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今日は何の日?

昔の今日は何があったのでしょうか?ちょっとのぞいてみましょう。

日本で初めてテレビ放送が行われる(1953/02/01)

1953-02-01 00:00:00 | 生活全般
1953/02/01

 この日、NHKがテレビ放送を開始しました。それは、日本で初めてのテレビ放送でした。放送を開始した当日は、午後2時から9時まで(途中2時間半の休憩有り)の放送で、内容は、ニュース、天気予報、映画、舞台中継などでした。また、当時は録画装置がまだなく、生放送かすでにフィルムがある映画や記録映像が中心でした。
 開始当時の受信契約件数900件弱でその多くは東京都内のものでした。また、半分あまりが自作のテレビ受像器による受信契約でした。
 当時は、当時テレビ受像器がとても高価だったため庶民には手が届かないものでした。そのため、テレビを見るために、テレビがある街頭や喫茶店、そば屋、その土地のお金持ちの家に集まったと言われています。
 現在は、二人以上の世帯には2台余りのテレビがあると言われています。この半世紀の間にテレビは、街に1台から家庭に1台、そして個人に1台へと普及してきたと言えるでしょう。また、放送を開始した当時は半分以上の受信契約が自作によるものだった、というのも時代を感じさせられます。現在、自分でテレビを作って見ている人はどのくらいいるでしょうか?

2005/01/29 作成 YK


都市ガスに臭いつけ開始(1952/12/21)

1952-12-21 11:34:50 | 生活全般
1952/12/21
都市ガスは,主に地底にあるガス田をボーリングして採取した天然ガスを主成分にしています。日本では主にインドネシア,マレーシア,オーストラリアなどから輸入しています。
気体の天然ガスを-162℃まで冷やし,液体の天然ガス(LNG)としてタンカーで輸送します。その時体積は気体の時の1/600にまで減るのです。日本まで運ばれた液化天然ガスはタンクで貯蔵されます。

その後,液化天然ガスに海水をかけて温度を上げ,気体の天然ガスに戻してパイプラインを通します。
このようにして各家庭に届けられるのですが,実は天然ガスには臭いがないのです。一酸化炭素なども含んでいませんから,即中毒という危険性は低いのですが,様々な問題が考えられます。
そこで,ガス漏れの事故や不完全燃焼の事故を防止するために,無臭の天然ガスに「臭い」をつけているのです。天然ガスは比重が空気よりも小さいため,上にあがる性質がありますから,爆発などの事故は少ないのですが,無臭だと気がつかない可能性が高いからです。
この年には,工業用をのぞいて全てのガスに臭いをつける事が義務づけられたのです。
臭い付けには微量のチオールなどが使われています。「良い香り」のものをつけても効果がありませんから,すぐに違和感を感じるような「くさい臭い」をつけているのです。
その効果は,ガスが空気中の1/1000の濃度になっただけでも感じられる程の臭いなのです。

ラジオドラマ「火星からの侵入」で全米が大パニック(1938/10/30)

1938-10-30 00:00:00 | 生活全般
1938/10/30

 1938年10月30日、アメリカのCBS放送は流していたオーケストラの演奏を突然中断し、緊急ニュースを流しました。その緊急ニュースの内容は「最新ニュースをお伝えします。午後8時50分、隕石と思われる閃光を放つ巨大な物体が、トレントンから22マイルのニュージャージー州グロバーズミル近郊の農場に落下しました」というものでした。やがて、その物体は隕石ではなく地球上にはない金属で作られている、物体の中から怪物が姿を出し街を襲っている、これは火星人の来襲だ、派遣された軍が全滅した、人々はただただ祈るばかりであるなどとの実況が続きました。

 実はこの放送はCBSがH.G.ウェルズの「宇宙戦争」をハロウインの余興として流したものでした。番組の初めに、これから「宇宙戦争」のラジオドラマを流すというアナウンスがありましたが、たくさんの人が本当の出来事と勘違いをして大パニックが起こりました。

