも何度かあった。さすがに初めての時はあせったけど、もう慣れてしまった。安全日以外はきちんとコンドームをつけていたから、それほど心配することでもないだろう。女の子の体はデリケートだから、いつも周期ごとにくるとは限らない。遥は、キットを手にしたまましょんぼりとちゃぶ台の前に坐った。つけっぱなしのテレビのニュースは、失業率がまた上がったと伝えていた。
「三分経ったね。貸してごらん」
 僕は検査薬キットを遥の手から取った。妊娠を示すラインは浮かんでいない。
「陰性だよ」
「ほんとうかしら?」
 遥は眉の端をひっそりさせ、不安げに首を傾げる。
「説明書には念のために病院で検査してくださいって書いてあるけど、キットは九十九パーセントの確率で正確らしいから、大丈夫だよ思うよ。もし何日かしてまだ始まらなかったら、いっしょに病院へ行こうよ」
 早くくるものがきて、遥が安心してくれないかと願ったけど、三日経っても遥の生理はこなかった。僕たちは近所の産婦人科の開業医へ行った。
 古ぼけた診療所の待合室は満員だった。壁沿いに四つ並んだ黒いビニール張りの長椅子がすべて埋まっている。臨月間近の大きなお腹をした妊婦もいれば、ひどくやつれた顔をした中年の女性もいた。薬の臭いに混じってむせるような生温かい匂いがする。鼓動し始めたばかりの命の匂いなのだろうか。明治や大正の頃からあるようなアンティークな柱時計が壁際に据えてあって、時間になると鐘を鳴らし、くりっとした目の愛らしい鳩が飛び出してさえずった。
「どうしてくれるのよ。あんたのせいじゃん」
 突然、若い女の甲高い声が静かな待合室に響く。向かいの長椅子に坐っていた僕たちと同い年くらいのカップルは、二人ともひどく不機嫌そうだ。彼氏をなじった女の子は唇を尖らす。怒っているせいかもしれないけど、整った顔立ちがかえって擦り切れた冷たさを感じさせた。
「知るかよ。ほかの男の子供じゃねえのか」
 肩まで髪を伸ばした男はぶっきら棒にそっぽを向き、腕を組んで貧乏ゆすりした。
「浮気してるのはあんたでしょ」
 女は声を押し殺す。
「よく言うよ。だったら訊くけどさ、ブログに書いてたことはなんなんだよ」
「だから、あれはあんたが温泉へ連れてってくれるって言ってたのに、ほかの女と行っちゃうから腹いせに書いただけだよ」
「女とふたりで行ったんじゃねえよ。キー坊とキー坊の彼女と、彼女の後輩と四人で行ったんだよ」
「彼女の後輩って女でしょ。それってダブルデートじゃん。布団のなかでなにをしたのさ。まさか四人でってことはないでしょうね」
「だからちげーよ。ただのお友達。指一本触れてません」
「大嘘つき。なんであたしを連れてってくれなかったんだよ」
「お前は、あそこは嫌だ、ここは嫌だって、こだわりすぎなんだよ。うるさいじゃん。めんどくさいから、キー坊とさっさと行くことにしただけだよ。お前の言うことを聞いてたら、どこへも行けないもん」
「お金出すんだから、ちゃんとしたところを選ぶのは当たり前でしょ」
「当たり前だけどさ、お前は文句が多すぎるんだよ」
 男は投げやりだ。
「手術代はあんたが出すんだからね」
 女は彼氏を肘でつついた。
「なんで俺が出さなきゃいけねえんだよ。お前がぼけっとしてるから、こんなことになったんだろ」
「楽しんだのはあんたじゃん。エッチさせてあげたぶん、お金を払ってほしいくらいだよ。今までのもまとめて全部ね」
「よがってたのは誰なんだよ。お前が人のことも考えないでしめつけすぎるから、こんなことになったんだろ」
 二人の声はだんだん大きくなる。診察室から飛び出してきた看護婦が注意して、いったんは喧嘩もやんだのだけど、またしばらくして始まった。要するに、お金の問題だった。自分は損したくないと言い張って押し問答を繰り返している。耳障りだから、遥といっしょに庭へ出た。
 外は小春日和のいい天気。風もあたたかい。ふたりは枯れかけた藤棚のしたのベンチに腰をおろした。雀が舞い降り、つつじの植え込みの陰で地面をつつきながら餌をあさっている。
 若い母親が自転車を押しながら入ってきた。前の子供椅子に幼稚園の帽子を被った小さな男の子が乗っていて、楽しそうに腕を振り回して独り遊びをしている。大人には見えないアニメのキャラクターと戦っているようだ。庭の片隅の自転車置場にママチャリをとめた若い母親は楽しげな子供を睨み、きっと目をすえた。
「早く降りなさい。なにしてんのよ。ぐずぐずして」
 いきり立った彼女は怒鳴りつけ、男の子の頭を手ひどくひっぱたく。男の子は火がついたように泣き始めた。若い母親は自分の子供にまた罵声を浴びせ、なにがそんなに腹立たしいのか、乱暴に抱えて子供椅子からひきずりおろした。男の子はどうしてよいのかわからず、泣き叫びながら同じところをぐるぐる走り回る。
「自転車の子供椅子から、自分ひとりで降りられるはずがないよね。降ろしてあげなかったらどうしようもないのに」
 僕は、診療所のドアを開ける若い母親の姿を目で追った。
「死んだ愛が心のなかで腐っているんだわ」
 遥は静かにつぶやく。
「最近、あっちこっちでヒステリックなお母さんを見かけるけど、貯金箱を壊すみたいに子供を叩くから怖いよね。僕が子供の頃だってみんなひっぱかたれていたけど、今のお母さんはなんか違うんだよな。愛情がない怒りかたって感じがする」
 僕は自分の母親を思い出しながら言った。僕の小さい頃は、まだ愛情のある叱りかたをしていた。だけど、中学になってからはただヒステリックなだけになった。どうも世の中全体がどんどんヒステリックになっていくようだ。どうしてこんなことになってしまったのだろう。
「愛情がないのは、そのぶん欲望がふくれてるからなのよ」
「どういうこと?」
「愛情が大きくなったら、欲望はしぼんじゃうの。逆に、欲望がおおきくなったら、愛情はしぼんじゃうのよ」
「そうして、しぼんだ愛情が心のなかで死んで、心を蝕んでしまうんだね。最善の堕落は最悪、か。――ストレス社会だから、ヒステリックになるっていう人もいるけど」
「ストレスのもとは欲望よ」
「たしかにそうだね。欲しいものを手に入れるためにがまんしたり、逆に、欲しいものが手に入らないからいらいらしたりするわけだからね」
「世の中が世知辛いからってみんな言い訳するけど、わたしはそうじゃないと思う。欲望に流されるからそうなるのよ。欲望に従うことが当たり前だと思って、大切なことを見ないからよ。自分のわがままでいろんなことをだめにしておいて、それから言い訳するの。わたしのせいじゃない、わがままに生きたいだけだって。欲得ずくでなにがいけないの、みんなそうしているじゃないって」
 遥はそう言って押し黙り、胸の内の不安と欲望と格闘するように眼を閉じる。
「ねえ、もし赤ちゃんができていたらどうする?」
 遥の声はすこしばかり震えていた。
「決まってるだろ。いっしょに育てようよ。僕は仕事を探しに行く。最初は大変かもしれないけど、そのうち慣れるよ。遥は学校を続けなよ」
「ゆうちゃんはやめるの」
「そりゃ、稼がないといけないからね」
「だめよ、浪人までして入った大学じゃない。もったいないもの。わたしが学校をやめて働く。わたしひとりで育てるわ。それとも、堕ろそうかしら」
「ばかなことを言うなよ。僕たちの子供じゃないか。殺してどうするんだよ。一生後悔するよ」
 僕は、遥が堕そうかと言うのを聞いてどきりとしてしまった。絶対にそんなことはさせられない。赤ちゃんがかわいそうというだけじゃない。もし堕胎なんかしたら、遥のことだから一生罪悪感に悩まされるのは目に見えている。不幸になるだけだ。
「もしできていたら、きちんと育てようよ。いいね?」
 僕は駄目を押すように強く言った。
「わたしが子供を産んでもいいのかしら?」
