(写真:ハバナのベダド地区の野菜市場、大きいキューバのアボガド)
モノを大切にするわけ
越川芳明
キューバでは、一日のうちに必ず水道の水が出なくなる時間帯がある。だから、たいていの家庭は貯水タンクを備えている。ちょくちょくある停電も困る。しかし、停電も、考え方次第ではポジティヴに捉えることができる。テレビも何も見られないのだから、さっさとベッドに入るしかない。そうすれば、一日の疲れを癒す睡眠時間が長く取れるし、パートナーがいれば、愛を確かめる時間ができる。
確かに、キューバでは、ガスや水道、電気、道路、電話、インターネットなどのインフラが整備されているとは言えない。
とはいえ、インフラ整備が遅れていることは、果たして「不幸」なのだろうか。
確かに、私たちは「不便」でない生活のほうがよいと感じる。私たちは18世紀の蒸気機関の発明を転機にして、生活の快適さや効率のよさを追い求めつづけてきた。いま先端産業はハードな重工業からソフトなハイテクへとシフトしているが、「不便」は「不幸」、「便利」は「幸福」といった基本的な「等式」は変わらないままである。
果たして、産業文明の根底にあるそうした「等式」は、正しいのだろうか。
インターネットが整備されて便利になったが、真夜中に同僚からどうでもいいメールが届き、目が覚めてしまい眠れなくなった。そういうグチをこぼした友人がいる。
あるとき、私の同僚の一人が、『赤毛のアン』の中にあるエピソードを教えてくれた。アンのいる村にも電話が開通することになり、どこの家でも「便利さ」を求めて、電話を引くことに躍起になる。約100年前のことだ。他人の家の出来事が手に取るように分かるようになる。だが、一人だけある老女が電話回線を引くのを拒む。老女は最新の情報機器を「モダン・インコンビニエンス」だと言い切る。私の同僚はその老女の言葉を「現代の不便」という直訳でなくて、ほかにうまく意訳できないか、思い悩んだという。そして、とうとう「便利は不便」という日本語訳を思いついた。
キューバは慢性的なモノ不足に悩まされている。キューバ政府は、それを米国の経済封鎖のせいだという。60年代からずっとその被害を被ってきたのだ、と。確かに、その通りかもしれない。だが、賢明な庶民は怒りを募らせたりしない。そんな口実は何十年も聞かされてきた。アメリカに腹を立てても、腹はふくれないのだ。むしろ、庶民はモノを捨てないで、大切にする習慣を身につけた。
そうした姿勢が端的に表れているのが、米国に亡命した富裕層が置いていったアメ車の存在である。世界広しといえども、50年代のクラシックカーが現役で走っているのはキューバぐらいなものだろう。ガソリンが恐ろしく安かった時代に製造されたので、ボディは重たく頑丈な鉄板だ。内装は現在の所有者によって改造されていて、応接間のソファみたいなゴージャスな座席から硬い木板まで千差万別。ダッシュボードのメーター類はまったく動かないが、オーディオデッキは必ず取り付けてある。それにメモリーフラッシュを差し込んで、レゲトンやサルサなどを大音響でかき鳴らす。ボンネットを開けてもらわなくても、エンジンは分かる。たいてい日本製か韓国製、あるいは英国製かドイツ製だ。モノがなければ、人は工夫をする。修理の技術も磨かれる。
一方、日本では、スーパーの売り場に象徴されるようにモノが溢れている。モノがたくさんあることが「幸福」であるかのような幻想をつくりだしている。だが、すべての現象には利点があれば、欠点もある。モノの欠点は、人間の欲望と同様に、キリがないということだ。だから、モノに取り憑かれた人間は幸せになれない。この辺でいいや、と満足できないから。
いま、日本ではそうした行き過ぎた消費生活を見直す「里山資本主義」という思想が語られ始めている。モノが必ずしも幸福をもたらさない、ということを私たちは学んだ。それに対して、キューバは、いま社会主義から限定的な市場主義へと舵を切り、いわば「プチ消費主義的」な世界へ移行しようとしているように見える。