野蒜日記

折々のこと

小休止

2006-07-31 14:04:21 | Weblog


午前8時、精神統一して写経。 毛筆の先を注視して書き次ぐ。 

遠、乱、老の眼は疲れ果て、涙が出るし、ぼやけるし。 それでも
書き上げてホッと一息。

さて、次は着なくなった衣類やその他の整理。 これが、イケマセヌ。
手先が止まったまま、先に進まないのだ。

「考えあぐねた結果、処分すると決めたのだから、もうその袋の中を覗か
ないこと!」

こうして少しずつやってはいるけれど、なかなか思うように捗らない。
その上、今日は各地に旅行した時のいろいろ。 絵葉書やらホテル
やらのパンフレット etc・・・・・・

「ああ、沖縄だぁ、ナツカシイ!」 「北海道の・・・」 「九州の・・・」
思いはあの時、この時へと駆け巡り、鮮明にそれらのシーンが蘇る。

もうもう、整理どころではなくなって、じっくりと見入ってしまった。

旅行の都度、袋に入れてしまっておくため、その量がすごい。 
それらを、また全部まとめてダンボールに保存してある、というわけで、 
これこそ捨てなければ、と痛感した。

だが、行程表や、みやげ物の領収書に至るまで、すべてが入れてある
ため、当時の値段などが解って、その点ちょっと興味深い。

もう一つのダンボール箱には中国旅行 (3回分) のものが入っていて、
さすがにこれは捨てがたい。 思い出深い物だもの。  
それで、またまた押入れの中にしまい込んでしまったが、まあ、滅多に
開けて見ることはないだろう。 とすると、やっぱり捨てるべきか?
自問自答してみるが・・・・・・

そんなこんなで作業は一時中断し、小休止。 あめ玉一つ口に放り込み、
パソコンを開いたというわけである。












あれから何年?

2006-07-30 15:09:03 | Weblog


「機上より遥かに望む哈尓濱の
        市街 (まち) は今し陽炎 (かぎろい) の中」


初めて中国へ旅行したのは何年前だったか。
飛行機の中から遠くハルビン市街が見え始めた時の、あの感激は
忘れられない。
昨日、偶然友だちと会い、懐かしくその話に花が咲いた。 


「『冰棍儿!』と売り声ひときわ高くして媼は箱より取り出だし見す」


黒竜江大学の先生方が案内してくださり、ハルビン市内のあちこちを
観光したのだった。
ちょうど真夏のこの時期で、松花江のほとりには、木陰に憩う人々の
姿や、物売りの声が賑やか。  見るもの聞くものに興味をそそられた。

7月25日からハルビン、北京12日間の旅。 それも、たったの3人で。
当時は中国語講座に入門したばかり。 
言葉が話せず、その上ツアーでもなく、よくぞ行けたものだ、 と今にして
思えば冷や汗ものである。

ハルビンに2泊した後は、北京の友誼賓館に宿泊。  毎日、そこから
タクシーで名所旧跡を巡った。

この時期になると、北京の紺碧の空の色や、ハルビンの太陽島のこと
など、諸々が思い出されて懐かしい。











梅雨明けはまだ?

2006-07-27 15:12:57 | Weblog


昨日に続いて快晴。  この地方の梅雨明けは? まだ?

午前、9時半よりSITC-NET 。 教わったのに忘れていることが多く、
がっかりである。

「今度こそは、しっかり頭の中にインプットさせないとねェ、 いくら
何でも!  頑張ってよネッ!!」  

自分に強く言い聞かせてはいるが、果たしてどうなるだろうか。  
密かに忍び寄る老いが、わたしをガンジガラメにしているのである。 


さて、待ちに待ったこの快晴。 真っ赤に染まった梅を、昨日も今日も
戸外に干した。 そして不要品の整理。  ようやくエンジンがかかり、
作動開始である。

要る物、要らない物の区別は難しい。 一旦捨てる方の袋に入れてはみた
ものの、また戻して元の位置。 そんなこんなで、なかなか捗らず、時間
ばかりが過ぎていく。

保存していた領収書や書類など、記載されている住所、名前等の部分は、
すべてシュレッダーに掛ける。 
5年連用の日記帳、家計簿の類も後生大事にとってあり、 これはとても
手に負えない。  後日少しづつやることにした。

箪笥、衣装ケース、その他も追々にやろう。 
折角掛かったエンジンである。順調に作動するように、と願うばかりだが、 
明日は金谷行きである。  そのために、 ちょっと、このエンジンを切る
けれど、どうぞエンストを起こしませんように。 

使わない物、使えない物、その他不要と思う物は潔く処分しよう。 それが
目的なのだから。
 







 

不如帰 (ほととぎす)

2006-07-26 15:36:45 | Weblog


何気なくテレビをつけたら 「不如帰」 についての内容であった。
徳富蘆花著の不如帰である。 

それで、またまた遠い昔を思い出した。 小学校に上がる前か、上がった
ばかりの頃か、その辺は定かではないのだが、とにかく幼なかった。

当時の遊びと言えば、縄跳び、石蹴り、かくれんぼなどなど、指折り数え
ても、かなりの種類。  中でも 「マリつき」 は盛んで、次のように言い
ながらついたのだった。

