続・黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

上野国山上・葛塚城堀之内に住んでます。ひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

紅葉を尋ねて吾妻路(中之条歴史と民俗の博物館「ミュゼ」)

2023-11-27 20:24:39 | 群馬県・西毛

昨日はとても寒い朝でした。

赤城山にも白いものが見えました

でも、ひめちゃんとタバサねーちゃんは、元気に天神田を歩いてきました

昨日から、外のお部屋は、床暖マットが二重になりました

 

 

 

11月19日、紅葉を尋ねて、吾妻(あがつま)方面にドライブです。

ひめちゃんちのおとうさんは、昔々中之条に住んでいた事があります。

 

赤城南面の国道353号線をひたすら西に行きます。

利根川を大正橋で渡って直進、国道353号線と別れます。

渋川駅の脇を通ります。

警笛が鳴ってます。

けっこう長く鳴ってます

待ちくたびれた頃、煙を吐いた蒸気機関車がやって来ました

あっという間に通過して行きます。

後ろの車両から身を乗り出して、カメラを構える人もいます。

 

JRも、こんな試みをしていたんですね

わたらせ渓谷鉄道のトロッコ列車と同じで、この秋は乗車券をゲットするのが大変だったことでしょう。

思いがけずに、蒸気機関車に逢えました

 

 

吾妻川の南の県道35号線を走ります。

この道は、地元の人は、「ひかげみち」と言うそうです。

榛名山の北側で、日当たりが少ないと言うことかな

 

どこかにいい紅葉の景色はないかな?

箱島湧水⇒ヶあります。

もしかしたらいいかも

でも、ペットボトル持ってきませんでした

やはり湧水は汲んでいきたい。

 

 

優柔不断に進みます。

川の北側の「ひなたみち」(国道353号線)に出て見よう

不思議な景色の断崖です。

ライダーさんも、出ています。

 

しばらく進むと、前方に不思議な形の山が出現

嵩山城趾(たけやまじょうし)です。

麓まで行きました。

まだ、登城できてません

御城印は、確か中之条ミュゼで出していたと思います。

このままミュゼでも寄ってみましょうか

 

右折してミュゼめざします

 

記憶をたどって、歴史と民俗の博物館ミュゼに到着です。

ここは、旧吾妻第三小学校校舎と言うことです

群馬県内にただ一つ残された明治洋風小学校建築の貴重な建物である。

とあります。

 

あれ校舎の右端にモミジの紅葉です。

 

やっとモミジの紅葉に逢えました

紅葉の奥には、二之宮金次郎さんです。

たった1本だけど、素敵な風景になってます

 

 

博物館は開館中です。

あれ、シンボルのケヤキが黒い

保存のために樹木医に薬を塗ってもらってるんですね。

ここは十二様(山の神)の境内だったのです

 

 

今の企画展は、ぐんまの長谷川町子「鈴木ひで」でした。

ここ中之条生まれの画家です

ほのぼのとした、心和む絵です

展示の最初にあった、家出の経緯にビックリです

通りかかった嬬恋キャベツのトラックに、私は風呂敷包みひとつを抱えてに、「乗せていって、東京へ」と霧中で助手席に飛び込みました。

すごい行動力です

昭和28年の事です。

もうこの頃から、嬬恋はキャベツの産地だったのです。

企画展チラシの裏の年譜には、1944年(昭和19)旧中島飛行機小泉製作所に除し挺身隊として勤務とあります。

小泉(現大泉町)の中島飛行機で終戦を迎えたのです。

展示室のビデをは、本人がある小学校の講演会で自己の体験を語っていて、ちょうど終戦の日の様子でした。

ズーと聞いていたい話でしたけど、余りゆっくりは出来ないので途中で退席です。

残念

 

 

帰りは素直に、国道353号線を帰りました。

白井宿付近の赤城山です。

いつも見なれた姿とは、全く異なります

白井宿もしばらく寄ってません。

またその内に寄りましょう

 

 

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続・寺尾の新田義重の墓(太白山永福寺)

