続・黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

上野国山上・葛塚城堀之内に住んでます。ひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

きさき神社だよ、お后さまの「きさき」だよ(木崎宿・貴先神社)

2024-03-03 19:36:19 | 日光例幣使街道

寒い寒い、お散歩地面も凍った朝です

ひめちゃんは、堀之内を北に出る道に入ります。

今朝は、カーブミラーの所を右に、葛塚城の堀切跡を越えて東の方に行きます。

草も冬の寒さでウチバです

今なら通れます

 

長安寺跡に出ました。

おや、見かけない大きな塔が建ってます

 

今朝はもっと東の方に行くでふよ

 

県道を渡って、サマンサ坂を下ります。

獅子くんと、よく南から来てこの坂を登って帰ったね。

ここは、サマンサおばちゃんの魂が天に昇って行った所だよ。

 

ヤギハウスの脇を通ります。

ここには、ヤギの家族が住んでいました。

ある日、「ヤギに食べ物をあげないで×」の貼り紙が出されました。

そして、そのうちにヤギさん家族は誰もいなくなりました

 

黒毛和牛の牛舎前を通ります。

牛さん、おはよう

後ろに積んだ「わらロール」、貯蔵と防寒を兼ねてるんだね

 

この細道に、道標があります。

かつては、多くの人が行き交った幹線道路だったのです。

 

長安寺跡の見なれない物体、どうしてあそこに出来たんだろう

何故、あそこに建つのだろう?

 

 

 

2月26日、長命寺の後、貴先(きさき)神社を訪問です。

何年ぶりかな?

前回は、行事か何かで、人が大勢いました。

「きざき神社ですか? きさき神社ですか?」と問いかけると、「きさき神社だよ おきさき様の后だよ」と、教えていただきました。

 

鳥居から参拝です。

額の文字がはっきり見えません

 

社殿は、元気そうです

 

向拝の彫刻、日光例幣使街道・木崎宿ならではのものです

例幣使の行列です

あれ、一人首がない

どうしたんだろう

馬子に牽かれた馬が、なんともかわいい

ホッと和む彫刻です

 

横からの社殿です。

本殿、後ろからです。

それなりに凝った彫刻です

 

ここには、若干の石造物がありますけど、多くはありません。

 

新田の名木があります。

確かにすごい格好です

 

でも、長命寺のカヤの木も、それなりの木だと思うけど

 

 

新田町誌基礎資料第8号『村々の沿革と絵図』(平成3)によれば、地名の伝承として、

「往古、后と呼ばれる高貴な方が故あってこの地に移り住し、里人この地をきさきと呼び、後に木崎となった」と。また、「創建年代は不詳だが、荒茫たる原野に一祠あり貴先神社といった。人々が原野を開拓しやがて集落を形成、地名を神社に由来して貴先と考えたが、神社と同文字では不敬であるとして木崎とした」などがある。

~(中略)~地名については伝承のみで確証に乏しく、今後の研究課題である。

 

研究、進んだかな?

 

高校生の頃、木崎の駅から東武鉄道の電車で通学していました。

駅の北側には、サッポロビールの大きな工場がありました。

その北の方の木崎の街が、例幣使街道・木崎宿として賑わっていたなんて知りませんでした。

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木崎宿・色地蔵と長命寺のカヤ

2024-03-01 20:24:20 | 日光例幣使街道

朝は、まだ雨の中を、貧乏カッパでお散歩です

しばらくして雨は上がって日が差してきました

ひめちゃん、2度目の朝散歩です

なぜか、ひたすら草を食べます。

体が春バージョンになるので、草を欲しているのかな

 

赤城山は、昨夜は雪だったね

ひめちゃんは、外のお部屋に帰って、日向ぼっこです

 

 

 

2月26日、日光例幣使街道・木崎宿の70番と71番を訪ねました。

 