 遥は自信なさそうに顔を伏せ、軽く首を振って頰にかかった髪を払った。
「どうして?」
「そんな資格があるのかなって思ってしまうの」
「遥なら、きっといいお母さんになれるよ」
「家庭の味も知らないのに? さっきのお母さんみたいになってしまうかも」
「つらい家に生まれたから、自分の家族を大切にできるんだよ。たぶん、なんの問題もなく普通に育った人は、自分が家庭を壊すようなことをしても気づかないんだと思う」
「――わたしは怖いわ。自分の心のなかにどうしようもないものがあるの。それが動き出したら、とめられないかもしれない」
「それを知っているから、いいお母さんになれるんじゃないのかな。誰にでも、得体の知れないものが心の奥にあるんだよ。魔物が棲《す》んでいるっていえばいいのかな。――それに気づいている人はごくわずかだよね。わかっていたら気をつけることもできるけど、わかっていなかったら、心の闇にいいようにされてしまうだけになるんだよ。たぶん、僕の親も、遥の家族もそうだったんだと思う。でも、大丈夫。遥はそんなふうにはならないよ」
「そうだといいんだけど」
「もしそうなりかけたら、ふたりできちんと話をしようよ。僕がとめてあげる」
「ごめんね。わかっているのよ。いまでもじゅうぶん、わたしはしあわせなのよね。いつでもゆうちゃんがそばにいてくれるし。ゆうちゃんはいつでもわたしを受け容れてくれるんだもの。自分を受け容れてくれる人に出会える人はさいわいよ」
「遥だって、僕を受け容れてくれているんだよ」
 看護婦が遥の名前を呼んだ。僕は遥の手を牽いていっしょに診察室へ入った。
 検査の結果、遥は妊娠していないことがわかった。老医師の見立てはストレスのせいだろうとのことだった。ストレスを溜めこんで生理不順になる女性が増え続けているらしい。医師の説明を遥のそばで聞いていて、遥の葛藤は僕が考えている以上にすさまじいものだと思い知らされた。
「気を楽にしなさい」
 老医師は微笑みを浮かべ、肩をほぐす仕草をしながら言ってくれたのだけど、遥は浮かない顔のままだ。
「お嬢さん、生きることは悩むことですよ。私はこの歳になっても、まだ悩み続けている。棺桶に片足をつっこんでいるのだから、もうそろそろ、いつお迎えがきてもいいように心の準備をしておかないといけない歳なのにね。若いあなたがいろいろ悩むのもむりはない」
 厳しく優しく澄んだ瞳をした老人は、冗談めかして言った。遥は膝のうえでぎゅっと拳を握る。まぶたが怯えたように打ち震えた。
「あなたがたもお忙しいかもしれないが、すこしだけ話をさせてください」
 老医師は笑顔をやめ、ふっと真顔になった。
「私が高校生だった頃、もう半世紀以上前のことですが、身重の姉が崖から海へ身を投げてしまいました。自殺する二日前、思いつめた顔をした姉が私と話したそうにしていたのですが、受験のことで頭がいっぱいだった私は冷たくあしらってしまいました。そのことが、今でも心の底に重く沈んでいます。あの時、きちんと話を聞いてあげれば、あるいはあんなことにはならなかったのではないかと思うと、悔やんでも悔やみきれません。姉と姉の子の死がきっかけになって、私はこの道を選びました。
 産婦人科医になってから、これまで数万人の赤ん坊を取り上げました。どの赤子もまっさきにすることは、泣くことです。人は、泣きながらこの世に生をうけます。医学的には泣かなければ呼吸できないわけですが、ひょっとしたら、赤子にとって誕生は死なのではないかと思わないでもありません。それまで母親の子宮のなかでゆったりと羊水に漂って楽しく過ごしていたのに、抵抗できない力でいきなり見ず知らずの外界へ引きずり出されるわけですから、見方を変えれば恐ろしい死なのかもしれません。死というのが言い過ぎなら、エデンの園を追放されて荒野へ出たアダムとイブのようなものでしょうか。
 とはいえ、赤ん坊はすぐにこの世界に順応します。それどころか、好奇心に胸を弾ませて毎日わくわく過ごします。ありがたいことに、私の取り上げた赤子を連れて挨拶しにこられるお母さんがおられますが、彼女たちの幸せそうな姿を見るのが、いちばん楽しい。生きていてよかったと思える瞬間です。赤ん坊はつぶらな瞳を輝かせながら、笑って、泣いて、はしゃいで、むずかって、心を全開にして生きています。それは、あなたにもかつてあったことなのですよ。
 赤子の時の記憶を思い出すことはできませんが、一度、想像してみてはどうでしょうか。なんでも不思議がって、なんでも面白がっていた赤子の時代を。まっさらな心で思いっきり生きていた時のことを。
 あなたがなにをそんなに悩んでいるのか、私にはわかりませんが、悩み事はリュックのようなものだとお思いなさい。それを担いで歩くのが人生です。肩が痛くなったら、歩くのをやめて、そのリュックをかたわらにおろして休憩なさい。太陽の光を浴びて、草の匂いをかいで、なにもない青空のようなまっさらな心を思い出したら、またそのリュックを担いで行きなさい。私の言いたいことはこれだけです」
 老医師は、やさしいまなざしを遥へ注ぐ。
「はい」
 遥は小さくうなずいた。遥の瞳にはいくぶん輝きが戻っている。僕はほっと息をついた。
「大切なのはまっさらな心です。悩むのもほどほどにして、気を楽になさい」
 老医師は目尻に笑い皺を作り、ゆっくり両肩を回す。僕たちはお礼を言って診察室を出た。
 駅前まで行って、スーパーへ寄った。
「いいお医者さんだったね」
 僕は、しいたけのパックを籠に入れながら言った。
「そうね。わたしもまっさらな心で生きていた時があったのよね。それから、誰にでもいろいろあって、みんなリュックを担いでいるのね」
 遥は普段と同じ表情で白葱を見比べている。僕は、張りこんですき焼きの材料を買った。おいしいものを食べて、もっと元気になって欲しかった。
 緊張がほどけたせいか、その晩から遥の月経が始まった。用意周到な遥が珍しく生理用ナプキンを切らしていたから、僕はあわててコンビニへ買いに行った。コンビニ袋に入れたナプキンをぶらさげて走りながら、子供ができたらどうなるのだろうと考えた。今度は、紙おむつを買いにコンビニへ走ることになるのだろうか。それも悪くない。むしろ、待ち遠しい気がする。秋の夜風が快い。
 あと二年半で卒業だ。
 とにかく、内定だけは取れるようにがんばろう。
 仕事さえ決まれば、僕たちの未来は開ける。
 ふたりでしっかり生きていこう。
 僕たちが欲しくてもどうしても得られなかったもの――倖せな家庭を築こう。
 将来のふたりの姿を想い描いて、三人になった家庭を空想して、僕はどきどきしながらワンルームマンションの階段を一段飛ばしに駆け上った。
 だけど、息を切らせてドアの前に立った僕は、突然、頭のてっぺんからつまさきまで鳥肌が立つのを覚えた。なにかに摑まれたように心臓がぎゅっと締まる。嫌な予感がして、胸騒ぎがどうにもとまらない。僕は急いで鍵を開けた。
 冷たい部屋にくぐもったうめき声が響いている。遥の姿は見当たらない。ユニットバスの扉が開いて、明かりがもれていた。
「どうしたの?」
 遥は、ユニットバスの便器にかがみこんで吐いていた。プラスチックの床には血が流れ、なんともいえない臭いがこもっている。僕は換気扇のスイッチを入れ、遥の背中をさすった。
「遥、大丈夫?」
 そう呼びかけても、顔をしかめた遥は苦しそうに首を振るのが精一杯だった。
 せっかく、すこしは元気を取り戻してくれたものだと思っていたのに。
 今晩のすき焼きだって、おいしそうに食べてくれていたのに。
 遥の顔からすっかり血の気が引いている。遥は、激しい嘔吐を繰り返す。
 走りながら想い描いていたふたりの未来図が音を立てて崩れるようで、僕は薄暗い不安に駆られた。