伊勢(イッセイ)1
新潟 12
三河 123
信州 1234
神戸 12345
武蔵 123456
名古屋1234567
函館 12345678
九州 123456789
東京 12345678910

ゴーゴーゴーゴー鳴る汽車は、ナミ子とタケオの別れ汽車、
再び会いたい汽車の窓、泣いて血を吐く不如帰。

タケオがボートに移る時、白い白い真っ白いハンカチ振り振り
ねえあなた、早く帰りてちょうだいね。

それではナミさん行って来る。 あなたも体を大切に。

いっせー 1
にいがた 12
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


独特な節回しでこれを言いながら、上げた右足を左右に振り、マリを
つくのである。
文句の意味も解らずに、声を張り上げ遊びに興じていたあの頃。 
仲良しだった友だちはどうしているだろうか。  彼女らもまた、当時
を思い出し、懐かしむことがあるに違いない。

先日、弟の家に寄った折、何かの拍子に 「一番楽しいお正月・・・」 
から始まるシリトリのことを口にしたら、 それは残しておきたいので
紙に書いておいてよ、 と言う。

同級生からは 「四方の山々・・・」 という歌詞を書いてほしい、と
頼まれた。

このように昔の記憶だけが残っていて、最近の、どうしても覚えなければ
ならないことは一向に頭に入らないのである。 
ということは即ち、 紛れもなくわたしが老人たる所以で、 もう、何とも
致し方なし、 ということか。

それは自覚しているけれど、でもその一方で、 「イヤイヤ気だけは若く」 
などと、満更でもない自分が時々チョコット顔を覗かせたりして。 

全くいい加減人間なのである。
 


 








中国語講座

2006-07-25 14:55:55 | Weblog

久しぶりに晴天となった。

10時より、あいホールでの中国語講座。 8月が夏休みになるため
これが今期、最後の授業であった。

次は9月5日。 その日までにやっていく宿題は

提  (ti)
并且 (bingqie)
好容易(haorongyi)
没想到・想不到(meixiangdao・xiangbudao)
一連 (yilian)
才  (cai)


を使って短い文を作ることと、 新聞の中から拾った文章を中国語に
翻訳すること。 
これは比較的長い文章なので大変かも知れないけれど、わたしには
うれしい宿題である。

今日は早めに勉強を切り上げて、あとは 「茶点時間」 ティタイム。
みんなそれぞれに持ち寄ったお菓子などで聊天儿、過得很愉快。

听説、沈老師是8月7日回去台湾。 我們都説“祝您一路平安!”
“暑暇愉快!”

楽しい授業であった。


豊田の中国語講座は8月6日。 宿題は 「夏休み」 についてだそう
である。




疲れた!

2006-07-24 15:55:41 | Weblog


街へ行き今しがた帰ったところ。 「疲れた!」 昨日に続く今日なので
疲労度がかなり大きい。


実は昨日 「自衛隊富士学校・富士駐屯地の開設52周年記念行事」 を
主人と一緒に見に行った。

青春時代の2年間をこの富士学校で過ごした、という彼が結婚以来ずっと
わたしに言い続けてきたこと、それは 「一度開校記念日の様子を見せて
やりたい」 ということだった。

毎年その日が何日になるのか (電話で何回か問い合わせもしてみたが)
が、解らず過ごして来たけれど、今回、読売旅行が参加者を募集している、
と知ったので早速申し込み、ようやく実現出来たという訳である。

しかし、あいにくの霧雨、その上大変な人出で混雑、更には時間的なことも
重なって、残念ながら記念式典やパレードは見えなかった。

だが、パレードを終えたオートバイ、ジープ、トラック、装甲車、戦車などが、
けたたましいエンジン音を響かせ、次々に引き上げて行く様子は間近で
見た。 すごかった。

その数一体どのくらいだったか。 

やがて、アトラクションが始まった。 猛スピードでオートバイや、装甲車や、
戦車が総合訓練場に入ってくる。 模擬戦闘の開始である。

耳を劈くような爆発音。 花火の尺玉を間近で聞くような、いや、それよりも
大きな音だったか。 暫く続けたが、濃い霧で視界がほとんどなく、危険な
ためにこのアトラクションは中止となった。

この総合訓練場がどれほどの広さなのか、濃霧の中で全く見えない。

ふれ合い広場には多くの模擬店や、隊員たちによる歌やお笑いなどの出し物。
また、その広場の一角に使われなくなった数台の戦車が展示してあり、乗り
降りして楽しむ人の数が多かった。

見れば戦車はかなりの高さである。 「ここを5秒でよじ登ったなんて、今では
とても信じられない」  と主人が言う。 
戦車を操縦していた、という当時の話を主人から一頻り聞いた。 厳しい規律
の中で、機敏に行動していたであろう彼の、凛々しい姿を想像してみた。

