続・黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

上野国山上・葛塚城堀之内に住んでます。ひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

不動明王に願いを(宮田不動尊ご開帳)

2024-01-30 15:18:05 | 群馬県・旧勢多郡

最近、ひめちゃんとタバサねーちゃんは、朝散歩の後おうちに入れてもらって朝ご飯です。

朝ご飯を済ませてしばらくすると、ひめちゃんは玄関で待ってます。

そこらをちい散歩して、外のお部屋(もちろん湯たんぽが入ってます)に帰ります。

ひめちゃんの足下の緑の草は、彼岸花です。

冬に緑の葉でエネルギーを蓄えて、秋まで深い眠りについているのです。

 

タバサねーちゃんは、朝ご飯の後、おうち犬で一眠りです。

目が覚めると、ちい散歩してお外のお部屋の戻ります。

タバサねーちゃんの服を探していますけど、着やすいのがありません。

首の所とか、背中がファスナーになっているのを探しています。

 

 

 

1月28日、宮田不動尊(渋川市赤城町、旧勢多郡赤城村)に向かいます。

大胡から県道34号線で行きます。

赤城の大鳥居を横目に通ります。

ここは小暮(こぐれ)、沼田街道・米野宿の東です。

 

樽の信号から北上します。

宮田不動尊・臨時の駐車場はいっぱいです

駐車場係のおじさんが、不動尊脇の駐車場が少し空いているよと教えてくれました

なんとか駐車出来ました

 

それにしてもすごい人出です

この間の静けさが嘘みたい。

 

 

みんな杖もなく、必死に登ります。

この間の到着地点まで登りました。

あれ、やっぱり通行止め

脇に、参拝者通路⇒です

階段を登らないで行けるんだ

 

 

遠くには榛名山、上越の山々が見えます。

参拝終わった人達は、付近の散策かな?

 

 

階段は登らなくていいけれど、長い列に並ばなくてはなりません

ひたすら待つしかありません。

 

 

しばらくして、やっと、参拝出来そうです

外では、「ご祈祷が始まります。参拝はお待ちください。バスの方は早く入ってください。」ですって

バスツアーが来てるのかな

右手には、ご祈祷を待つ人々です。

左の受付で、ロウソク代100円を志納してロウソクをいただききます。

なんとかたどり着いて、ロウソクに点火して立てて、お不動様に合掌

 

写真撮影禁止なので、渋川市教育委員会の不動明王立像案内の写真です。

当たり前だけど、このようなお姿でした

強く願いを込めて合掌

 

 

ご祈祷が始まりました

急いで退散です。

 

 

外に出ると、人々は隣の神社に詣でてます。

途中、古い石灯籠です。

500年前の石灯籠ですか

1礼です

 

 

宮田神社かな?

お賽銭を入れて2礼2拍1礼です。

 

 

御札の販売所に戻ります。

御朱印とお不動様の写真と版画と破魔矢を買いました。

  

慌ただしい参拝でした。

次回は、もう少しゆとりを持って参拝したいものです。

 

人々がまだまだ次々とやって来ます。

地域が守っている宮田不動です

地域力生きてます

 

見下ろす利根川の流れも、なんとなく優しそうです

 

先の不動明王立像の案内に寄れば、

墨書銘により、この不動明王立像は、建長3年(1251)掃部権助源朝臣氏義の発願により定調(朝)龍の仏師院隆・院快によって建立されたことが明らかになった。~(中略)~願主の掃部権助源朝臣氏義は、新田荘を立荘した源(新田)義重の子義俊が里見(現在の高崎市の一部)を領し里見を号したが、その曾孫が氏義である。

 

新田の記憶です

新田出身のひめちゃんちのおかあさんには、ぜひ訪れておくべき所でした

また来まーす

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国指定重要文化財・宮田不動尊

2024-01-29 15:29:49 | 群馬県・旧勢多郡

比較的暖かい朝です。

ひめちゃんは、諏訪神社の向こうの高台をぐんぐん進みます

 

突き当たりからの浅間山です。

 

南に下って、山上城に廻り込みます。

途中、濃ピンクの花を付けた木が見えます。

紅梅かな?

 

ひめちゃんは、今朝は山上城・三の丸に上がりません。

三の丸の南を通ります。

聞こえるのでふ

誰かが走ってるでふ

そういえば、さっき、三の丸を走ってる中学生の姿を遠くから確認しました。

 

常広寺を横目に帰ります。

うっすら雪化粧の赤城山が迫ってます。

常広寺の山号・赤城山に納得です

 

天神田を通って帰ります。

タバちゃん、起きたかな?