空飛ぶクジラはやさしく唄う 第5話

2011年12月31日 18時04分57秒 | 恋愛小説『空飛ぶクジラはやさしく唄う』
 やさしさを交換しなければ、人は生きていかれない


 お月見の日からしばらくの間、遥は平穏に過ごしていたけど、十日ほどたったある日、またひどく落ちこんでしまった。
 真夜中にふと目覚めた。
 カーテンの隙間から射しこむさやかな月の光が遥の白い顔を照らしている。冴えた大理石のように光る遥の頰が僕の遠い記憶を呼び覚ます。生まれる前から結ばれていたような、たまらない懐かしさが僕をつつんだ。遥には月の光がよく似合う。
 遥の髪をなでようと手を伸ばした瞬間、
「ゆうちゃん」
 と、遥は寝言をつぶやきながらぐすんと泣いて体を震わせる。夢の中で僕にしがみつこうとした遥の手を取り、首に抱きつかせてあげた。
「どうしたの?」
 そう問いかけても、遥は目を閉じたままはらはらと涙を流すだけだ。
「遥」
 僕は肩を揺さぶった。それでも目を覚まさないから、軽く頰をはたいた。遥ははっと目を開ける。涙で濡れた瞳に、僕の顔が映っている。苦しげに息をあえがせ、胸を大きく上下させていた。
「悪い夢を見たの?」
 遥はなにも答えず、僕の体をせつなく抱きすくめる。
「どんな夢?」
「ゆうちゃんはきっと怒るわ」
「怒らないから」
 僕は遥の額にくちづけた。
「ゆうちゃんが、もう付き合っていられないから別れようって言ったの。僕は疲れたって」
 遥はかすれた声でささやく。
「ただの夢だよ。僕はそんなことを言わないよ。なにがあっても、遥を見捨てたりしないから。遥は僕のすべてだもの」
「ほんとに?」
「ほんとだよ」
 わかっているはずのことを確かめてしまう遥に、僕は危うさを感じた。
「思ってることを言ってごらんよ」
「ゆうちゃんを利用しちゃいけないって思うと、苦しくなってしまうの。それで、わたしはよけいにわがままなことを言ってしまうのよ。わがままを言った後で、そんな自分が嫌になってしまうわ」
「利用したっていいんだよ。たまには、わがままを言ったっていいんだよ」
 ――やっぱりあの日からずっと悩んでいたんだ。
 僕はそう思いながら言った。遥が抱えているはかなさは、僕の手の届かないところにあるのだろうか。
「きっと、ゆうちゃんは疲れてしまうわ」
「そんなことないよ。利用するって言うと悪いことをしているみたいだけど、それはやさしさのとりかえっこなんだよ。人は独りじゃ生きていかれないだろ。だから、僕たちはこうしていっしょに暮らしているんだよ」
「そうかもしれない」
「僕も遥も、壊れた家庭に育ったから、家庭的な情愛のぬくもりを知らないんだ。僕はまだ幼かった頃の楽しかった雰囲気を覚えているからいいけど、たぶん、遥はそんな記憶もないだろうし、僕よりもずっとつらいことをいろいろくぐり抜けたから、遥のほうがきついだろうね」
「わたしは家庭のぬくもりなんて知らないわ。ただ怖かった。いつも、両親とお姉ちゃんとおばあちゃんの顔色ばかりうかがっていたもの。今は時々、ゆうちゃんの顔色をじっと見てしまうわ」
「そんなことしなくていいんだよ。――遥はとまどっているんだと思う。きつい状態しか知らなかったから、落ち着いた気分になったら逆にどうしていいのかわからなくなって、怖くなってしまったんじゃないのかな」
「そうかな? わからない。――許されている以上にしあわせなんだっていうのはわかるけど」
「倖せになることが許されない人なんて誰もいないよ。――お茶でも淹《い》れようか」
 僕は起き上がった。
「ごめんなさい。ゆうちゃんは、明日ロシア語のテストなのに」
「いいんだよ。第二外国語より遥のほうがずっと大切なんだから」
 遥が電気ポットのお湯を再沸騰させ、玄米茶を淹れてくれた。遥は力なく肩をすぼめ、折り畳み式のちゃぶ台の向こう側に申し訳なさそうに坐る。
「こっちへおいでよ」
 僕は隣に坐るよう招きよせ、遥の手を握った。遥は幼い妹がお化け屋敷のなかで兄の手を握り締めるように、かたく僕の手を握る。ふたりで熱いお茶をすすった。遥は、すこしばかり気持ちが落ち着いたようだった。
「人は独りでは生きていかれないから、やさしさをとりかえっこする必要があるって、さっき言ったよね」僕は言った。
「うん」
「やさしさは誰でも持っている。僕も持っているし、遥も持っている。でも、やさしさは自分ひとりで持っているだけじゃ、ほんとうの意味でのやさしさにならないんだ」
「どういうことなの?」
「やさしさは、誰かと交換する必要があるんだよ。信頼できる誰かと。この人なら、絶対にひどいことを言ったり、自分を裏切ったり、自分の心を踏みにじったりしないっていう誰かとね。それが、僕の場合は遥なんだ。やさしさは誰かとわかちあって、はじめてぬくもりが生まれるんだ。そして、そのぬくもりのおかげで生きていかれるようになるんだよ。完璧な人間なんていないから、人の善意に頼ったり、誰かに自分の弱さをおぎなってもらわないと生きていかれない。やさしさをわけてもらって、お互いに温めあわないと生きていかれないんだよ。――それを裏返してみれば、遥が言うように人を利用するっていうことになるのかもしれないけど、僕は遥にやさしくしたいんだ。遥とやさしさを交換したいんだよ。それは、間違ったことじゃないと思う」
 僕は、諭すように言ってお茶を飲み干した。僕の湯呑みに注ぎ足した遥は、じっとちゃぶ台を見つめながら考えこんでいる。僕は、なにも言わず遥の答えを待った。やがて、遥は口を開いた。
「わたしも、これからずっとゆうちゃんとやさしさをとりかえっこしたいわ。わたしたちは、中学生の時からずっとそうしてきたのよね。そうやって、ふたりで温めあって、支えあって生きてきたのよね」
「わかってるんだったら、悩むことなんてないじゃない」
「でも、やっぱりどうしても考えてしまうの。わたしは家庭のあたたかさなんて知らずに育ったし、大人同士が勝手な言い分で奪い合う姿ばかり見すぎたから、悪く考えてしまうのかもしれない。でもね、どう言い訳したって、求めることは奪うことだわ。そんなことに慣れてしまう自分が嫌なの。求めることになれすぎてしまったら、そのうち大好きなゆうちゃんを損なってしまうわ。ゆうちゃんを苦しめても、それに気づかなくなるかもしれない。どうして、わたしのいうことを聞いてくれないのって、そんなふうにしか思わないようになるかも。まわりの女の子たちを見ていると、よくそう思うのよ。帰り道に送ってくれなかったとか、誕生日のプレゼントが自分の欲しい物じゃなかったとか、そんなつまらない欲求でみんな自分の愛を穢しているのよ。そんなことでたいせつな愛情を損なっていることに、気づいていないのよ。いつか、わたしもそうなるかもしれない。ゆうちゃんのことをたいせつにしたいのに、こんなふうだったら、ほんとうの愛情にたどりつけなくなってしまうわ」
 遥は、悲しそうに顔を伏せた。
 遥は、なにがあっても変わらないたいせつなものを見つめようとしている。だけど、たいせつなものを見つめるのと同じだけ、心の暗闇を見つめている。幼い頃から家族が憎みあう姿を見て育った遥には、その暗闇はなじみのものなのだろう。もしかしたら、遥は虚無の前に立ちすくんでいるのかもしれない。ふとそんな気がした。
「それじゃ、今の愛情は贋物《にせもの》なの?」僕は訊いた。
「そんなことないわ」
「責めてるわけじゃないよ」
「わかってるわ」
「遥が純粋なものを求めてるのはわかるんだけど、たぶん、それはずっと先にあるものなんだよ。今の愛情だって、本物だろ?」
「わたしの気持ちはほんとうよ」
「僕もそうだよ。今だって、十分すぎるくらい倖せだし、僕の人生のなかでいちばん倖せな時なんだよ。これがずっと続いてほしいと思う」
「わたしもそうなの。わたしだって、ずっとゆうちゃんとなかよくしていたいわ」
「ふたりがそう思ってるなら、僕たちの愛情は本物だよ。まだまだ未熟かもしれないけど、たいせつな気持ちをおたがいに持っているんだよ。それがいちばんだいじなことなんじゃないかな。今はそれだけで十分なんだよ。あせらなくてもいいんだよ。かならず、もっと倖せになれるから」
 僕は、励ますつもりで遥の肩を握った。だけど、遥は首を振り、よくわからないというふうに髪を揺らす。
「そうならいいんだけど、わたしはいつも後ろからなにかに追いかけられているような気がしてしょうがないの。――ゆうちゃん、『最善の堕落は最悪』っていう言葉を知ってる?」
「初めて聞いたよ」
「昔、教会の施設に預けられていたでしょ。その時に神父さんがよくいってたの。ラテン語の諺だそうよ。Corruptio optimi quae est pessima」
 遥は呪文のように唱えた。
「コッルプティオ・オプティミ・クアエ・エスト・ペッシマ?」
「そうよ。いちばん美しいものが堕落すると、いちばん醜いものになってしまうんですって。シェイクスピアのソネットにも似たような表現があるの。

 いちばん甘美なものがその行ないによっていちばん饐《す》えたものになる。
 腐った百合の花の放つ悪臭は、雑草よりもひどい。

 こういう詩よ」
「わかるような気がする」
 僕は、ゴミ置場にうち捨てられた腐った百合を思い浮かべた。
「お父さんも、お母さんも、おばあちゃんも、わたしが生まれた時、どんなにうれしかったかってよくいってたわ。嘘じゃないと思う。でもね、家族がばらばらになって、誰がわたしを引き取るかって話になった時、わたしのことなんて考えないでみんな勝手なことばかりいうのよ。お父さんもお母さんも、わたしがかわいいから自分が引き取るっていうんだけど、わたしを道具にして奪い合いをしていたんだわ。取られたら悔しいからって、自分の沽券にかかわるからってね。わたしは、わたしがいうことを聞けば丸くおさまるんだと思ってたから、いわれるままにあっちへ行ったりこっちへ行ったりしてたけど、たまらなかった。みんな、愛情がまったくないわけじゃないの。だから、よけいに性質が悪いのよ。愛情に嘘が混じっているから、愛情に自分の欲得が混ざっているから、わたしを苦しめても、誰もなんとも思わなかったのよ。わたしは、絶対、こんな人たちみたいにならないって誓ったわ。――愛情っていう最善のものが堕落して最悪のものになってしまったのよ。美しかったはずのものが、心のなかで腐ってしまったのよ。心を腐らせたのよ」
 遥は涙を一筋こぼした。
「つらかっただろうね」
 僕は、いたわるように遥の背中をさすった。
「でも、遥はそんなふうにならないよ。そんな女の子じゃないもん」
「わからないわ」
「わかるよ。僕たちは、中三の時からずっと一緒だったんだよ。もし遥の愛情が堕落するようなものだったら、もうとっくに別れてるよ」
「ゆうちゃん、中学校や高校の頃とは違うのよ」
「わかってるよ。僕たちも大人になってきたからね」
「普通に付き合うのと、一緒に生活することはべつだわ」
「僕もそう思う。好きって言っていればそれでいいわけじゃないからね」
「勉強にしたって、アルバイトにしたって、家事にしたって、いろんなことをこなさなくちゃいけないわ。中学生や高校生の頃に比べたらいろいろ自由になったぶん、いろんなことを満たさなくちゃいけないわ。やらなくちゃいけないことが増えただけ、欲望にさらされることも多くなるの。自分の責任でいろんなことができるようになったぶんだけ、つまらない欲望やわがままも増えてしまうの。そんな欲望と向かい合っていると、感化されちゃいそうで怖いのよ。求めることしか考えられなくなりそうで、怖いわ」
「怖がることなんてないよ。僕たちは与えあって生きているんだから、与えて欲しいって求める気持ちも、当然湧いてくるものなんだよ。現に、僕だっていろんなことを遥に求めてるよ。いっぱい与えてもらってもいるし」
「ほんとうにそうならいいんだけど」
「遥は、もうちょっと自分に自信を持っていいんだよ。そうするべきだと思う」
「時々思うの。わたしなんかといっしょに暮らさずに、ほかの誰かと付き合ったほうが、ゆうちゃんにとっていいことなんじゃないかって」
「どうして?」
「だって、わたしの心はどこかゆがんでいるもの」
「ゆがんでいる女の子がさっきみたいなことを言ったりしないよ。遥は、考えすぎなだけだよ。――誰だって、欲望はあるし、醜いところだってあるものなんだよ。そんな自分と綱引きしながら、どうやって自分に負けないようにするのかが人生なんじゃないかな」
「そうかもしれないけど」
「遥、自転車の運転と同じだよ。初めて自転車の練習をした時、最初は怖かっただろ」
「うん」
「でも、慣れればなんてことないよね。すいすい自転車を漕げるようになって、怖がらずにどこへでも行けるようになるよね。欲望に慣れるのも同じことだと思う」
「わたしは慣れたくないのよ」
「わかっているよ。でも、慣れるしかないんだよ。残念だけど、この世はユートピアじゃないし、人間から欲望を消し去ることなんてできないから、自分の欲望と付き合っていくしかないんだよ。大切なことだけ忘れなかったら、それでいいんじゃないかな。怖がってばかりいたら、きりがないよ。ゆっくりでいいんだよ。僕たちは、やっと自分たちの手で人生を作れるようになったばかりなんだから」
「ゆうちゃんのいうとおりかもしれないわね。――ゆっくり考えてみる」
 遥は心細そうにうなずく。どうしても自信を持てないようだ。
「ふたりでいればなんとかなるものだよ。ふたりでいることが、いちばん大切なことなんだよ。だからさ、自分なんかいないほうがいいんじゃないかって、そんなことは考えないで。言って欲しくないよ、そんなこと。遥は、ひとりで生きているんじゃないんだよ。僕たちふたりで生きているんだよ。やさしさをとりかえっこしながらふたりで生きようよ」
 僕は遥を抱きしめた。
「ごめんなさい。こんな鬱陶しい話ばかりして」
 遥は、僕の腕にぽろぽろ涙をこぼした。
「謝らなくたっていいんだよ」
 僕が考えていた以上に、遥はつらい思いをして生きてきたのだろう。そう思うと、僕も泣きたくなった。倖せというものは、めったに得られるものでもないし、どこかに落ちているものでもない。だからこそ、倖せにしてあげたいと心から願った。

