Junky Monologue

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鳥肌ものの1枚 その2(CLASSIC編)G・マーラーのこと

2012年07月28日 19時21分46秒 | 音楽
サー・ジョン・バルビローリ指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
マーラー交響曲第9番



マーラーという作曲家は一見(一聴)分裂症的な楽想のせいと、どう捉えて良いかわからないまたは何が言いたいのかわからないという意味で難解な作曲家の一人に数えられているかもしれない。
また、とある日本の有名なサブクラシックのバイオリニストは「マーラーはナルシストだから嫌いだ」とラジオで語っていた。
ではマーラーは分裂症のナルシストだったのか?、
マーラー嫌いの人々は「どの曲のどこを聞いても同じに聴こえる」「どの曲も無意味に長い」と言う。
ほんとにそうなのか?、そしてそもそも長大な交響曲に拘り続けたマーラーの真意とは?
その答えのひとつがこの1枚に凝縮されているような気がする。

人間存在の大きな特徴のひとつは自らは有限の存在であるにも関わらず、いつも無限なるものを夢見ようとしている動物であると言うことだ。
それは全ての人間的と呼ばれる行為の原動力であると同時に全ての宗教の根拠でもある。
言ってみれば地上界と天上界の往還という衝動が全ての表現行為の根底にあるのかもしれない。
もっとも宗教の場合は一方通行のまま行ったきりで決して戻っては来ないが。

音楽を含む芸術行為の価値をどれだけ普遍性を獲得したかで計るとすれば、
ヨーロッパ音楽(特にその王道たるドイツ音楽の流れ)の歴史はこんな風になるのではないかと考える。
バッハ以前の教会音楽 ⇒ 普遍化された世界=天上界=天上界の賞賛
バッハ以降古典期から前期ロマン派にかけて ⇒ 地上界は天上界に作られた=地上界の謳歌=天上界の賞賛
後期ロマン派 ⇒ ちょっと待て、では地上界の諸々の苦しみは何と解釈するのか?地上界の汚れは天上界の汚れなのか?
後期ロマン派以降 ⇒ 混沌そのものが世界であるならもはや様式に拘る理由は何もない、あるいは現世的なものだけで十分=土着的なものにも価値がある。
現代音楽 ⇒ 何でもありだけど答えが出ない、答えが出ないのは設問の誤りであるけどさてはてその正しい設問とは?、でその答えって何に対する答えなんだ?

なんと乱暴な、それ故にこうなってくるとまったく収拾がつかない!(笑)。

いわば表現行為を此岸と彼岸とを架橋しようとする行為と呼ぶならば、
「行きは良い良い、帰りは怖い」大事なのは帰り道の作り方なのだ。
生と死、現世とあの世、此岸と彼岸、肉体と精神、現実と理想、全ての矛盾と本当の悩み煩悩はその狭間にある。

余談が長くなり過ぎた。
マーラーという作曲家はこの帰り道を探し続けた作曲家なのだと思う。
近代的な市民社会の成熟に伴い「煩悩」が加速度的に膨れ上がりはじめた19世紀末~20世紀初頭、
これまでの偉大な先達たちの音楽的な達成からの帰り道マーラーはあまりの「煩悩」に悲鳴を上げている。
でも帰りの道筋を決して諦めていない。もがき苦しむ姿を聴衆に晒してしまうこともあったかもしれないが。

やっと本題
この交響曲9番は近づいてくる死の足音を感じ始めたマーラーがようやく到達した新たなステージへの予感に満ちている。
バルビローリとベルリンフィルは希望でも絶望でもなく、薄っぺらな情緒的表現に頼らなず、ただ「必然」ということの逃げられない重みを、
人間的な優しさと懐の深い情緒性を巧みに操作しつつ、微妙な時代に生まれた微妙な世界観を今に生きる世界観として強固に構築している。
この録音はジョン・バルビローリの愛に満ちた深い解釈とベルリンフィルの卓越したテクニックが為し得た偉大な成果だと思う。
分裂症でもナルシストでもなく、外見は確かに激情家、でもその実は冷徹な観測者だったかもしれないマーラーの姿が浮かび上がる。
とりわけ第4楽章の微妙な調性感と時間感覚(あえてリズムと呼ばない)に鳥肌が立つ。

聴き方は人それぞれの自由、その解釈もしかり。
でも確かにそこに何か目に見えない巨大な「世界」があることを感じることはできるはずだ。
そんな「世界」に圧倒されてみるのも一興かと思う。


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