Junky Monologue

   ひとりよがりな趣味のお話し。

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貧乏オーディオのススメ

2013年04月14日 16時16分44秒 | 音楽
私は単なる音楽好きでオーディオマニアではない。
CDや音楽ソースに少しお金を使っても再生装置への出費は一定の音質は維持しつつも最小限に留めたい。
だからスピーカーなど自分で作れるものは作るという方針でもある。

アナログレコードの時代にはレコード針からカートリッジといった音の入り口が最重要で、
嘗てかく言う私もそこだけはSUERのV15という高級機と呼ばれる物を使っていたこともあった。

が、維持経費が嵩み過ぎるアナログレコードを諦めるとするとデジタル主流になってしまった今、
CDに限界を感じるマニアな人達はサンプリングレートの高いハイレゾナンスな音源を求めてPCを使ったオーディオに移行しつつあるのかも知れない。
しかし、そのような音源は高価なものばかりでソース自体も少なく加えて再生環境にも新たな投資が必要になるし、個人的にはあまり一般化して欲しくはない。
ひとつ忘れてならない重要な要素として、そうしたハイレゾと呼ばれる音源の録音環境という問題がある。
いくらデータとしての音源のスペックが素晴らしくても肝心の録音がきちんと為されていないと全く意味のないものになる。
何故そこが気になるのかというと、近年は音楽業界の不況のよるものか録音という工程に予算をかけずにとりあえず録音しておいて、
デジタル技術の進歩を良い事に後から音源を加工するという方法が採られているらしいからだ。
そうなると元の生な音がどうようなものであったのかなど想像することも出来なくなるし、
極端な言い方をすればそこには単に高度なスペックが残るだけで肝心の音楽がないということになり兼ねない。
そうした理由によるものかどうかわからないが、近年FM放送などから聴こえてくる流行の歌や曲を聴くと粗雑な音質に感じ歌や曲は良いのに残念に思うこともある。
若い人達の間では「耳栓」やヘッドホンが主流なので、それに合わせた音質なのかもしれないがそれにしても・・・。
ともかくこれからの音楽産業がどういう方向に向かうのかたいへん気になるところではある。

前置きがちょっと脱線してしまったが、何が言いたかったかというと音楽好きとしてのソースはまだまだまCDに頼る他はないということだった。
話を元に戻すとなんだかんだと言いながら今はCDプレーヤーが再生音楽の入り口と言うことである。

で、ここからやっと本日の本題。
実は7~8前に購入した激安7980円コンポ(今は無きAIWA製)のCDプレーヤーの調子がひと月ほど前からおかしくなった。
今はサブとして使っていただけだし、まぁ~いいやと思っていたのだが、やっぱりちょっと不便。
でも新たにCDプレーヤーを購入するのも当然もったいない。
そこでふと気がついたのが最近よく出回ってる激安DVDプレーヤーを流用したらどうかという事だった。



ちゃんと日本のメーカー製(当然中国生産だろうけど)某大手家電ショップで4380円だった。

とりあえず7980コンポの外部入力端子に繋いでみると、おやおや元の音より良さ気に聴こえるではないか。実用十分なオーディオ音質である。



使ってからわかったのだが、CDのトラックナンバーを表示する機能がない・・・演奏時間は表示されるのに・・・ちょっと不便なだけで必須ではないが・・・やっぱテレビを繋げってことか(笑)。



それにしても純粋にオーディオ機器として売られているCDプレーヤーのあの値段はいったい何なんだろう、まぁ~世の中プラシーボ効果によって生きてる人達がそれだけ多いって事でしょうか・・・。
旧態依然のオーディオ業界が難しいというのは一定理解はできますが・・・。

気になると、とことん気になるショスタコーヴィッチ

2013年04月08日 00時10分14秒 | 音楽
って訳で会社帰りについ買ってしまったショスタコーヴィッチのCD

弦楽四重奏曲と交響曲4番、13番。四重奏曲は前回記事の本を読んでからかなり気になっていたのだが、
交響曲の方は適当に買い易かったものを選択しただけ。
演奏者や指揮者の選択をどうしても迷ってしまうのは歴史的背景ノイズのせいか(笑)。
が、ショスタコーヴィッチに接する姿勢としては歴史背景を完全に忘れて、バッハやベートーベンなんかと接する時のように素直になった方が良い。
で、ショスタコーヴィッチほぼ初体験者としての感想は・・・。
一口で言うとなんと絶妙な音楽であることか、正直今まで彼の作品について全く無知だった自分に驚いてしまった。
楽譜も読めないただのリスナーでしかない私の印象など論理的な根拠は何もないのだが、
あの時代、あの国の状況を全て捨ててしまったところできちんと成り立つ音楽だと言う事がよくわかる。
世間の風評による先入観がどんなに災いしていたかという良い見本であった。

ショスタコーヴィッチについての一般的な印象は件の歴史背景のせいもあり重厚で重々しくオドロオドロしく難解だと言ったところだろうか。
しかし、私的には彼の作品の重々しさやオドロオドロしさは主には音楽史的理由によるもので、
一概に一般に言う歴史的社会背景を理由にするものでは無い気がする。
彼の音楽をじっくり聴くとどことなくマーラーあたりに繋がるものを感じることが出来るし、
計算し尽された調性感の壊し方は歴史的悲劇性の表現というより、
バロック時代から連綿と連なるヨーロッパ音楽が行き着く必然としての表現に違いない。
単に感覚的な重々しさやオドロオドロしさだけならシェーンベルクやベルクやバルトークの方が遥かに物凄いし、
そんなヨーロッパの先鋭的な作曲家と比べるとショスタコーヴィヴィッチには古典的な感覚が多く残っていてうんと聴き易い。
ただそれまでのヨーロッパの作曲家と違う部分があるとすれば、全てが計算し尽された推敲のうえに成り立っていて、しかもそれを聴いて感じることが出来るという事だろうか。
まさしくその部分にこそ彼が置かれた過酷な歴史背景が垣間見えるということか・・・。

彼が恐怖の時代を生き抜くことが出来たのは、彼の作品がそんな強固な音楽的根拠に根ざしていたからだと思われる。
スターリンにしろフルシチョフにしろせいぜいコサック民謡ぐらいしか(あくまで喩えとしてで、コサック民謡を悪く言うつもりはない)理解できない連中に、
ショスタコーヴィッチの極めて高度な音楽表現の本当の意味がわかったはずがない。
確かに彼はソヴィエトアカデミズムからいくつも賞を与えられているが、それは彼の権力への迎合というより、
西側への外交的牽制として彼の亡命を恐れた権力側が逆に媚を売った結果とも解釈できる。

彼が悲劇の作曲家であったと言えるとすれば、命がけだったが故にビートルズのように勲章を投げ返す事が出来なかったと言う点に尽きるのか・・・。
それはともかく彼は正真正銘「20世紀」の作曲家だったのだ、恐るべしショスタコーヴィッチ。