空飛ぶクジラはやさしく唄う 第4話

2011年12月19日 07時35分15秒 | 恋愛小説『空飛ぶクジラはやさしく唄う』

 あの頃、君の背中が僕の支えだった



 いつの間にか、コーヒーが運ばれていた。
 ミルクをすこし入れて一口飲むと、とりとめもなく中三の頃のことが脳裡に甦った。
 一学期の半ばに席替えがあって、ふたりの席は離ればなれになってしまった。授業中に一緒にプリントを見たり、消しゴムのやりとりをしたりすることも、遥の透明な香りにつつまれることもなくなってさびしかったけど、それでも通路をはさんで二つ斜め後ろの位置だったから、黒板を見れば自然と遥の後ろ姿が目に入った。
 白いブラウスにブラジャーの線がくっきり浮かびあがった遥の細い背中。脆いクリスタルのように輝いて、僕の目にはまぶしかった。ブラウスのしたに着こんだ体操服のゼッケンが見えたこともあれば、体操服姿に濃紺のスクール水着が透けていたこともあった。遥は板書をノートへ写し終えると軽く首を振って頰にかかった髪を払う癖があるのだけど、振り払った髪に光がこぼれるのを見てはなんともいえない想いが胸にこみあげ、僕は誰にもさとられないようこっそりため息をついた。
 あの頃、そんな遥の背中が僕の心の支えになってくれた。
 中学三年生になってから、僕の生れ落ちた家庭は壊れ続けた。
 二つ年下の弟が不登校になり、どうすればよいのかわからなくなった母親は一日中ヒステリーを起こし、会社で左遷された父親は父親で、酒びたりになって家にいる時はいつもアルコールの臭いをまき散らした。
 僕は食事以外は勉強部屋に閉じこもったまま、なるべく家族とかかわらないようにした。とりわけ、母親が僕へ向けるヒステリーがたまらなかった。母親はなんでもないことで理不尽な怒りを爆発させ、ひどく当たり散らした。心を金槌で叩かれるようでつらかったけど、いくらそれを訴えてみたところで、いくら反抗してみたところで、僕の話に耳を傾けようとはいっさいしてくれなかった。母親はみみず腫れにはれあがったエゴがずきずき痛むようで、僕の胸のうちなど歯牙にもかけず、むしろ自分の怒りをたぎらせるだけだった。弟よりも母親のほうが荒れていたのかもしれない。父親は家へは寝に帰ってくればいいという態度を変えず、自分の家庭をホテルくらいにしか思っていなかったようだ。そんな家族がよい方向へ向かうわけもない。僕にとって、家庭は出口の見えない地獄へと変わり果てていた。
 家が火事になる夢を見てよくうなされた。誰もいない家で煙にまかれる場面から目覚めると、僕はかならず金縛りにあっていた。息苦しさと身動きのとれない体に耐えながらまっくらな天井を見つめ、歴史の教科書に載っている平安朝や鎌倉時代の地獄絵図にはどうして一つ屋根の下に暮らす人間がたがいに苦しめあう「家族地獄」が描かれていないのだろうと、ぼんやり不思議に思った。幼い頃は、父も母もほがらかで楽しかったのだけど。
 でも、家でどんな嫌なことがあっても、心が割れそうになっても、翌朝登校して遥の背中を一目見れば、僕の心は洗われた。彼女と言葉を交わせば、「おはよう」の一言だけでも、たわいもない話題でも心がなごみ、心にのしかかった重圧をすべて忘れることができた。
「遥がいたから、ここまでやってこられたんだよな」
 僕はひとりごちた。
 自分のつらさから逃れるために、僕は遥を利用していたことになるのだろうか。自分が生き延びるために遥をいいようにしていたのだろうか。
 たしかに、僕には遥が必要だった。
 必要ということは、相手を利用して自分のために役立てたり、自分の欲望を満たしたいということなのだろう。だけど、誰かが支えになってくれなければ、吹きさらしの荒野でしかないこの世を生きていかれない。自分の家族さえも信頼できない酷薄な人間関係のなかで、すっかりすりきれてしまう。
 中三の夏休みも終わりかけの頃、模擬試験の会場でばったり遥と出会った。試験が終わってから、僕は遥を誘って河川敷の公園へ行った。
 堤防の芝生に自転車を横倒しに置き、遥と並んで坐った。学校の外で二人きりになって話をするのは初めてだったから、僕はどうしていいのかわからず、これもデートのうちに入るのかな、なんて考えながらやたらと芝をむしった。心があふれそうで、心が溶けてしまいそうだった。
 ポスターカラーで塗ったような青空に入道雲がどこまでもそびえる。誰かが練習しているサックスの音が流れ、野球用のグランドでは子供たちがフリスビーを追いかけていた。二両編成の電車ががたごとと音を立てて赤錆色の鉄橋をゆっくり渡る。
 横目で遥の姿を盗み見ると、遥は気持ちよさそうに目を細め、雲を眺めている。素敵な二重まぶた。すっと筆をおろして描いたような小さな鼻の稜線。真綿のように純白なやわらかい頰にうっすらとりんご色がさしている。遥のなにもかもが透き通っていた。胸がきゅんとした。
 ふと、彼女の肩に赤蜻蛉《あかとんぼ》が無邪気にとまる。
「天草、じっとしてて」
「なに?」
 遥は、手でかかえた膝をすくめる。
「赤とんぼ」
 僕はとんぼの目の前で指回しをした。じっとしたまま動かないとんぼの後ろからそっと左手をまわし、人差し指と中指で尾を挟んだ。とんぼは赤い体を折り曲げて逃げ出そうとしたけど、もう遅い。
「トンボ葉巻」
 僕はとんぼの尾を自分の唇に当て、煙を吐くまねをした。とんぼの体が葉巻のようで、広げた羽が煙のように見えるから、僕の田舎ではそう呼んでいた。
「瀬戸君、上手ね」
 遥は静かに微笑み、頰にかかった髪を人差し指で耳の後ろへくるりとたたんだ。
「翅《はね》を持ってごらんよ」
「怖いわ」
「怖くなんかないよ」
「だって、折ったらかわいそうじゃない」
「卵を摑むように上からそっと持てば、大丈夫だよ」
「上手にできそうもないわ」
「それじゃ、尾っぽを摑んでごらん。いちばん後ろを持ったら、翅に触らなくてすむから」
 遥は赤とんぼの顔を覗きこみ、
「ちょっとの間だけ、許してね」
 と、とんぼに断って尾をつまんだ。
 囚われの身になっていても、とんぼは翅を奮《ふる》わせる。
「生きているのね。だから、羽ばたこうとするのね」
 澄んだ声を響かせた遥は、やさしい瞳になった。
「自由にしてあげようか」僕は言った。
「そうしましょ。あんまり人間に捕まっているとトラウマになっちゃうわ」
「天草はやさしいんだね」
「誰かを傷つけたくないだけよ。――さあ、飛んで」
 遥は手を離した。
 赤とんぼは風に舞い上がる。僕たちはいっしょに空を見上げた。とんぼの姿が青い風へ溶けると、遥は飛び切りの笑顔になった。
 もっと遥と仲良くなりたい。
 遥が見つめている先になにがあるのかを知りたい。
 芝生の上を転げまわって叫びたくなった。
 それから、僕はその一心で一生懸命しゃべった。
 僕がほとんど話していたけど、遥はくすくす笑いながら楽しそうに僕の話を聞いてくれた。どれくらい時間が経っただろう。あっという間のようだったけど、ふと気がつくと、川辺に密生した葦が夕焼け色へ変わっていた。すこしばかり、人をさみしくさせる色だった。
「そろそろ帰ろうか」
 そう言った僕は、思わず暗いため息をついてしまった。
「瀬戸君、どうしたの?」
 遥が心配そうな顔をする。
「ちょっとね。――家へ帰るのかと思うと、気が重くてさ」
 家のドアを開ける時ほど、憂鬱なことはなかった。僕が家のことをかいつまんで話すと、
「そうなの。瀬戸君のお家も大変なのね。――じつは、わたしも家へ帰りたくないのよ」
 と、遥はやるせなさそうに暮れなずむ川面を見つめ、自分の家庭のことを話し出した。
 彼女の両親は、小学校三年生の時に離婚した。
 物心のついた頃から家のなかでは諍いが絶えず、遥は身のすくむ思いで、罵り合い、時には摑み合いまでする両親を見ていたそうだ。遥によれば、傲慢な性格の父親はいつも遥の母親を罵倒して虐《いじ》め抜いたのだとか。三つ年上の姉は父親の家へ行き、遥は母親に引き取られたのだが、ほどなくして遥の母が鬱病にかかってしまい、仕事も辞めて入院しなければいけなくなったので、遥はカトリック教会が運営する孤児院へ預けられた。それを知った父親が遥を迎えにきて彼の実家で住むことになったが、母方の祖母がすぐに遥を取り戻しにきた。落ち着く先のない境遇が遥を無口にした。大人同士の醜い争いばかり見させられた遥は、神さま以外はなにも信じないと誓うようになった。
「それで、今はどうしているの?」
 僕は訊いてしまった。遥は大きな瞳を翳《かげ》らせた。
「ごめん。話さなくていいんだよ」
「いいのよ。――一時期、お父さんの家とお母さんの家を行ったりきたりしていたんだけど、今はお母さんとおばあちゃんと三人で暮らしているの。お母さんはしょっちゅう入院しちゃうけど」
「鬱病が治らないの?」
「ぜんぜん」遥は首を振った。「家の事情をよく知らない人は本人のせいだって言うんだけど、病気が長引くのは、おばあちゃんも悪いのよ」
「どうして?」
「おばあちゃんがお母さんのことを責めるの。あなたが鬱病なんかになってしまって、わたしは立つ瀬がないとか言ってね。心の病なんだから、本人にストレスがかかるようなことを言ったりしたら、だめなのにね」
「厳しいんだ」
「違うわ。病気になった娘より、自分のことのほうがかわいいのよ」
「どういうこと?」
「おばあちゃんは、いつでも自分がいちばんでいたい人なのよ。プライドが高いっていうか、見栄っ張りなのね。自分が相手よりうえに立っているっていつでも思いたい人なの。そのためにだったら、平気で嘘をつくし。相手が百円もっているって言ったら、わたしは二百円もっているわっていうような、どうでもいい嘘よ。ほんとはもってなんかいないのに、嘘でもなんでもいいから、負けたくないのよ。自分を低く見られたくないのよ。お弁当の工場でパック詰めなんかして働いていたごく平凡なおばあさんのはずなのに、自分をかわいく思いすぎて、思い上がった嘘つきになっちゃったんだわ。――そんなおばあちゃんにとってみれば、病気になったわたしのお母さんは面汚しでしかないの。娘をそんな病気にした自分はだめな人間だって証明しているようなものだもの。天草さん家《ち》のお母さんは鬱病だって後ろ指を指されたら、いくら見栄を張りたくても、張りようがないわよね。だから、まるで他人みたいにお母さんにきつく当たるの。自分の役に立たないから」
 遥は、恨めしそうに眉をひそめる。
「天草は、おばあちゃんのことが好きじゃないんだ」
「うん。おばあちゃんも孤独な人なんだなって思うけど、やっぱり、自分のことしか考えない人を好きにはなれないわ。おばあちゃんがお母さんを怒鳴りつけたり、出て行けって言ったりするから、お母さんはせっかく退院しても、いつでも病院へ逆戻りよ。おばあちゃんの家を出て、わたしとお母さんと二人で暮らしたいんだけど、ほかに行けるところもないから、しょうがないわね」
「家族って、憎みあうために一緒にいるのかな」
 僕がつぶやくと、
「そうかもしれない」
 と、遥はうなだれた。
 僕たちは駅前のお好み焼き屋で晩御飯を食べ、それから図書館へ行って夜九時の閉館時間になるまで本を読んだ。帰り道、虫のすだく県道を自転車で走った。家が近くなればなるほど、僕たちは言葉少なになった。
 遥が僕と友達になってくれたのも、恋人になってくれたのも、きっと、さびしかったからだと思う。思い上がった言い分かもしれないけど、遥も僕を必要としてくれていたのだろう。お互いに必要だったから、僕たちは見えない糸に導かれるようにして出会い、いっしょに暮らしたのだと、そんな気さえする。もし、遥の信じている神さまがほんとうにいるのなら、その神さまがふたりを引き合わせてくれたようにすら思う。
 ほがらかな笑い声が窓の外から響いた。手をつないで歩くカップルが目の前を横切る。僕は、倖せそうに肩を寄せた後ろ姿をなんとなく目で追った。