 

 

 

1月5日、沼田街道・米野(こめの)宿から溝呂木(みぞろぎ)宿に出ました。

このまま行くと、蜂蜜屋さんとの約束時間より、まだまだ早く着きます

 

左折して、樽(たる)の信号を登って行って見よう。

樽から、上越線・利根川添いの県道255号線を北上します。

しばらく行くと、イチゴ屋さんが何軒もあります

かなりの人出です

 

 

また少し行くと、宮田神社⇒です。

一緒に目立たなく、宮田不動尊⇒です

古すぎる案内版ですけど、宮田のお不動様・不動明王立像があります。

ええッ、ここだったんですか

もっともっと赤城の山奥だと思ってました

 

 

今日は静かで誰もいないでしょうけど、途中まで探検です

手すりもなく、古いままの登りづらい階段です。

 

2ヶ所、大きく(国指定)重要文化財石造不動明王立像の文字が見えます

誇り高き国指定重要文化財なのです

 

国指定重要文化財・山上多重塔を、5本の幟で国宝復帰を目指す人々に見せたいものです

国指定重要文化財は、決して卑下する必要などないのですよ

 

この先は通行禁止かな?

ひとまずここまでにしましょう

 

右手には、庚申塔などの石仏群です。

     

左手には鳥居です。

宮田神社です。

  

こちらの階段もかなりきつそう

 

1月28日は、宮田不動尊のご開帳で、直接拝めると言うことです

 

昨年は、よくないことが多すぎました

今年こそ、不動明王に悪霊退散・招福をお願いしましょう

28日に、来まーす

 

 

(つづく)

 

 

 

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沼田街道・米野宿

2024-01-28 14:38:00 | 沼田街道

極寒と言うほどではないけれど、寒い朝です。

ひめちゃんは、何故かどうしても南に行くと譲りません

今朝は夕方の短めコースのお散歩となりました

南無阿弥陀仏の文字塔があります。

下には多くの人の名があります。

近くに道標もあって、この道は、かつては多くの人が行き交う道だったのでしょう

赤城山は、一番東の小沼のあたりが雪が多く降るようです

 

後ろの畑は麦畑ではありません。

牧草用の草のようです

 

 

 

1月6日、旧赤城村の蜂蜜屋さんに出かけました。

先方の都合で、到着予定時間まで、時間がたっぷりです。

いつもの道ではなく、あちこち寄り道していこう

大胡から県道34号線を辿ります。

 

米野の信号に出ます。

ここは普通は直進するのですけど、今回は曲がって(右折して)みます。

曲がった道は、沼田街道、そして、ここは米野宿(こめのじゅく)です。

 

信号を避けて、ちょっと路上駐車で確認です。

この道は、沼田街道のメインの道だったのです

そして蜂蜜屋さんのある長井小川田も通っていたのです

 

少し先にはバス停です。

道標もあります

         東 大胡 三里七町十四間 

         小暮 三十四町五十間

         南  田口 十五町四十間

         前橋 二里十二町五十間

 

道の反対側には、「暗闇坂」ですって

この古い坂道は、暗闇坂といわれています。江戸時代、大胡町と米野村を結ぶ街道で、大胡街道といわれていました。

 

そうすると、この坂が大胡への道、本来の大胡街道ですね

米野十字路は、近年できた交差点と言うことになるのかな

 

説明板の後ろ(大胡街道沿い)に、なぜか水神宮です。

この先も気になるけど、路上駐車なので、また今度

 

少し行くと、大きなお地蔵様です

うまく駐車出来ずに、1枚だけのお姿です

 

 

家並みがなくなって、しばらく走ります。

あれ、群馬用水ですって

ひめちゃんちのあたりも、群馬用水のお世話になってます。

こんなに遠くから流れてくるんだ

榛名山(はるなさん)もよく見えます

遠くに雪を頂いた上越の山も見えます

豊かな水量です

さすが群馬用水です。

 

 

振り返ると赤城山です

見たことない姿です

 

 

道ばたに、石造物です。

大日如来の文字塔です。

寿永山照明院は、検索しても出てきません。

現在は存在しないようです

 

 

見なれない赤城山の姿を見ながら、沼田街道を北上します。

県道151号線が、沼田街道とかなりダブルのですね

 

 

途中で国道353号線に合流して、さらに北上します。

溝呂木宿に出ました

このまま進み、農産物直売所を過ぎてしばらく行くと、目立つ「長井小川田⇒」があります

 

 

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ロウバイの山上城とヤマユリの膳城

2024-01-26 19:48:48 | 群馬県・旧勢多郡

ひめちゃんは、堀之内を西に出て、諏訪神社の前を左折、山上城に廻り込みます。

 

堀切外の農道を歩いて、三の丸に登ります。

あれ、耳が立ってます

何かいるかな?

