月に数回、週に1回くらいの割合で本屋に行っています。この本屋は、生協や百均の店が同居していますので、何かと便利です。おまけに、国道を挟んで向かい側には西友もありますし、アッそうそう交番まであるのです。
しかも、1階の本屋の上の2階では古本も幅広く扱っていて、何かと時間をつぶすのには便利なのです。まあ、本屋に入るときには、入り口で両手をアルコール消毒してから入ります。当然マスクをしています。
マスクは、去年の今頃はよく忘れたものですが、今はバックにも予備のマスクを入れていますので、自宅を出るときに忘れても何とかなります。
マスクと言えば、毎朝の河原の散歩のときは、今まではマスクをすることはなかったのですが、このごろは何というのか、広々とした河原ではあってもマスクをしないと歩くのが遠慮がちになるというか、周りの人に気を遣うようになってきました。
この頃は河原へ行くのにもマスクをしたり、しないまでもポケットにマスクを忍ばせたりするようになりました。なんか窮屈になってきたなあと感じ、正直いい気持ちはしません。
本屋に戻りますが、アルコール消毒をしてから向かう先は、雑誌コーナーですね。時事を扱っている月刊誌のコーナーをひととおり見たら、次は趣味の月刊誌のコーナーへ行きます。なんのことはない、釣り関係の月刊誌コーナーです。
それからは、文庫本コーナーから新書コーナーへ行って、最後は帰りの流れで炭鉱本ならぬ単行本コーナーを眺めて、両手を消毒して外に出ます。
月刊誌コーナーを一瞥していたら、ちょっと気になる雑誌が目にとまり、手にしてみたら、表紙の記事内容のコピーに『東日本大震災10年の欺瞞「大川小学校」事件の嘘』といささかショッキングな文言が目に入りました。
よくよく見たら、そのほかにも『悪評芬々で芸能界から呆れ声 自民党「森下千里」擁立』というコピーも目に入りました。それでついつい購入してしまったというわけです。
肝心の大川小学校の記事ですが、『念仏の声は嘘の上を流れる「大川小学校」の検証を拒むもの』という精神科医の野田正彰氏の文章です。その文章を読んでいく中で、そんなことがあったのかとちょっと驚いたことがありました。
野田氏は、2012年1月に地元の河北新報の震災報道班より連載原稿を依頼され、執筆をせかされた後2月10日に原稿を送りました。その原稿はⅠ部とⅡ部に分かれています。
Ⅰ部では、石巻教委による保護者説明会が3回開かれ、地震から津波までの50分、「前任の鮎川小で避難訓練をしていた遠藤先生(教務主任)は、『山に逃げますか』と聞くが、教頭は答えられなかった。」
「3時30分すぎ(地震から44分後)、『松原を津波が越えた』とのスピーカーでようやく北上川のたもと、道路が少し高くなった所へ、『走らずに列を作って』動き出した。津波の方へ、向って行ったのである。」
「(親たちの)問いに対して市教委は、マニュアルに「近隣の空き地・公園」と書いてあるだけで、避難場所を具体的に書いていなかった、裏山に逃げる案は、倒木があるとかんがえて選択できなかったであろう、と後ろ向きに答えている。」
そういう事実関係を踏まえて、筆者は「問題なのは、日頃の教職員の意思決定の文化である。権威的で、上意下達のシステムは想定外の事態に弱い。すべての職員が過不足なく意見を言うことができ、気付きを共有できる民主的な人間関係こそが、危機に強い。」
Ⅱ部では、ひとりだけ生き残った遠藤教諭からの市教委の聞き取りと実際に保護した千葉という自動車整備会社の社長との言い分が異なること、また、遠藤先生が「保護者の皆様」へ出した6月3日の手紙が隠されていたこと。
震災後休んでいた校長は6日間現れず、遺体捜索にも加わらなかったこと、1回目の保護者説明会で石巻市長が「もし自分の子どもが亡くなったら、自分自身に問うことしかない。これが自然災害における宿命だ」と答えていること。
それを受けて、筆者は「朝、送り出した家族が帰ってこない。災害や事故での死別は、長い看病をした遺族と違って、あの人のために何もしてあげられなかった、何もしていない、という悲痛を刻む。そのため、どうしても自分たちの手元に遺体を取り戻したいのである。3月11日2時過ぎまでの時間とつなぎ、記憶を修復したいのである。わが子がどうして死んだのか、どんな風に死んだのか、知りたいのである。」
また、「大震災による死別の悲哀を少しでも癒すものは、遺族同士の語り合いしかない。周りの人は誠実に問題点を解明し、遺族の問いに答えていくしかない。」と述べ、さらに「お父さんやお母さんは、・・・、なぜこの子を助けられなかったか解明し、この子の死を後の人びとのために役立たせる意味を見付けたとき、喪は一段落する。それから亡くなった人と残された家族の温かい対話が続く。」
読む人々の気持ちに強く打ったかけてくる文章だと思うのですが、しかし、この原稿はとうとう日の目を見なかったというのです。せかされて出したにもかかわらず、何度かの言い訳によって掲載は遅らされたが、その理由が「あなたは自分たちさえ知らない情報を知っている」ということだと言います。
これを読んで、まさか!そんなことがあるのか!?あれだけ新聞社として大川小学校の悲劇に向き合い、長いこといろんな方面から記事にしてきた新聞社なのに・・・・。やっぱりマスコミは知られては拙いことは、力のある側と一体となって隠すのか!?
それで、筆者は「ずるずると出稿を遅らせるので、私はその無礼に怒り10日後の2月21日に掲載を断った」そうです。
今回の惨劇の検証に際して、ただ一人生き残った遠藤先生の「保護者の皆様」と「柏葉校長先生へ」あてた2通のファックスは、7か月半にわたって隠されてきたこと、また、助かった遠藤先生と児童の当日夜の行動が全くかけ離れていて、誰かが嘘をついているとしか考えられないこと、が浮かび上がってきます。
とくに、当日夜の先生と児童の行動は、市教委では「近くの車の中で夜を過ごした」ことになっており、自動車整備会社の千葉社長の話しは「二人が避難して来たのは当日4時半頃で、まだ暗くはなく、服は濡れていなかった。自宅で休ませた。」というものです。この点は複数人の証言があるそうです。
「虚偽や事実隠蔽で問題をずらしてはいけない。」
こうなってくると、私も前に何回も書いていますが、唯一生き残った遠藤純二先生が正直に当時の様子を語ることしか事実の解明は不可能です。
「遠藤先生が2015年まで休職中だったことは確認できている。その後は知らない。教育委員会は給与を出して隠す必要があったのであろう。。だが隠し続けることは、遠藤先生の、その後の人生をむなしくすることになる。・・・。このまま隠れて生きるより、なぜあのようなうその教育委員会報告が作られたのか。真相を語る方が正常な生き方ではないのか。・・・。大川小跡地公園に流れる念仏の声を、遠藤先生抹殺の声にしてはならない。遠藤先生、出てきて何が起こったのか、何を強いられたのか、語ってほしい。それが亡くなった子どもに響く魂の声になるだろう。」