空飛ぶクジラはやさしく唄う 第3話

2011年12月14日 06時40分15秒 | 恋愛小説『空飛ぶクジラはやさしく唄う』

 今この瞬間の君を抱きしめてあげられたら


 遥のことを考えながら駅前にある小さなヘアサロンの前を通りかかった。遥がいつもカットしてもらっていた店だった。理容師のオカマさんが遥のことをとても気に入ってくれていて、毎回、彼が遥の髪をカットしてくれた。普通は、客が理容師を指名するものだけど、遥はオカマさんに逆指名されてしまった。小熊のような丸い顔をしたオカマさんは、遥の透明な魅力をうまく引き出してくれた。
「ねえ、女同士だからさ、今度、遥ちゃんとお茶を飲みに行ったり、お買い物に出かけたりしてもいいでしょ?」
 遥をヘアサロンまで送って行った時、オカマさんに許可を求められたことがあった。彼は丸顔をにこにこさせている。
「い、いいですよ。ぜ、全然、かまわないですけど」
 突然の申し出に、僕はとまどい気味に答えてしまった。
「きゃっ、やったあ」
 しなを作って嬉しそうに小躍りしたオカマさんは、ちゅっと軽く音を立てて遥の頰にキスする。遥はきょとんとして、見るみる間に顔を赤くした。かわいい遥だった。
 それから、遥はオカマさんと仲良しになった。
 彼は宝塚歌劇団の大ファンで、有楽町の東京宝塚劇場で公演があると必ず足を運び、衛星放送のタカラヅカ専門チャンネルに加入して毎日欠かさず観る。オカマさんは、トップスターやトップ娘役の地位について脚光を浴びているタカラジェンヌには興味がなく、あまり目立たないけど努力している新人を応援するのが好きなのだそうだ。新人の頃から応援しているタカラジェンヌががんばってはいあがり、いい役につくようになるとたまらなくうれしいのだとか。遥も彼に連れられて『ベルサイユのばら』や『エリザベート』を観劇しに行ったことがある。遥は、芝居やショーの内容よりも劇場をつつむファンの熱気に驚いていた。
 タカラヅカのほかにも、オカマさんはたびたび遥を遊びに誘った。そんな時、彼は必ず僕に電話して「遥ちゃんを借りるから」と断りを入れてくれたので、僕としても安心だった。なにより、遥は友達を作りにくい性格だから、遥をかわいがってくれる友人ができてよかった。たまに僕も誘われて、三人でいっしょに映画を観たり、飲みに行ったりもした。
 一度、オカマさんが遥の手相を観てくれたことがある。
「あなたは最愛の人と一緒に死ぬわ。これ以上ないくらいに愛されて最後を迎えるのよ。あら、変な意味じゃないわよ。愛につつまれるの。わかるかしら? それがあなたの運命よ」
 そう言って微笑んだ彼は、遥を愛せるあなたは倖せねと言いた気に僕へ目配せした。
 残念ながら、彼の予想ははずれてしまった。でも、遥が最愛の人に愛されるという予言だけは、当たってほしい。それが僕だったら最高だったのだけど、別れるのは運命だとあきらめるよりほかにしかたない。遥が素敵な人を見つけて倖せになってくれたら、それでいいことなのだから。彼女を倖せにするのがほかの男なのなら、僕はそれを受け容れるしかないのだから。
 僕は空を見上げた。
 クジラのような雲はまだ浮かんでいる。
 漂う雲は、僕を見守っていてくれているようだ。
 僕なら大丈夫。
 今は遥のことをずっと待ち続けていたい気持ちが強いけど、遥のいない暮らしにもそのうちすこしずつ慣れるのだろう。そうなれば、僕なりの倖せを探すから。
 今日も元気に働いているオカマさんの姿をガラス窓越しに見て、ヘアサロンの角を曲がった。
 駅前通りからはずれたビルの裏手を歩き、文房具屋や花屋や居酒屋がならんだ商店街へ入った。片隅にログハウス風の喫茶店がある。ドアを開けると、バッハの無伴奏チェロ組曲がかかっていた。僕は窓辺の席に腰かけた。
 たまにふたりで入った店だった。
 丸太造りの内装は素朴なあたたかみがある。高い天井が広々としていて気持ちいい。
 バイト代が入ると名物の焼きプリンを一つ頼み、ふたりでわけて食べた。この店の焼きプリンは、オーブンで焼きたてのあつあつが白い陶器のカップに入って出てきた。やわらかいプリンにタピオカが混ざっていて、ぷちぷちした食感を楽しめる。カップの底には僕の大好きな練りサトイモが入っていた。ひつこくない甘さでちょうどいいし、とろりとした舌触りもいい。月に一回の僕たちの贅沢だった。
 この店でふたりで向かい合った時、僕は遥を笑わせることばかり考えていた。遥の笑顔を見るのがたまらなく好きだった。遥の笑いのつぼは心得ていたから、どう話せばいいかのは、お茶の子さいさい。遥を笑顔にするのは、僕だけに与えられた特権のように思っていた。まるで、錬金術師《アルケミスト》が手に入れた秘法のように。
 メニューを見ながら焼きプリンを食べようかと迷ったけど、一人では味気ないから、やめにした。もうあっさりした上品な味わいの焼きプリンを注文することもないのだろう。こうして一人でぽつねんと坐ってみると、今まで僕の生活は遥を中心にまわっていたんだなとつくづく感じる。僕はブレンドコーヒーだけを頼んだ。
 ふと、壁の写真に目がとまる。
 むき出しの丸太の壁には、手の届く範囲一面に写真がピンでとめてあった。この店は、客が自由に写真を貼ってもいい。どれも楽しそうな写真ばかり。大勢の人たちの色とりどりの思い出のなかに、僕たちの思い出も混じっていた。
 今年の夏、ふたりで花火大会へ出かけた。
 中三の時も、高校生の三年間も、去年の夏も、いっしょに花火を観に行ったけど、今年は特別だった。遥が布地を買ってきておそろいの浴衣を縫ってくれたから、僕はうれしくてしょうがなかった。それだけの手間隙《てまひま》をかけてくれた遥に感謝の気持ちでいっぱいだった。写真のなかの僕たちは、紺地に琉球ガラス風鈴の柄をあしらった手製の浴衣を着て微笑んでいる。夏の夜空に、しだれ柳の花火が遠く咲いている。
 電車が会場の最寄り駅へ着くと、ホームは浴衣姿の人々であふれた。誰もが浮かれ気味で、祭りの華やかな雰囲気がもう漂っている。僕はほとんどの人が既製の浴衣を買って着ているんだろう、手作りの浴衣を着ている人なんてほとんどいないんだろうなと思うと、すこしばかり誇らしい気分になった。遥のことも、そんな遥を恋人にした僕自身のことも。「押さないでください」と繰り返す駅員の放送を聞きながらゆっくり階段をのぼり、ようやく改札口へたどり着いた。
 駅を出た僕たちは人ごみと屋台をすり抜けて川べりへ降り、遊歩道の手すりによりかかって花火を見物した。遥は黒捌《くろさば》きの赤い鼻緒の下駄を履いて、帯に団扇を差している。ピンク色したガラス玉の髪留めがよく似合っている。僕は、遥が両国で買ってきてくれた相撲取り用の桐下駄を履いていた。白い鼻緒が足元を引き締めて見せてくれるから、僕は気に入っていた。コンクリートの上を歩くと、乾いた音が心地良く鳴る。熱帯夜の蒸し暑い夜だったけど、僕はずっと遥の手を握っていた。浴衣の遥はほっそりとしたかげろうのようで、手を離せば迷子になってしまいそうだったから。
 次々と花火が打ち上がる。
 赤い牡丹。
 黄色い嵯峨菊。
 薄桃色した八重桜。
 紫のあじさい。
 白いダリア。
 橙色のひまわり。
 緑の椰子の木。
 青い蝶々。
 水色の麦藁帽子。
 さまざまな色をしたさまざまな光の模様が暗い空に描かれ、遥の澄んだ頰をぱっと明るく染める。細い首をかしげた遥は、僕の肩にもたれかかり穏やかに微笑む。花火が消えようとする頃、川べりの僕たちに爆音が届いた。
「花火の音は、何秒か前に生まれた音なんだね」
 僕はぽつりと言った。
「中三の時、理科の授業で先生が言ってたわね。人間はみんな過去の音を聞いているって。あの時、ゆうちゃんはものすごい発見を聞いたみたいに興奮してたわね」
「だって不思議だよ。今聞いている音が全部昔の音だなんて。音のスピードは秒速三百数十メートルだったよね。あの花火からどれくらい離れているか知らないけど、花火が爆発してからここへ届くまでに数秒かかっているわけだろ。僕たちの耳に聞こえるこの音は、過去からのメッセージなんだよ」
「それじゃ、わたしたちが見ている花火の光も同じね」
「そうだね。光も生まれてから自分の目に届くまでに時間がかかるからね。たしか、太陽の光が地球へ届くまで約八分だったっけ。花火と僕たちの距離だとまばたきもできないくらいのほんの一瞬だけど、あの花火は過去の模様なんだね」
「人はみんな過去を見て生きているのね」
 川風が遥の髪を揺らした。
「過ぎ去ったものしか、人は見ることができないんだね」
 僕は遥の顔を見つめ、今僕の目に映っている遥の姿も過去のものなのだろうか、とそんなことをぼんやり思った。間近に見ている遥はたしかに今この瞬間の彼女のような気がするし、今握り締めている掌のあたたかさも、今この瞬間のもののはずなのに。
 なにげない会話だったけど、今になって振り返ってみれば、僕たちの限界を言い当てた言葉だったのかもしれない。
 人は、今この瞬間を見ることができない。
 今この瞬間を聴くこともできない。
 僕は今見ている風景も人の姿もこの瞬間のものだと思っているけど、実は錯覚で、すべては一瞬前の過去にすぎず、今この瞬間をとらえることができない。刻々と移り変わってゆく過去を眺めるよりほかに、術がない。だからこそ、今この瞬間の遥の心を抱きしめてあげたかった。それができていれば、ほんとうの意味で、遥がなにを思っているのかを理解してあげられたのだろうし、支えにもなってあげられたのだろう。あんなに悲しませることもなかったはずだ。でも、それは目に見えない壁だった。乗り越えることのできない壁だった。
 僕は、時の過ぎ行くままに移り変わる遥の心がつけた轍の跡を後から追いかけることしかできなかった。つらい思いをさせてしまった。悔やんでも悔やみきれない。
 僕は写真の遥を見つめた。倖せそうだ。
 もし、遥の心にも楽しい思い出を残せたのだとしたら、それがせめてものなぐさめだと思うしかないのだろうか。



(続く)