2023-09-16 19:45:23 | 群馬県・西毛

少し涼しい朝です。

ひめちゃんとタバサねーちゃんは、堀之内を西に出て、天神田(字天神の田んぼ)を歩いてきました。

タバちゃん、やっぱりメメが緑色だね

目薬をさして、目やにを流さなくてはね。

夜おうち犬になったら、目薬をさしてからお散歩にしましょう。

 

タバサねーちゃん、おうちが近くなると、元気になります

おうち近くの田んぼに、彼岸花が咲き始めました

 

 

 

 

寺尾(高崎市寺尾町)の永福寺で、新田義重の墓という五輪塔を確認です。

永福寺は何度か移転しているので、この五輪塔はズーとここにある物ではなさそうです。

新田生まれの人間としては、です。

 

ここは高台の眺望のいい場所です。

檀家も多そうで、石屋さんの工事の車も入ってます。

「新田のゆかり」はいらない雰囲気です

 

 

去年からの積み残しの宿題を完了して、俗界に戻ります

 

俗界への出口には、たくさんのお地蔵様です。

怖そうな奪衣婆です

もう一体の奪衣婆の方が穏やかです。

何か達観してる雰囲気です

 

本堂脇には睡蓮の池です。

後ろの竹藪もいい雰囲気です。

 

あれ、大中黒だ

しつこくなく、さりげなくあります

 

 

庫裏に寄って御朱印をいただきます。

「新田にも、新田義重の墓があるということだけど、どこにあるんだい?」

「徳川(太田市徳川町)の満徳寺の裏の畑中です。古びた今にも崩れそうな五輪塔が二基あります。新田義重夫妻の墓だそうです。ぜひ、行ってみて下さい

 

 

駐車場には、階段を降りて行ってみましょう。

振り返って参道の石段です。

けっこう大変でしたけど、手すりがあって助かりました

こちらが本来の参道ですね。

石造物もあります。

かなり個性的な方もいます

 

 

門柱の隣には、新田義重公墓所入口とあります。

石段を降りてこないと分かりませんでした。

帰りは行きと違う道を帰るのが好きな性分で、発見できました

境内に案内の矢印もなかったし、庫裏で聞いて行っったから行き着きました

新田義重の墓を、今はあまりメインにしている感じではありませんでした

 

吉井街道を歩いて、駐車場に戻ります。

吉井街道、探訪してみたいなあ

 

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寺尾の新田義重の墓(太白山永福寺)

2023-09-15 12:05:47 | 群馬県・西毛

ひめちゃんとタバサねーちゃんは、プーちゃんの前を通って、堀之内の西端を歩きます。

あれ、今朝はカメラを忘れました

昨日の朝は、頑張って山上城まで行ってきました

思ったよりきれいだよ

蚊もいないみたい

本丸の辺りも、そんなに草深くないみたい

 

二の丸と三の丸の間を通って帰ります。

三の丸(山上城跡公園)はちょっと草深そう

上がらないでパスです。

 

隣の常広寺駐車場を通ります。

タバサねーちゃん、元気が出てきました

天神田(字天神の田んぼ)に、サギさんの姿はありませんでした。

 

 

 

8月31日、高崎市寺尾町の永福寺を訪ねました。

去年、金井沢碑で逢ったおじさんに、「ここら辺にも新田義重の墓があるんだよ」と教わりました。

だいぶ時間がかかりましたけど、やっと訪問です

 

距離的にはありましたけど、ナビに従って迷うことなく到着です

坂を上がった駐車場に駐車です。

境内を目指します。

 

あれ、本来はこの階段が参道かな?

 

クラシックな山門です。

手すりはありがたい

 

山門を入ると、すぐに御堂です。

すぐ左手の御堂には、二体の石仏です。

手に持ってるのは、薬壺かな?

奥の御堂には、何様かな?