新しい木崎宿の道しるべです。

始発・京都と、終点の日光の文字があります。

この道しるべは、地図の「宿」の文字上の交差点にあります。

 

記憶を辿って、71番・色地蔵に出ました。

左からの道が例幣使街道で、ここを曲がって手前に東に行きます。

 

茅葺きの屋根がいい雰囲気です。

本来の地蔵堂とかは、こんな雰囲気だったのでしょう。

お賽銭の投入口から失礼します。

合掌

 

説明板を確認です。

「木崎下町の三方の辻に、お立ちなされし石地蔵様は、男通ればニコニコ笑い、女通れば石持てなげる、これがヤー本当の、石地蔵様だがヤー。」

木崎音頭の歌詞は数種類ありますが、末尾には必ずこの部分が付いています。この一節に唄われている色地蔵様がこの石地蔵様です。~(中略)~江戸時代の木崎宿には飯売女がたくさんいて、彼女達は前借制年季奉公で遠出が制限されていたため、宿はずれの本地蔵様に参詣して心の安らぎを得たのです。こうして数多くの色街の女(飯売女)が訪れたことから、何時の間にか「色地蔵様」と呼ばれるようになり、木崎音頭にも唄われるようになったのです。

 

確かにここは三方の辻、三叉路です

 

 

隣の長命寺境内に、榧(カヤ)の木が見えます

何か鳥がいる

 

 

境内に失礼します。

カヤの木は、古墳と思われる小高い丘の上にあります。

階段の右には、椿が満開です

今だけの景色です。

合掌

 

 

さて、墳丘に登ってみましょう。

 

カヤの実が落ちています

今まで見た中で、一番大きいかな

 

双体道祖神の周りにも、たくさんのカヤの実です

今は利用しないのかな?

もったいない

 

カヤの木と五輪塔です。

 

それなりに太い根本です。

でも、大カヤというには、まだ小さいのかな

若いだけあって、毎年たくさんの実をならせているようです

 

おや、やっぱり木の上に何かいます

カメラではうまく捕らえられなかったけれど、尾が水色で長い鳥です。

オナガ

 

墳丘の後ろからの、カヤの木です。

古墳のシンボルとして植えられたのかな

 

このあたりには、古い石造物がまとめられています。

六地蔵さんの後ろのこの方、インパクトがあります。

どなたかな?

 

本堂前で合掌

 

右手の庫裏への道にはフエンスがあります。

今回も、御朱印は諦めましょう

 

『ぐんまのお寺 真言宗Ⅰ』(平成13 上毛新聞社)によれば、

寺伝によると延長三年(925)小野道風の開基、右大臣大僧都延弱の開山で創建された真言宗の寺である。その後、木崎宿の大火で総てを焼失した。そこで慶長三年(1598)に、元新田領勢田郡后之郷の地に良山法師が再興し、中興開山となった。郷内の大小の神社はすべて長命寺の支配下に置かれ、文和三年(1354)に建てられた貴先神社は別当職になっていた。この神社は称徳天皇を祭主としたので、長命寺の院号を称徳院という。

 

后(きさき)は木崎(きざき)の地名の元になったのですね

 

それでは、貴先神社にも寄っていきましょう

 

(つづく)

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右赤城2024

2024-02-17 19:53:24 | 日光例幣使街道

さほど寒くはないけれど、どんよりとした曇り空の朝です

ひめちゃんは、堀之内を西に出ます。

いつも気になるあの白い山が見えません

春めいて、あの山は霞んでしまうのかな?

