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鮎と戯れて・・・魚族に感謝

東北地方を中心とした短い夏のあまり多くない鮎釣りの記録。家族に感謝して。近くの広瀬川の環境等にも拘るも、オフは時事問題も

嗚呼、終わりかあ~

2015-10-02 15:28:13 | お知らせ

 きのうから心配されていた爆弾低気圧、風は強かったものの、雨は大したことなく、程々で通過して行ったかのようです。 もっともきょうも風はまだ強いです。

     

 別に人生が終わりというのではありません。 このブログが終わりかと思った方も多かったのかもしれません。 人生もブログもいずれは終わってしまいますが(またともにあまり長くはないように思います。)、きょうのところの「終わりかあ」はそうではありません。

                          

     

 

 

 先週で終わってしまった「まれ」に続いて、「あまちゃん」も終わってしまうからです。 もっとも「あまちゃん」は再放送ですが。 もともとは2013年ですから、2年前に放送されたものです。2013年の4月から9月です。

         

 「まれ」も今年の4月から9月の放送ですか、NHKBS103CHで7時15分から「あまちゃん」、7時30分から「まれ」を放送していましたが、これがぴったり、いい組合せ、まさにタイムリー、二つとも似ているところが一杯あって、比較しながら見るという楽しみもできました。

  

 そうやって見て改めて思うのは「あまちゃん」は本当によくできた作品だということです。明るく軽快なノリの中に、生きるということの喜怒哀楽を巧みに取り入れています。 2回見ても全く飽きることがなかったです。というか3回目の放送があっても、時間帯に因るでしょうが、多分見ることでしょう。

  

              (以上の3枚はきのうの放送分です。)    

 大きく言ってしまうと、「あまちゃん」は「おしん」に次ぐみちのく発ののドラマと言ってもいいのではないでしょうか。 御用マスゴミとなってしまったNHKにしてはでかした!と褒めて遣わしましょう。

              (以下の写真は今日の放送分です)

  可愛いですね 

    (ユイちゃん)  

         

        (夏ばっぱ)                     (春子)

                       大団円ですね!

         

 

 話しは全く変わってどうして教育委員会はこうなのでしょうか? (1)昨秋仙台市の中学1年生が自殺した事件と4年半前の東日本大震災で最大の悲劇と言ってもいいくらいの(2)大川小学校の裁判です。

 

 仙台市の中学生の自殺事件については、もう周知の事実なのに依然として学校名を公表していないし、その中学校では現在も自殺の事実を伝えてはいないし、あろうことか、いうに事欠いて自殺した生徒を″転校した”と在校生に伝えているのです。在校生は何があったか知っているのです。

 それでいて、校長は在校生にいじめはよくないことだと説教しているというのですから何をかいわんやです。 子どもたちの前で大人たちは、それも学校の、義務教育課程の学校の先生たちが子どもたちを騙している、子どもたちに嘘を突き通しているという現状で、その後の進展がありません。

 こういうことで本当に真面目にいじめを無くそうと取り組んでいると言えるのか、学校や教委の無責任さ、事なかれ主義に腹が立ちます。 いくら当初は自殺した生徒の親が公表しないでくれと言ったとしても、公園に献花台が設けられたときには感謝しているというコメントが寄せられたようですし、親心としても当初とは変わってきているはずです。

 献花台は違法だからと行政は撤去を申し入れ、撤去されない時は行政で強制撤去すると脅しともとられかねない圧力をかける始末です。何もすぐに撤去させることはなかったはず、十分に周りの様子を見てから判断しても何も支障はなかったはずなのに、規則一点張りで柔軟さに欠ける対応をしてしまう。

 『子どもたちと学校が向き合う状況になっていない』(市長)、 『混乱を生じさせている』(教育長)というばかりで、どこまで本気で遺族と協議しているのか、協議しようとしているのか分かりません。

 

 大川小学校の裁判については、現場で一体何があったのかはっきりさせるために、原告(遺族)側が、当時唯一の生存者となった先生の尋問を求めていたもので、児童が津波にのまれた状況や被災後に取った行動などを立証するためには是非とも必要不可欠のものだと思います。

 でも、石巻市は当該教諭の尋問に反対する書面を提出したということです。 その先生は震災後PTSDを発症したということは聞いていましたが、6月9日付けで作成した意見書で主治医は「尋問はトラウマ体験を強引に引き出すもので、二次被害を生む。医療的、人道的に許されない」と指摘したそうです。

 みなさんはどう考えますか?

 当時の校長の尋問については容認したとのこと。 でも、被災当時校長は学校にいなかったのです。そんな校長に尋問したって何が分かるというのですか。 問題は、肝心なことは本当に原因を究明しようとするのであれば、唯一の生き残り助かった教諭の尋問しかありません。

 わたしは当該教諭にとっては大変に厳しいことではありますが、先生は万難を排してでも尋問に応じるべきです。 それしか原因究明の手段はないのですから、残された原因究明の一番肝心要なものとなるのが生き残った先生の証言です。それしかありません。

 学校の先生であった、大切な子どもたちを預かり教育をしていく責任の重い、それだからこそ尊い学校の先生であるという自覚があるのであれば、遺族側から言われるまでもなく自分から進んで知っていることを公表すべきです。 公表する義務さえあると言っていいでしょう。 

 そうすることが亡くなった74人の児童の慰霊になるのではないでしょうか。 そうしなければ74人は浮かばれません。 極端な話し、人と言われても私は、先生のPTSDがさらにひどくなったとしても、今のうちにみんなの前ではっきりと証言すべきと考えます。

 もしかして、先生は言いたいのに言えないために、言わせてもらえないために自己の内部で悶々としかえって賞状を悪化させているのではないかとは考えられないでしょうか。話しができるうちに先生として言いたいこと、言っておかなければならないこと、はなしておかないと死んでも死にきれないということがあるのではないでしょうか。

 であれば、そういうことを洗いざらい話してしまえばかえってすっきりするということは考えられませんか。多分先生だって表だって子どもたちに謝りたいと思っているはずです。子どもたちに謝ってしまえば精神的にはだいぶ軽くなるでしょうし、世間の人は誰も先生の行動を遡って批判、非難はしないでしょう。十分に苦しんだことでしょうから。

 だから先生には辛くても自分から申し出て証言して欲しいと切に願います。

 

 まるで日本の政治・経済体制のの縮図を見せられているかのようです。無責任体制と事なかれ主義がトップから末端まで蔓延しています。


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