 

右手には鐘楼堂です。

作業用の軽トラックがあって、説明板がよく撮れません

地元の鋳物師の作品なので、戦争中の供出を免れたという事です

 

 

落ち着いたいい雰囲気の本堂です

隣の庫裏に寄って御朱印をお願いします

新田義重の墓所を尋ねます。

墓地の奥の階段を登って、歴住のお墓の隣だそうです。

 

 

本堂前を通って、奥へ進みます。

お地蔵様がいっぱいです。

奪衣婆もいます。

異世界への入り口の雰囲気です

 

 

高台の広い墓地です。

階段を登って歴代住職の墓標です。

みんなわりと小さめなのが、好感が持てます

 

隣にありました

この五輪塔が新田義重の墓と言うことのようです

たしかに古い五輪塔ですけど

とりあえず、合掌

 

『ぐんまのお寺 曹洞宗Ⅰ』(上毛新聞社 平成14)によれば、

永承年間(1177~1181)義重源氏の嫡流をもって、頼朝に屈するを潔しとせず、上州寺尾城に塁を築き、ここに居住する。義重は建仁2年(1202)正月14日八十七歳の高齢で死去。永福庵に葬られた。義重在世中中山麓(現在「元寺と呼んでいる所で城山町の近辺)に庵を建て、自ら臨済宗の初祖千光国師の法弟となり、入道して上西と号す。その庵を永福庵と称し永福寺の前身である。

 

その後も、永福寺は焼けたりして移転しています。

この五輪塔は、ずっとここにあるのではなく、移転してきた物になりそうです。

新田義重の墓というには

特に新田出身のひめちゃんちのおかあさんには

 

見下ろして、寺尾の風景です

そろそろ御朱印出来たかな?

 

 

(つづく)

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中山道新町宿・於菊稲荷神社(後編)

2023-02-25 18:12:31 | 群馬県・西毛

ちょっと寒い朝です。

ハイシニアのタバサねーちゃんは、まだ寝ています。

ひめちゃんは、先に一人散歩で、堀之内を西に出ます。

天神田(字天神の田んぼ)を歩いてきました。

赤城山は、吹雪いているようです。

天気予報通り、寒い1日になりそうです。

 

ムーハウスガーデンには、きれいな花色の椿が咲きました。

玉之浦のようだけど、ちょっと違いうかな?

 

 

 

(2月7日、於菊稲荷神社の参拝続けます。)

左右に、古いタイプの狛犬(狐)が見えてきました。

わあ、古き良き日本の狛犬(狐)です

 

水屋の説明板です。

新町宿は中山道の宿場町として宝暦(1751)から文政(1818)にかけ人馬の交通量も増し、神社は多くの参詣人でにぎわい、奉納された鳥居、絵馬、算学など、価値ある文化財が多い。

この水屋は、文政六年(1823)新町の人々の浄財によって創建されたものである。

 

「彫刻は精巧を極め」とあります

確かにそうですけど、彫刻師は不明なのかな?

 

時節柄、手水は使えませんけど、いちおう花手水かな

 

右の狛犬(狐)さんです。

中山道本庄宿の人の奉納です

 

 

拝殿近くですけど、次々と参詣人がやって来ます。

 

 

絵馬の説明板を確認です。

遊女の参詣は、宿場ならではの情景なのでしょう

 

 

空くのを待って、拝殿近くで、ウロウロです。

 

あれ、拝殿前にも、二組の狛犬(狐)さんです

上のキツネさん、大きなシッポが筆のようです

 

高額の奉納者として、埼玉県北埼玉郡羽生町の大石さんの名前があります

中山道の宿場ならではですね

 

 

やっと一人で静かに参拝出来そうです。

大きなお雛様が見えます。

2礼2拍1礼です

 

 

拝殿脇には、狐塚です。

古い狛狐さんたちも、ちゃんと存在しています。

霊験あらたかなので、何組もの狛狐が奉納されたのですね

 

 

社務所によって、直書きの御朱印をいただきます。

狐のシッポのイメージ、いいですね

御利益がありそう

ありがとうございます

 

社務所の待合室には、奉納された絵馬がありました。

退屈することなく、待ちました

カメラは、ご遠慮下さいでしたけど。

 

 