 

寒さが緩んだせいか、やっとまた椿が咲き始めました。

確か黄色い椿・黄河だったかな

ひめちゃんちには珍しい八重の椿です。

一重もいいものです

クリスマスローズもいろいろ咲いて来ました。

古葉切をした方がいいかな

 

 

 

2月12日、県道142号線沿いの忠治茶屋に寄って、ついでに日光例幣使街道の右赤城(みぎあかぎ)地点を再訪です。

忠治茶屋は33の南あたり、右赤城は34の突き当たりです。

忠治茶屋でお持ち帰り用の焼いた焼きまんじゅうをゲットして、車に置いて、県道142号線を東に少し歩きます

 

右赤城⇒を曲がります。

細い道です。

でも、これが本来の日光例幣使街道の道幅なのでしょう。

車のすれ違いは無理です。

 

あれ、何処だったっけ

案内番があったはずだけど

 

ありました

この道では、行列は日光に向かって東に進むので、常に赤城山は左手に見えました。

柴宿から馬見塚の村外れにくると、道は西に向きが変わります。すると行列の右手に赤城山を望むようになりました。

ここが日光例幣使街道でただ一か所、右に赤城山が見える所で、例幣使や上方にも知れ渡った「右赤城」なのです。

右に赤城山が見えます

 

日光例幣使街道は、右赤城の先で左折します。

 

振り返って、右赤城です。

 

左折して進みます。

相変わらずに狭い。

 

左角に円柱の道しるべがあります。

ここを右折すると、まもなく栗庵似鳩の墓です。

さっきの右赤城の説明板では、

東日光道、右五りやう(五料)、左ほん志やう(本庄)と刻まれている

ためつすがめつ見て見るけれど、文字がよく見えません。

「左ほん志やう」だけ、はっきり見えます。

 

すぐ側の信号、島村渡船の表示があります。

利根川の「島村の渡し」の方角です。

 

振り返って、日光例幣使街道です。

梅の花の向こうに赤城山です。

この先が、日光例幣使街道でただ一か所、赤城山が右に見える右赤城なのです

 

 

忠治茶屋に戻り、すぐ東の「ほうとうばし(豊東橋)」で広瀬川を渡って帰ります。

白い繭のようなのは、子どもの森のまゆドームです。

後ろの山は、榛名山です。

 

橋を渡って、北に見える赤城山の麓に帰ります。

この道の先左手に、神社が見えます

勝山神社です。

寄ろうかとも思いましたけど、何人もの人がいます。

またの機会に

 

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時鳥我が身ばかりに降る雨か(織間本陣跡と八海山)

2024-02-16 19:57:23 | 日光例幣使街道

ひめちゃんは、堀之内を西に出ます。

穏やかな朝です。

今朝は字・塚越を歩きたいようです

冬になると白く見えるあの山も、少し雪解けしてるかな

 

ひめちゃんは、もうじき12才になります。

色々思うところがあるのでしょう。

短時間の内に、いろいろな表情を見せます。

犬は、人間が思う以上に、感情を持ってます

記憶力も思考力も演技力もあります

天気予報より春めいた1日になりました

 

 

 

2月8日、久しぶりに忠治茶屋の焼きまんじゅうが食べたいと出かけました

忠治茶屋は、日光例幣使街道・県道142号線沿いにあります。

旧境町経由、東から行きます。

 

例幣使街道・境宿の織間本陣を確認です

本陣の記憶は、県道142号線沿いのスーパー駐車場の隅にあります。

見事な松があったのですね

 

本陣は例幣使街道を上下する諸大名をはじめ、特に毎年四月京都より下向する例幣使や公卿門跡衆の休憩を主とした。

宿泊ではなく、休憩のための本陣だったのです

 

栗庵似鳩は雪の中で救われて、俳諧師冥利の生涯を送りました。

小林一茶は、織間本陣の主人・俳人の専車がいなかったために、その後も経済的に苦しい生活を送りました。

同じく、江戸を食い詰めて上州にやって来た俳諧師でも、何故かその後の運命はまったく違ったのです。

 

時鳥 我が身ばかりに 降る雨か (ほととぎす わがみばかりに ふるあめか )

 

一茶の嘆きが伝わってきます

 

 

県道142号線は、この先の信号を左折します。

竹石の渡し(たけしのわたし)の少し東は、県道の一本裏の細い道が例幣使街道です。

車のすれ違いも大変な細い道です

 