今や、わたしとどっこいどっこいの野暮天である。 オカシサがこみ上げるが、
それだからこそ仲良くやってゆけるのだ、しみじみ思う。 そして、またまた
感謝である。


昨日はそんな訳で座禅も中国語講座も欠席した。









夏季スクーリング

2006-07-22 18:40:50 | Weblog

「第33回日中友好協会中国語夏季スクーリング浜名湖会場参加者募集」 

の案内が届いた。 毎年県内の東、中、西の3地区で順番に開催されており、
今年は西部地区、新居町の 「浜名湖ユースホステル」 が会場だそうである。

わたしは過去に2回参加した。 

開講式、オリエンテーションの後、午前の授業1時間。 午後の授業が2時間。
夕食、入浴後の交流会が楽しかった。 それぞれが中国語で自己紹介など。

2日目も朝の集いから閉講式まで授業。

今回の講師のお二人とは知り合いである。 近いところだし・・・・・・と、ちょっと
食指が動く。

だが、 まあやめておこう。  この西部地区での開催だし、いい機会ではある
けれど、何といってももうこのトシだもの。 

そんな諦めの気持ちと、未練がましい気持ちとが、行ったり来たり。  誠に
往生際の悪いわたしである。











水は怖い

2006-07-21 13:58:59 | Weblog


旅行社から送られてきたパンフレットを見ながら主人が言う。

「日本列島のんびり船旅8日間」 というのに参加しよう。 と。

いやいや、とんでもない!!  

どこかへ旅行の折、どうしてもフェリーに乗らなければならないような時
ならばいざ知らず、 わざわざ船旅なんて・・・ ダメダメ!!

昨日もブログに書いたけれど、濁流の渦巻きの中でアップアップして以来、
わたしは水が怖く、乗船には拒絶反応が起きるのだ。



幼い頃、友達らとよく天竜川に足を運んだ。 本流まで行けば水際でピチャ
ピチャと小石を並べて遊んだりしたが、 だいたいは防水堤として作られて
いる、四角なコンクリートの上で遊ぶのが常であった。

一間四方ぐらいの大きさのコンクリートが、何列か等間隔に並んでおり、その
上をトントンと飛び渡るのである。 地元ではこれを 「オトーフ」 と呼んで
いる。  まるでお豆腐そっくりなのだ。

堤防の下に作られているオトーフのところには、洪水にでもならない限り水
はなく、裸足で飛び跳ねるのは気持ちがよかった。

本流まではずーっと遠いため、滅多に行かなかったが、それでも真夏の炎天下
連れ立って水浴びに出かけたりした。 そんな時のわたしは水際で砂利や小石
を並べ、メダカなどを追い込んでワイワイ騒ぐだけの他愛のないことだった
けれど。

春にはイタドリ、土筆、蓬、 秋にはグミ採りなどなど。  屈託なく大声で
歌い笑う。  天竜河原や堤防には子供たちの元気な姿がいつもあった。



この大雨により、天竜川上流など各地で発生した深刻な被害の様子を、テレビ
新聞等で見るにつけ、現地の人々の恐怖心はいかばかりかと思う。

土石流が山紫水明だった風景を一変させる。  自然は恐ろしい!


ダムが建設されて以来、下流に住むわたしはホッとしたが、それでもあの濁流
を思い出すたびに身震いする。  そのことがトラウマとなって襲いかかって
くるのである。



船旅反対!!  たとえお金をくれてもイヤだからネ。  こればかりは
わたしも頑固に、ハンタ~イ を唱えているところである。
 


 
















大雨災害

2006-07-20 09:51:55 | Weblog

活発化した梅雨前線の南下によって各地に大きな被害、のニュース。

長野県の箕輪では天竜川の堤防が決壊し、濁流が民家に迫っている、
と伝えている。  今、この時刻、 どんな状態になっているのだろうか。


幼い頃、格好の遊び場だった天竜川。 
対岸の山の緑を水面に映し、悠々と流れ行くその様は本当に美しかった。

反面、大雨で荒れ狂う濁流の、何と恐ろしかったことか。
おびただしい流木。 当時、家々の大人たちはその流木を拾うために、
鳶口などを携えて堤防の上に立った。 拾った流木を薪にするのである。

今にも決壊するのではないか、と恐れおののいたあの頃。  だが後年、
佐久間ダム、秋葉ダムが建設されて、その心配は不要となった。

それにつれて天竜河原も一変。  きれいだった石原には雑草が生い茂り、
幼い日々の懐かしい思い出を遮っている。

豊かだった水量もグンと減り、水底からは予想だにしなかった大きな石
が顔を覗かせ、人々を驚かせた。


遠い日、わたしは足を踏み外し、何とあの荒れ狂う濁流の中に転げ落ちて
しまった。 「幸い渦巻きの中だったので流されずに済んだのだ」  と後に
なって聞かされたが、 それにしても轟々と荒れ狂う濁流である。
 
助けてくださったのは近所に住む青年(当時)だった。  ほどなく戦地に
赴かれたが、お元気にお帰りなされてホッとした。  どんなに感謝しても
しきれるものではない。 

あの時、あと何十秒か遅かったら、多分もう命はなかったろうし、濁流に呑み
込まれたまま大海原に流されて、モズクと消えてしまったに違いない。

数え年6歳の夏のことであった。