写真と連動した・・私のブログ経営者ブログ・・
「鯖のみそ煮とバスケのコーチ」
http://newcity.keikai.topblog.jp/
は上記からご覧下さい。
でも一応投稿!
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先刻・・母が部屋を整理していたら・・と
昔のアルバムが出てきまして
なにやら・・板長のご幼少のころの写真が
そこの1枚を見た瞬間、これは!
セピア色に変色した記録写真的な画像です。
この写真は、今のニューシティホテルの場所なのです。
「虎鯖 棒すし」を全国展で・・と話す板長ですが
この写真は、板長の原点でもある
「五陽軒」食堂の姿なのです。
父と母が八戸に移り住んだのは昭和29年
北海道から、当時・・三八五グループの誘いで
八戸の地で、タイヤの再生をして商売を始めないか?
越して来たのが、今の地なのです。
タイヤ工場に職人さんと家族・・大所帯だった事を記憶しています。
タイヤ商売は掛売りが多く、日銭が入る商売をしたい
そこで昭和39年に始めたのが・・食堂でした。
板長は小学2年生、東京オリンピックの年ですね
店内は、カウンターと8席のテーブルだった事を記憶
店舗の裏側には、タイヤ工場と並び生業としていたのです。
板長は、よくこのタイヤ工場で遊んでいました
色々な工具があり、針金や木材を加工して
船やら手裏剣・・遊びには事欠かなかったですねー
工場の前はタイヤ交換の駐車場スペースが広くあり
11月~12月初旬には夏タイヤから冬タイヤに換えるために
毎日、朝からタイヤ交換の車がこのスペースに並びました
ボンネットトラック・三輪自動車・馬車まで来ていました!
(ガキの板長・・馬車を引く、馬には近寄れませんでしたよ!)
板長は昭和31年生まれ・・
その年は、「戦後は、終わった!」の言葉が紙面に出た年
確かに、板長の心には戦争の事はありません・・
日本の高度成長期に合わせたかのように時代と共に
板長と同年齢の人達は・・今まで歩んできたと思います。
食堂では、テレビが付けられてプロレスに一喜一憂
東京オリンピックの思い出は・・
円谷選手がイギリスのヒートリー選手に国立競技場の
トラックで抜かれた瞬間を、子供ながら悔しさを体験していました。
母の若い頃の写真です。
当時の家は、板を張っただけの家が多く・・
今の家と比べると、小屋以下の建物でしたね!
隙間風が吹き・・冬は「しもやけ」が当たり前
足の指を踏むと・・痛い痒い・・痛痒い・・止まらない!
冬は、毎日長根リンクでスケート三昧
寒かろうとも、とにかく外で走り回っていた板長です。
家のストーブは、薪ストーブがドン!茶の間の中央に置かれ
夏場でも食堂の食材作りのため、火を絶やした事はありません。
このストーブこそが・・板長の鯖のみそ煮の味を作る起点で
今でも当時の「おかずノスタルジー」として残っています
「だるまストーブ」でしたが、大きなストーブで
他の家庭のストーブより遥かに大きかったことを覚えています。
「圭介・・薪を持って来い!」と呼ばれ5本6本と重たかったが
子供の力で持てる分を運んだ思い出があります。
子供でも仕事をする・・当然な事でしたからね・・
井戸水を管理する、タイヤを運ぶ、出前をする。
小学校の高学年では・・タイヤ交換やパンク修理は
普通にこなして・・お金をもらっていました。
つづく・・
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℡0178-46-0311 FAX0178-43-1248
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