 

ここに八海山という、日光例幣使街道の一里塚ともいわれている史跡があります。

鳥居の額は、御嶽山です

 

隣は稲荷大明神です。

1礼です

 

説明板を確認です。

遠方まで行かなくとも信仰が出来るようにと、越後三山や木曽御嶽山の修験者の霊場を分祀した築山が築かれ八海山と呼ばれるようになりました。

その築山に松が植えられていることから例幣使道の一里塚出逢ったという説もありますが、正式な記録は無いため、真実は定かではありません。

 

そうなんだ

 

御嶽山は、急いで登ると危ないみたい

 

無理をせず下から合掌

 

 

さて、県道に戻って、忠治茶屋です。

結構、賑わっていました

おいしい焼きまんじゅうをげっとして、自宅をナビに入れて、違う道を帰りましょう

 

 

ナビ様の言うとおり進みます。

あれえ、双体道祖神の道しるべだって

 

急遽、何とか停車して、ダッシュで確認です。

民家の敷地のようですけど、失礼します

 

南・五里やう、西・いせさき

 

確かに、伊勢崎の市街地の中心は西の方です。

五里やうは、五料

「五料の渡し」は、南に行って、例幣使街道を西に行きます。

この道も、それなりの街道だったかな?

 

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三ッ橋伝説と栗庵似鳩の記憶

2024-02-15 16:27:15 | 日光例幣使街道

ひめちゃんは、堀之内の南西・塚越を歩いてきました。

塚越の塚は、庚申塚古墳です。

草も刈ってあるし、頂上へ登って見よう

りっぱな庚申塔です。

あれ、倒れてるのは、青面金剛です。

手も6本、2鶏3猿のフル装備の青面金剛です

庚申塔の下部に人名が見えます。

現在もこの辺にある名字がほとんどかな

そろそろ、降りましょうでふよ

アタチは歩きにくくはないけれど、おかあたんは気をつけてね

庚申塚古墳、庚申塔がいっぱいです。

石はどこから持ってきたんだろう

 

 

 

2月12日、日光例幣使街道の県道142号線を走ります。

31の三ッ橋伝説の地を探します。

日光例幣使街道沿いと言うことですけど、史跡としての説明板があったのは、道の北側です

 

まず説明板が目に付きます。

微妙に路上駐車できます

合掌

 

説明板を確認です。

世良田長楽寺の開山・栄朝禅師が通りかかって、経文を唱えてハシカの子を救ったのです。

栄朝禅師は、牛に乗ってやって来たのです。

世良田長楽寺は、この日光例幣使街道の先(だいぶ先ですけど)にあります。

 

 

少し東に、栄朝禅師が牛を打った松をさしたら根付いて、大きな松になったという牛打の松跡があるはずです。

案内番や説明板はありませんけど、群馬銀行・豊受支店の向かい側に、それらしき史跡がみえます

松の跡は見当たりません

碑が3基です。

 

向松庵創立二百年記念碑です。

一部は隠れてしまってます。

でも、大体は読み取れます。

寛政初期に牛打の松に向かって庵が建てられたのです。

創立者の二翁は栗庵似鳩(りつあんじきゅう)の門人だったのです

そしてその後、全国を訪ねたり俳歷を残したり、門人を育てたりしたのです。

ここにも、栗庵似鳩の記憶です

 

この碑は、よく見えません

「松の威容に・・・」の文字は見えます。

牛打の松は、威容を誇ったのです。

 

こちらは全く見えません

いずれにしても、この辺りは徘徊が盛んだったのです

そして栗庵似の存在も大きかったのです

 

ふと、文久2年生まれの実家の曾祖父が俳諧を楽しんでいたと聞いた事を思い出しました。

彼は長寿で、私が生まれた時はまだ存命でした。

ちょっとだけ接点のある曾祖父、もっと一緒に生きて欲しかった

 

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