鮎と戯れて・・・魚族に感謝

東北地方を中心とした短い夏のあまり多くない鮎釣りの記録。家族に感謝して。近くの広瀬川の環境等にも拘るも、オフは時事問題も

はだしのゲン、安らかに

2012-12-26 21:46:57 | 思いつくまま

  何と風が強かったのでしょう! まさに吹き荒れた一日でした。 それでなくても空気が滅茶苦茶冷たいのに、なおのこと冷たく寒く感じてしまいます。 顔ですね。 不審者と思われてもいいから、顔を完全に覆ってしまえば、そんなに寒く感じることはないのでしょうが。 高速道路でのスリップ事故等で、国道は大渋滞になったようです。 雪はほとんどないのに、路面が凍っているのは怖いです。

 

 怖いと言えば、いよいよ安倍内閣がスタートしました。第二次内閣となるのかな。 よりによって、日本を破滅に導いた 長州 出身の首相・総理大臣の誕生です。 こんな政治家を2回も総理大臣にする日本って一体何なのか? 財界は自民党に尻尾を振り始めたし、政官財による復古主義の政治が開始されるのでしょう。 もうそのおそれは現実のものとなりつつあります。 原発も、経済の停滞は許されないという理由で、続々運転再開となることでしょう。 発電送電の分離も不可能になるだろうし、またそれぞれの地域において、電力会社が政治経済を牛耳ることになるのでしょう。 まさに暗黒時代の始まりです。 またしてもみちのくは使い捨てられることになるのでしょう。

 楽しみというかささやかな喜びは、いつ・誰が一番に閣僚を辞職するかなということです。閣僚や党三役の政治資金報告書(多分、今すべてのマスコミや野党の政治家は、それを調査しているのではないでしょうか)の記載事項に問題となるようなものがないのかどうか??問題があった場合、それにどう対応するのか??小沢一郎にみたいなケースがあった場合、どこまで追求するのか? 警察検察はどう動くのか?興味津々です。

 

 それなのに、ヒロシマ・ナガサキ・フクシマと、日本人なら肝に銘じておかなければならないこの時期に、中沢啓治さんが12月19日に、肺がんで亡くなっていたということです。 まだ73歳です。 まだ早い、後期高齢者にもなっていないのです。 残念です。

 夏にもこのブログで書きましたが、我が家にも 中沢啓治さんの『はだしのゲン』があります。 二人の子どもたちも読みました。 とくに下の子は何度も読んでいました。

    (翠楊社 版)                 (汐文社 版)

 

  (1977年 4版)        (1975年 初版)

 

 汐文社の表紙の見開きです。

 

 右側の中沢さんのコメントを書き出して見ます。

 『 原爆を主題にした漫画を描くのはしんどいが、子どもらは、率直に何が真実かを見きわめてくれます。ですから肩を張るのではなく、リラックスしながら、子供が作品の中にはいっていけるようにと念じつつ描き続けました。その中から、ほんとうのものをつかんで、戦争とは、原爆とはをわかっていただければ本望です。 』

 翠楊社版にも、中沢さんのコメントが載っています。

 『 この「苦闘編」の前半は以前「戦後編①」として別途出版されたことがありますが、後半は書き下ろしも加えて初出版です。 「ゲン続編」を希望するお便りを多くいただきながら中断していましたが、このたびようやく発表の場ができ喜んでいます。 「苦闘編」の続きにもとりかかっていますが、戦後の続発する大事件の中をゲンがどう生きぬいていくかを考えると、それを描くむずかしさに目のくらむ思いです。 』

 「はだしのゲン」は絵本なども含めて一千万部を超すベストセラーになり、18カ国語に翻訳されているとことです。 これを読んだ子どもたちの力が発揮されるのはいつのことなのでしょうか。

 

 それにしても、広島で被爆した中沢さんが平和祈念式典に出席したのは2011年の8月6日ということを知って驚きました。 6歳の時に被爆してから66年目にしての出席ということになるのでしょうか。

 私が広島の平和祈念式典に参加したのは1972年(昭和47年)と思います。 その時は西宮に住んでいて、前日の5日に広島入りしました。 でも泊まるところは決めてなかったので、広島駅に泊まりました。 当時は駅から追い出されることはなかったのですね。 構内から新聞紙を拾ってきて、それをコンクリートの上に敷いて寝ました。 周りには機動隊員が一杯いたのですが、駅構内で寝ている人も結構いました。

 なぜ機動隊員がいたのか? それは当時の首相佐藤栄作が広島に来ることになっていましたが、そんな奴に来て欲しくないということで、佐藤訪広阻止という動きがあったからです。私も佐藤如きに来てほしくないと思い、何とか阻止行動に加われないかと思って行ったのですね。 でも、駅構内からは排除されませんでした。

 翌6日は雨でした。雨のなか式典は行われたのですが、阻止しようとしている団体は中には入れません。いろんな団体が反対の行動をしていたように記憶しているのですが、その中に「被爆二世の団体」がありました。 私はその被爆二世の抗議デモに混ぜてもらって、雨の中公園をデモ行進しました。 もちろん阻止はできませんでしたが、それなりにアピールはできたのではないかと思いました。 今あの時の被爆二世の団体はどうなっているのでしょうか? 

 びしょ濡れのため、近くのスーパーで下着から服を一揃えして帰宅しました。

 佐藤栄作も長州出身です。奥羽越列藩同盟の敵です。 岸信介、安倍晋太郎、安倍晋三、ですか、・・・。

 


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