空飛ぶクジラはやさしく唄う 第2話

2011年12月01日 06時35分00秒 | 恋愛小説『空飛ぶクジラはやさしく唄う』

 君の涙はふたりのもののはず


 遥の異変に気づいたのは、仲秋の名月の日だった。
 ふたりで夕飯の買い物へ出かけ、和菓子屋の店先にパック詰めの月見団子が並んでいるのを見かけた。
「そういえば、今日はお月見だったね。――買おうか」
 僕が一つ手に取ると、
「わたしが自分で作るわ。実はね、もう準備してあるの」
 と、遥ははしゃぐ。
「それで小豆を水につけてたのか」
 下宿の流し台の脇に水を張ったボールが置いてあって、なかには小豆が入っていた。
「あれさ、けっこう量があったよね。赤飯も炊くの?」
 仲秋の名月だから赤飯にするのかな、とそんな疑問が頭に浮かんだ。
「お団子だけよ。たくさん作りたいの」
「そんなに食べられないよ」
「だって、お月さまにお供えするんでしょ。たくさんあったほうが、お月さまもきっと悦《よろこ》んでくれるわよ。残ったら、明日の晩、十六夜《いざよい》のお月さまにもう一度お供えして、それから食べればいいんだから」
「遥がそういうのなら――」
「そうしましょ」
 遥はちいさくスキップした。
 僕たちは和菓子屋を通り過ぎ、スーパーで夕飯の材料と団子の粉を買った。遥は月見団子を作ることがそんなに嬉しいのか、帰り道の間中、僕の腕にしがみついたままだった。遥は朝から妙に機嫌がよかった。
 ふたりの「家」へ帰り、遥はさっそく小豆を煮始めた。僕も手伝おうとしたのだけど、わたしの領分だからと言って僕には触らせない。遥はままごとをして遊ぶ女の子のように目をきらきら輝かせ、鼻歌を唄いながら団子を丸める。できあがった餡を板状にしてから、へらで雲の形に整え、団子に巻きつけた。叢雲《むらくも》月見団子ができあがった。
 窓辺に折り畳み式のテーブルを置いて大皿に並べた月見団子を供え、その脇に花屋で買った薄を飾った。
 夜空に低く満月が浮かんでいる。
 薄い雲が夜をかすめ、月をぼんやりさせる。
「お月さま、眠そうね。うたたねしているみたい」
 遥はふっと微笑んだ。
 僕が借りたワンルームマンションで同棲を始めてから、半年ほど経っていた。遥との暮らしは夢の中にいるようで、生まれて初めて、さびしくないと心から感じることができた。冷え切った家庭に育ち、こんなところにいては自分が駄目になってしまうといつも焦っていた僕は、ようやく自分の落ち着く先を見つけることができたのだ。遥だけが、僕の居場所だった。
 ――このままでいられますように。
 胸のうちでそう願いながら、お月さまに手を合わせた。ずっと、この暮らしが変わらないでほしい。ふと薄目を開けると、僕の隣で跪いた遥は月に向かって十字を切っている。
「お月さまにお祈りしてるの?」僕は訊いた。
「そうよ」
「いくらなんでも、それはおかしいんじゃない?」
「そうね」
 遥はぷっと吹き出す。
「でも、いいじゃない。わたしはなんにだって祈りたい気分なのよ。すべてに感謝したい気持ちでいっぱいなのよ」
 遥はちょっぴり真顔になった。僕と一緒に暮らして、彼女も倖せな気分でいてくれているんだ。そう思うと、心あたたかくなれた。
「天にまします神さまに見つからないように、こっそりお祈りしなよ」
「やっぱり怒られるかなあ」
「そうなったら、僕がかばってあげる。なんなら、神さまと戦ってもいいよ」
「ゆうちゃんと神さまだったら、ゆうちゃんに勝ち目はないわよ。ゆうちゃんこそ、どうかしてるわよ」
 僕たちは笑い転げた。
 お月さまを拝んでから、夕飯を食べた。
 遥は、僕のリクエストに応えてチーズハンバーグを作ってくれた。チーズがいい感じにとろけておいしい。この頃、遥の料理の腕はめきめき上達していた。遥自身も炊事が楽しみになってきたようだ。遥がテストで忙しい時やバイトで遅くなる時は僕も料理したけど、それ以外は僕には作らせてくれない。遥は食事の支度だけではなく、自分が家事を取り仕切ることに生きがいに似たものを見い出したようだった。僕が家事をするとどうしても雑になるから、自分の手できっちり仕上げたいのだろうか。それとも、母性がそうさせるのだろうか。ともあれ、ここがふたりの家だと思ってくれていることだけは確かだった。
 デザートにおさがりの月見団子を食べた。
「もうちょっとお砂糖を入れたほうがよかったかしら」
 遥は、舌先であんこを転がして吟味する。
「そうだね。甘味が足りないかな。でも、初めて作ったにしてはいいできだし、まずまずの味だと思うよ」
「お砂糖を入れる時に、ちょっと迷ってしまったの。あんまり甘すぎて太ったらどうしよって。だから、すくなめに入れちゃったのよ」
「遥は華奢だから、そんなに気にしなくても平気だよ。むしろ、すこしくらい太ったほうがいいんじゃない」
「でも、やっぱり太りたくないわ。太りすぎちゃって、遥なんかいりませんって、ゆうちゃんに言われたらどうしようって考えてしまうもの」
「今より十キロ太っても、そんなことは言わないよ」
「ほんと?」
「そうなったら、いっしょにジョギングしてダイエットしようよ」
「うれしいわ。約束よ。――わたしは、まだまだ修行が足りないのね。太りたくないって自分の欲を出したから、餡を上手に仕上げられなかった。食べ物を作る時は、どうやったらおいしくなるのかって、それだけを考えなくちゃいけないのよね。つまらない我を張ったらいけないのよ」
「次はうまくいくよ」
「今度、おはぎを作るわね」
 お茶を飲んで一服した。
 満月は空高くのぼっている。
 東京で見る月は地元の月ほど美しくないけれど、それでも僕をのんびりとした気分にさせてくれた。遥は僕の肩にもたれかかり、
「ねえ、ゆうちゃん、さきにシャワーを浴びてよ」
 と言って、愛おしくてたまらなさそうに僕の首を抱いた。
 今日の遥は、いつになく積極的だった。遥が年上の女になったようだ。
 遥が何度も僕の名前を呼ぶ。
 その声は、たいせつなものが欲しいと求めている。遠い潮騒を聞くように、僕はずっと昔からそれを知っていた気がする。その声に導かれて、今まで生きてきたようにさえ感じる。遥は、僕の心からたいせつなものをたぐりよせようとしていた。もちろん、僕は遥の望むものなら、すべて贈りたかった。すべてを与えたかった。
 遥の心が僕の心に触れ、心の表面がとろける。水銀のようになった心の粒がたがいに交わる。ふたつの心が溶けてひとつになる。なにも考えることはない。なにも想うことはない。ただ、ひとつになればいい。それだけでいい。
 ふと、心の奥で星が弾けた。
 まぶしい光が心をおおい、百メートル走を全力で駆け抜けたようなさわやかさと喜びが心を駆け抜けた。ひとつになった心は、またもとのふたつへ戻った。たがいの心の粒子をすこしずつ持ち帰って。
 僕は満ち足りて、とても幸せだった。愛し合っている間中、白い遥の裸体を照らしていた満月のように、どこも欠けたところはない。足りないものはなにもない。だけど、遥はぐすんと鼻を鳴らしたかと思うと、哀しそうに体を打ち震わせ、かすかにむせぶ。