 

ロウバイの山上城、ロウバイが植わってるのは、ここ(三の丸)だけです。

中学生が一人、登校前のランニングしてます。

「おはよう

「おはようございます

 

ローラー滑り台の前で、何故か目をつむるひめちゃんです

中学生の男子は子どもでないので、子ども恐怖症のひめちゃんも落ち着いています

牛さんに情報収集です。

だれか来たかな?

 

今年のロウバイは、ちょっと元気がないみたい

この木が一番元気かな

 

太鼓橋を渡って帰ります。

最近、ちょっと元気がない山上城です

 

 

 

FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより2」で、現在『上州坪弓老談記』の暗闇沢(くらみざわ)の戦およびその後の膳城を確認中です。

やはり、現実の膳城も確認が必要です

1月24日、寒風の中、ちょっと行ってきました。

 

膳城趾公園の駐車場に駐車です。

膳城趾の一角にある粕川歴史資料館の脇を通ります。

あれ、歌碑です

初めて気づきました

作者についても、説明板があります。

須藤泰一郎さん、昭和初期の群馬県歌壇の重鎮ですか

そういえば、膳八幡神社に「山百合」の歌碑がありました

 

堀切に降りて、本丸跡に登ります。

粕川村時代のスタンプラリーの名残があります。

説明板を確認です。

  

暗闇沢(くらみざわ)の戦いとか、その後の小俣勢・由良勢の来襲とか、また、天正2年に羽生衆がやって来たこと等は、記載がありません。

本丸の後ろにある卍は、龍源寺ですね。

別城一郭と言われる山上城もすぐそこです。

山上城の山上さん、老談記にはほとんど出てきません

どうしてだろう

 

堀切後を歩いて戻ります。

イノシシが出るんだ

 

あれ、何か刈り残しの草があります

ユリです。

さっき山百合歌碑の作者・須藤泰一郎さんの歌碑がありました。

ヤマユリかな?

だとすると、心憎い演出です

 

膳城趾公園に戻ります。

寒風吹きすさぶこの日は、さすがに誰もいませんでした。

でも、ひめちゃん、やっぱり晴れて暖かい日に来ようね

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太平記の記憶・中野城跡(神光寺)の榧の木

2024-01-25 15:23:07 | 邑楽紀行

寒すぎる日が続いて、ひめちゃんとタバサねーちゃんは、今日も室内犬です

ひめちゃんは、赤柴の老犬・プーちゃんの前を通って、堀之内を北に出ます。

堀之内の西端を歩いて帰ります。

 

15歳半のタバサねーちゃん、余りの寒さに、小次郎パパの形見の服でお散歩です

ひめちゃんにも、七海ママの形見の服を着せようとしましたけど、噛みつかれそうになりました

 

服がよかったのかな

タバサねーちゃんは、尻尾も上がって、軽快にお散歩出来ました

 

 

 

 

谷中の如意輪観音は、中野藤内左衛門の持仏だと言うことです。

中野藤内左衛門の中野城跡の神光寺には、大きな榧(カヤ)がありました。

1月5日、数年ぶりに再訪です。

 

すぐ隣には幼稚園です。

浄土宗だったんだ。

 

駐車場から、大カヤが見えます

 

 

山門から入ります。

中野城跡の説明板もあります。

中野景春は、越前藤島で新田義貞地共に戦死したとあります。

 

とてもきれいになってます。

洗練されてしまった感じもします。

山門脇には、六地蔵堂です。

あったっけ

 

 

山門をくぐって、榧の木にこんにちは

お久しぶりです

すっかり安心してしまって、説明板を撮り忘れました

後日、出直して撮った説明板です

中野氏は新田の一族ですか

中野館の名残が、この大カヤですか

樹齢約770年ですって

ライトアップもしてるのかな

榧の実が落ちています。

この木は、雌木ですね

 

見上げて、榧の木です

なんとなく合掌

 

 

境内もちょっと散策です。

鐘楼堂の奥には、庫裏です。

「御朱印出るかな?」と行ってみましたけど、あまりに静かなので、静かに退散です

 

本堂前で合掌

左の石塔下に、開基・中野藤内左衛門景春の名前があります。

中野城主景春公は、越前足羽に於て延元元年(1338年)寅の七月七日、大将新田義貞公と共に討死、行年51才

千鈞の弩は鼪鼠のために機を発せず 景春公遺訓

鼪の文字はよく分かりません

鼪鼠(せいそ)だと、イタチのことです。

要するに、「足利尊氏に反旗を翻されて、実力が発揮できなかった。建武の新政が挫折したのが無念だ。」と言うことかな

 

太平記のすさまじい記憶です。

またそのうちにお邪魔します

 

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