駐車場に戻る途中、気づきました。

参道にも、狐さんです

 

中山道新町宿の於菊稲荷神社、またそのうち参拝します

 

 

 

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中山道新町宿・於菊稲荷神社(前編)

2023-02-24 16:45:44 | 群馬県・西毛

ひめちゃんは、堀之内を北に出ました。

赤柴ラッキー君ちの近く、蕨沢川に架かる最初の橋・久留美田橋からUターンです。

先日、蕨沢川の始点・童沢貯水池には水がありませんでした。

でも、川は水音を立てて流れています。

川沿いにあった、三基の石宮は全くその存在を感じません。

雑草と竹に覆われて、完全に忘れ去られてしまったようです

 

寒い寒い冬で、椿は凍みてしまって、なかなかきれいに咲いてくれません。

でも、クリスマスローズは、次々と開花しています。

防寒に古葉を付けておいた方がいいのか、それとも古葉切りをして花をスッキリ見せた方がいいのか

 

 

 

2月7日、首塚八幡宮からの帰り、於菊稲荷神社(おきくいなりじんじゃ)に寄ります。

(街道を行く・中山道 群馬県歴史の道2 群馬県教育委員会)

 

①が首塚八幡宮、②が胴塚稲荷古墳です。

胴塚稲荷神社前の道を右に、岩倉橋を渡って帰ります。

⑨が於菊稲荷神社、烏川を渡ってすぐ右手の⛩は、角淵八幡宮です。

どちらも寄って行きましょう

 

迷うことなく、於菊稲荷神社の駐車場です

於菊稲荷神社は、ウィキペディアによれば、

創建年代は不明である。1582年(天正10年)の神流川の戦いで、後北条氏に勝利をもたらしたことから、社殿が整備された

当社は中山道の新町宿の中にあり、遊女や飯盛女が多くいた。彼女らが奉納した絵馬が現在も残っている。

とあります。

また、於菊伝説として

宝暦年間(1751年 – 1764年)、新町宿に「於菊」という美しい娘がいた。ところが重病に罹り療養生活を送っていた。於菊が当社に病気平癒を祈ったところ、病気が治り元気になった。その際に「人のために尽くせ」という霊夢を見、後の半生を当社の巫女として生きることになった。於菊は予知能力を授かり、様々な物事を言い当てるようになった。そのことが評判を呼び、いつしか「於菊稲荷神社」と称されることになった。

とあります。

 

別の説もあります。

大黒屋の娼妓於菊は大変な美貌と気立ての良さで新町随一の売れっ子。ところが病に倒れると大黒屋からはのけ者に。 村人が稲荷神社の小屋で看病したが、ある日、お菊の枕元に稲荷の霊が現れ奇跡的に全快。 感謝した於菊は稲荷神社の巫女となったのだとか。以来 於菊稲荷神社 と呼ばれるようになり神社はますます隆盛を極めたそうだ。

 

後者の方が、お菊さんの霊能力が強そう

 

⇒で行くと社殿に出るようです。

 

 

でも、鳥居から入ります

鳥居を目指していくと、脇にもたくさんの鳥居です

 

やっと本来の鳥居です

 

双体道祖神と境内の説明板もあります。

ちょっと不思議な二人です

 

遊女参詣図ですって

遊女も大勢参詣してたようですね。

 

右下の出入口から、直進です。

振り返ると、あれ、野州足利の文字が

ここは、中山道新町(しんまち)宿です。

下野の国・足利の商人も、さかんに行き来したのでしょう

そうすると、遊女参詣図も納得です

 

雷電神社です。

上州だから、雷が多いかな?

 

道祖神です。

撫でられてるかな?

 

鳥居の途切れた所を、曲がります。

 

まだまだ、鳥居が続きます。

 

狛犬です。

こんにちは

どうも新しそうです。

 

まだまだ、鳥居は続きます。

 

やっと、社殿が見えてきました

まだ、鳥居が増える余地ありですね。

 

手水舎と狛犬(狐)が、見えてきました

狐さん、こんにちは

 

(つづく)

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