「どうしたの?」
 遥も幸せな気分になってくれたものだとばかり思っていた僕は、とまどった。遥の泣く理由が思い当たらない。とはいえ、考えてみれば今日の遥はどこか変だった。朝から妙にご機嫌だったのもそうだし、自分から僕の体を求めるだなんて、今まで一度もなかった。遥が主導権を握って交わったのも初めてだった。
 遥はすすり泣く。まださめやらない薄桃色の頰に滴が伝う。
「僕が遥を悲しませてしまった?」
 せつなかった。細い鎖骨をそっとなで、火照った体を抱きしめた。遥は、僕の胸に顔をうずめる。
「そんなことないわ。ごめんね。わたしばっかり気持ちよくなって」
 遥は、言いたいことのはしっこを言っている。
「僕も気持ちよかったよ。ねえ、わけを教えてよ。なにが悲しいの?」
「ごめんなさい」
「謝ってほしいって言ってるわけじゃないんだ。心配なんだよ」
 ティッシュを取って遥の涙を拭いた。
「さっき、わたしはゆうちゃんをいいように利用してしまったわ」
「どういうこと?」
「だから、わたしばっかり気持ちよくなったでしょ。ゆうちゃんを思い通りにしてしまったわ」
 遥は、申し訳なさそうに眉をひっそりさせる。
「遥はそんなことしてないよ。気持ちよくしてくれたし、いかせてくれたんだよ。遥は僕にやさしくしてくれたんだよ」
「それは、わたしが気持ちよくなるためなのよ。わたし自身を満足させるために、ゆうちゃんの心と体をいいようにしたのよ」
「そんなこと言ったら、僕だって、自分が快感になるために遥を利用したことになるよ」
「ゆうちゃんはそれでいいのよ。だって、こんなわたしを受け容れてくれるんだもの。ゆうちゃんのためだったら、なんでもするわ。でも、わたしがゆうちゃんを利用するのは、わたし自身が許せないの」
「そんなに思いつめて考えなくても、ただふたりで倖せな気持ちになれたら、それでいいんじゃないかな」
「最近、自分が怖くなるの――。大好きよ。世界中でいちばん好きよ。でも、大好きなゆうちゃんを利用してしまうわたしがいるの。もっともっとって、求めてしまうの」
「もっとって、なにを」
「ゆうちゃんの心よ。ゆうちゃんのすべてよ。このあいだ、居酒屋で飲み会をやったでしょ」
「うん」
 近所の弁当屋のおじさんが飲み会を開いて、店の常連が十数人集まった。僕たちは、惣菜コーナーの隅においてある焼き鳥が好きで夜になるとよくその店へ買いに行き、焼き鳥が仕上がるまでの間、店の主人やほかの常連客と世間話をした。人見知りの激しい遥はおじさんともほかの人たちともほとんど話したことがなかったけど、気さくな弁当屋のおじさんは遥のことも誘ってくれたのだった。
「あの時、ゆうちゃんはほかの女の子と楽しそうに話していたでしょ」
「ああ、あの子のことか。話したけど、べつに好きとかそんなんじゃないよ。にぎやかな子だったから、話が弾んだだけだよ。お酒も入っていたし」
「わかってるわ。でもね、わたしはすごく妬いてしまったの。楽しそうなゆうちゃんの笑い声が心に突き刺さるようだったわ。わたしの彼氏になんで話しかけるのよって、あの子にいらいらしちゃった。愉快になってるゆうちゃんもゆうちゃんだって。わたし、もうすこしのところで、ゆうちゃんの手をひいて帰るところだった。早く家へ連れて帰って、誰もいないところでゆうちゃんを独り占めにしたかったの」
「誰にでもあることだと思うよ。僕だって、遥と初めて出会った頃は、遥が誰かと話していると気が気じゃなかったもの。遥が僕の目の届くところにいないと落ち着かなかったし。今でも、時々そうなるよ」
「誰にでもあることだから、気をつけなくちゃいけないのよ。わたしはそんな自分が許せないの。嫉妬心、独占欲、そんなものが心でうごめいているのに、それで愛してるなんて言えるのかしら」
 遥は顔をあげ、まっすぐ僕を見つめる。ひたむきな瞳だった。
「そんな完璧にしなくてもいいんだよ」
「みんなそう思って、自分をだめにしちゃうのよ。いろんな人が欲望の誘惑に負けてだめになってしまったのを見てきたわ。そんな人はまわりも巻き添えにしてしまうの。自分の欲望のために人を利用するから。自分のルールを人に押しつけようとするから。人を自分の思うようにしたいから。人を自分の世界に住まわせようとするから。わたしのおかあさんも、おとうさんも、おばあちゃんもそうだった。自分の欲望を振り回して、人を損なってしまうのよ。でも、わたしはそんなふうになりたくない。これ以上、もっともっとって求めたら、ゆうちゃんは息苦しくなってしまうわ。ゆうちゃんの命も心も粗末にしてしまうわ。このままだと、ゆうちゃんを求めるばかりに、大切なゆうちゃんをだめにしてしまうわ」
「愛しているから、いろんな感情がわくんだよ。いい感情も、悪い感情もね。それを乗り越えるのも愛だし、勇気なんじゃないかな」
 遥がどうしてそんなに思いつめるのか、僕にはいまひとつうまくのみこめなかった。だけど、遥が大切なものを追い求めていることだけは十分すぎるくらい理解できた。僕は、そんな遥が好きだ。
「僕が恋の達人だったらいろんなことを言ってあげられるのかもしれないけど、初めての恋だから手探りなんだ」
「わたしもそうよ。なにもかもが初めてだもの」
「だからさ、いろんなことがゆっくりわかるようになればいいんじゃないのかな。僕たちは、知らないことがまだまだ多すぎるんだよ」
「でも――」
「だって、わからないことだらけだろ」
「そうね」
 遥は自分の心をしずめるようにゆっくりまぶたを閉じ、
「ゆうちゃんの言うとおりかもしれない」
 とうなずいた。
「悲しませてごめんね」
 僕は白い額に口づけた。
「遥を悲しませてしまうのが、いちばんつらい。とりかえしのつかないことをしてしまったみたいで、どうしていいのかわからなくなってしまうんだ」
「ゆうちゃんはなにも悪くないわ。わたしがいけないのよ。わたしの問題なのよ」
「遥の問題は、僕の問題なんだよ。遥の涙はふたりのものだよ。忘れないで」
「ごめんなさい。こんなにやさしくしてくれるのに、いいようにしようとしてごめんなさい」
 話はまた初めのほうへ戻ろうとしていた。いけない兆候だった。遥はかたくななところがあって、一度思いつめてしまうとずっと堂々巡りを繰り返すことがある。
「じゃあさ、こうしようよ。さっきは遥の思い通りにしたから、今度は僕が思い通りにするね。これでおあいこ。それでいいだろ」
 僕は遥の肩を吸った。小さな花が白い肌に咲く。これで遥の抱えている問題が解決するとは思わなかったけど、すこしでも遥の気が軽くなればと願った。
「ゆうちゃんの体が冷えてしまったわ」
 遥は、僕の背中を抱きながら言う。
「ふたりであたたまろう」
 僕は、遥のやわらかなショートヘアーをなでた。遥の匂いがする。清らで芳《かぐわ》しい香りだ。僕は、そっと遥を誘《いざな》った。



(続く)

空飛ぶクジラはやさしく唄う 第1話

2011年11月28日 06時40分00秒 | 恋愛小説『空飛ぶクジラはやさしく唄う』
 
 どこでなにをしているの?

 木枯らしがアスファルトに落ちた枯葉をさらってゆく。風に巻かれた木の葉たちはコンクリート造りの小さな橋を渡りそこね、狭苦しい住宅街を縫いながら流れる川へはらはら落ちる。肩をすぼめた僕は、遥が編んでくれたマフラーを巻きなおした。いっそのこと、川に氷が張るくらいに、息も凍るくらいに冷たくなってくれたら、遥のことを思い出さなくてもすむのに。
 信号が青に変わる。僕は立ち止まろうとしていたのだけど、見えない力に引っ張られるようにして、また歩き始めた。自分が自分でないような、うつろな気分。心が抜け殻になってしまったようで、ふわふわして地に足がつかない。ランドセルを背負った小学生たちが、はしゃぎながら僕を追い越す。
 ふたりの思い出がつまった駅前の通りは、もうクリスマスの支度が始まっていた。コンビニも、ハンバーガーショップも、ドラッグストアも、ブティックも、店の前にクリスマスツリーを置いたり、金と銀のモールを飾り付けたり、ガラス窓に白いスプレーでサンタクロースやトナカイの絵を描いたりして華やかだけど、僕の心まで賑やかにはしてくれない。去年の今頃は、世界中のすべてが僕たちを祝福してくれているように感じたのに。
「わたしは自分のことなんてなんにも知らない。――だから、ゆうちゃんのこともよくわからないの。――自分のことを知らない人は、ほんとうに誰かを愛することなんてできないのよ。だから――」
 あの日、遥はつらそうな顔をして切り出した。言葉につっかえる彼女が痛々しい。綺麗に切りそろえたショートカットの黒髪が垂れ、化粧もなにもしていない素顔のままの白い顔が隠れる。あれほどなんでも話してくれたのに、もう自分の心は見せたくないと僕から逃れるように。
 どんなふうに愛し合えばいいのかということは、ふたりでなんども話し合ったことだった。僕は、ゆっくりいろんなことがわかるようになればいいと、繰り返し彼女に言い聞かせた。僕自身にしろ、愛の意味なんて、なんにも知らないのだから。でも、僕の言葉も想いも、遥の支えにはならなかった。彼女にあんな別れの言葉を言わせたのは、たぶん、僕なのだろう。心がうつむく。グラスが傾くようにして、心のはしから氷水がこぼれそうになる。
 遥のことなら、神さまよりもずっと理解していたつもりだったのに。
 僕は、いったい遥のなにをわかっていたのだろう?
 一週間前、別れることに決めて、駅の改札口まで遥を送った。気だるくてさびしい昼下がりだった。
「気が変わったら、いつでも帰っておいでよ」
 彼女の荷物をつめた紙袋を渡した。意外に重かったから、彼女一人で持ちきれるだろうかと心配だった。ふと触れ合った指先が、今になっては妙に気恥ずかしい。
「わたしは、ゆうちゃんを傷つけたのよ」
 遥はうつむく。遥の声は、泣いているようにも、怒っているようにも聞こえた。自分の感情をもてあました時のいつもの癖だった。
「いいんだよ」
 僕は、さらりと手を振って背を向けた。
 遥の強い視線を背中に感じたけど、僕は振り返らなかった。振り返ることなんて、できなかった。駅前のロータリーへ出た僕は、一瞬のうちに、これまでの六年半あまりのことを思い出していた。初めての恋人との初めての別れ。いろんな感情を押し寄せすぎて、僕の心は、ただ腫れたように痺れるだけ。かけがえのない人を失った直後は、こんなものなのだろうか。きっと、明日あたりには心が落ち着いて、さよならを実感するのだろう。そんなことをぼんやり思いながら、あてずっぽうに都営バスに乗った。僕は外の景色も、自分の心も見なかった。早く遥から離れてあげなくっちゃ。そのことばかり、ずっと自分に言い聞かせていた。

 初めて遥に出会ったのは、中学三年生の時だった。新しいクラスでたまたま隣同士に坐ったのが、彼女だった。遥は友達を作ろうともせず、ただ静かに自分の世界を守るようにして、休み時間は必ず独りで文学書や聖書やキリスト教関係の本を読んでいた。おとなしそうな外見とはうらはらに、本を見つめる彼女のまなざしは勁《つよ》かったから、無口だけど意思の強い女の子なんだろうなと感じた。遥のそばに坐ると、いつも透明な香りがした。その香りは、どこか神秘的で、誇り高くて、涼やかな月の光のようだった。かぐや姫がもし実在したのなら、きっと遥のような少女だったに違いない。わけもなくそんな気がしてならなかった、というよりも、中学生らしい身勝手さで僕はそう決めつけてしまった。彼女の清明な香りが、すりきれた家族とともに暮らしていた僕の心を明るくしてくれた。
 僕は、必要なこと以外は口を開こうとしない彼女へなにくれとなく話しかけた。話しかけずにはいられなかった。やや開き気味の大きな瞳が愛らしいし、人形のように小作りな顔も、雪肌のすらっとしたうなじも素敵だし、なにより、細いあごの片隅についた小さなほくろがあどけなかった。遥は初めのほうこそ僕にとまどっていたけど、そのうち自分から僕へ話しかけくれるようになり、時折、飛びきりの笑顔を僕だけに見せてくれるようにもなった。
 ずっと好きだった。
 初恋の人だった。
 彼女以外の女の子のことは考えられなかったし、考えたこともなかった。別々の高校へ進んだ後も、友達以上恋人未満の付き合いは続いた。
 遥は現役で東京の大学へ進み、浪人した僕は一年遅れで地元を離れて東京へやってきた。御茶ノ水の聖橋で再会した時、僕たちはぎこちなかった。僕よりも一足先に大都会の暮らしに馴染んだ彼女は、別世界の人のように大人びていたから。でも、一緒に時を過ごすうちに、中高校生の頃のようにまた打ち解けることができた。学校のことも、友達のことも、家族のことも、人には言えない悩み事も、なんでも話せる友達へ戻った。僕の遥を取り戻せてうれしかった。
 去年のクリスマス前、僕の買い物に付き合ってもらって街を歩きながら、そっと遥の手を握ってみた。振りほどかれたらどうしよう、友達でさえいられなくなったらどうしようと冷やひやしたけど、遥は思ったよりも確かに僕の掌を握り返してくれた。
「わたしを受け容れてくれるのは、ゆうちゃんだけよ」
 遥の声はあたたかだった。彼女の声はいつも木琴を叩いたように高く透明な音を響かせていたけど、あの時は、ひときわ澄んでいた。僕の二の腕が柔らかく熟れた彼女の乳房に押し当たる。愛が息吹き始めた彼女の鼓動は波打つようだった。

 冷たく澄んだ水溜りがきらりと光る。
 ふと足をとめ、空を見上げた。
 今頃、どこで、なにをしているのだろう?
 泣いたりしていないといいんだけど。
 雨上がりのさっぱりとした青空に、クジラのような形をした雲がぽっかり浮かんでいる。大きな雲の下に小さな雲がへばりついていて、お母さんクジラに寄り添う赤ちゃんクジラのようだ。お母さんクジラはやさしい子守唄を唄っているみたいと、遥ならきっとそう言うだろう。彼女は雲を眺めるのが好きだった。地元にいた頃は河川敷まで自転車を走らせて、ふたりで土手に坐りながら雲の形を動物に見立ててよく遊んだ。冬の午後のやわらかい陽射しが僕をぬぐう。心がしんみりして、目の縁がほんのり熱くなる。
 ほんとうに恋するよりも、恋したふりをしているほうがずっとうまくいく。そんな意地悪なことを言った恋の達人がいるけど、僕たちにはそんな器用な真似はできなかったし、したくもなかった。ほんとうの気持ちだけをお互いだけに伝えたかった。でも、恋の達人の言葉はある意味で事実を言い当てているのかもしれない。ほんとうに愛そうとすればするほど、相手のことを思おうとすればするほど、僕たちは迷宮をさまようようになってしまったから。ずっと抱きしめていたかったのに、結局、遥を手放すことになってしまったから。
 愛って、いったい何なんだろう?


(続く)



空飛ぶクジラはやさしく唄う はじめに

2011年11月28日 06時35分00秒 | 恋愛小説『空飛ぶクジラはやさしく唄う』
『空飛ぶクジラはやさしく唄う』は2009年12月から2010年5月にかけて、『小説家になろう』サイトで投稿した恋愛小説です。
 今回は細部を修正しながら、ブログのほうでぼちぼち連載しようかと思います。
 横組みで小説を読むのは苦手というかたは、『小説家になろう』サイトのほうでご覧ください。各話のなかに横書きと縦書きの切り替え機能がありますので、そちらのボタンを押していただければ、縦組みで読むことができます。またPDFファイルに落とせば、自動的に縦組みになります。
 
http://ncode.syosetu.com/n0481j/

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