 このラジオは少なくても全米で600万人が聞いていました。100万人以上の人が不安になったり、おびえたりしたそうです。実名のあがった地域では市民が猟銃を持って外に出たりして、発砲事件などもあり大騒ぎになりました。

 ラジオ局はこの事態を知り、途中で放送を中断したり、ニュースがドラマであることを伝えたりしました。放送中、4回も「宇宙戦争」のドラマを流していることがアナウンスされたのにもかかわらず、事態が収拾するまでかなりの時間がかかりました。この事件は、情報を鵜呑みにすると、このような大パニックが簡単に引き起こされてしまう例として、今でも社会心理学の研究材料になっています。

2005.10.10 作成 MK

エンパイアステートビル完成(1931/05/01)

1931-05-01 00:00:00 | 生活全般
1931/05/01

 アメリカのニューヨーク市のマンハッタンには、たくさんの超高層ビルが並んでいます。そのなかでも、最も高い超高層ビルはエンパイアステートビル(102階、381m)です。

 エンパイアステートビルは1930年3月17日に工事が始まり、1931年の5月1日に完成しました。わずか1年で建設された背景には、当時ニューヨークで世界一の高さを誇っていたクライスラービル(77階,319m)を抜いて世界一の座を奪う目的があったからです。

 しかし、1929年の株価暴騰を引き金とした世界恐慌のため、1940年代までは多くの空き室があり、当時の人たちは「エンプティ(空の)ステートビル」と皮肉ったそうです.1945年7月にアメリカ陸軍の爆撃機B-25が濃霧による視界不良のためビルの79階に激突する事故がありました。この事故で、ビルの壁は大きな損傷を受けましたが、ビルの構造そのものは影響ありませんでした。

 エンパイアステートビルは、世界貿易センタービル(110階,417m)が完成する1972年まで世界一高い超高層ビルとして君臨しました。その後、世界貿易センタービルも別のビルに世界一の座を譲りましたが、ニューヨークの摩天楼のなかでは、世界貿易センタービルが第1位、エンパイアステートビルが第2位の高さを誇っていました。世界貿易センタービルは2001年9月のアメリカ同時多発テロ事件で倒壊し、皮肉にもエンパイアステートビルがニューヨークで一番高いビルに返り咲く結果となったのです。

 ちなみに2006年5月現在で世界で最も高いビルは台湾の台北市にある地上101階建て高さ508mの台北国際金融センターです。なお、世界貿易センターの跡地にはビルが建設されることが決まっています。新しいビルは「フリーダム・タワー(自由の塔)」と名づけられ、完成すれば541メートルの高さになります。541メートルはアメリカが独立した年の1776年にちなんでいます。1776フィートは541メートル。2010年に完成予定で、世界一高いビルとなります。

2006/05/02 MK 作成


マウスを発明したエンゲルバート誕生(1925/01/30)

1925-01-30 00:00:00 | 生活全般
1925/01/30

 現在、コンピューターは、企業、家庭を問わず、幅広く入り込んでおり、日々生活で欠かせないものとなっていますが、現在のコンピューターの重要なシステムである、マウス、ワードプロセッサ、ウィンドウシステムを提案したアメリカのダグラス・エンゲルバートは、この日に生まれました。

 エンゲルバートは、大学で電子工学を学んでいましたが、第二次世界大戦中に学業を中断し海軍に入り、フィリピンでレーダーの技術者として働きました。大戦が終わった後、再び学業を再開し、電子工学で学士を得てNACA(NASAの前身)の電気技術者として働きました。

 NACAで働くうちに、彼はいずれコンピューターが発達し、将来の人々の生活に大きく寄与することになると予想し、コンピューターのあり方を真剣に考えるようになりました。その中で、レーダーの技術者としての経験から、様々な情報を一つの画面にどのように表示することができるかを考え、画面の前に座っている人々が情報の空間の間を泳ぐ様を思い描いていたと言われています。

 エンゲルバートの考えは、なかなか人々には理解されませんでしたが、スタンフォード大学に移った1960年代から、それまで思い描いてきたコンピューターの将来のあり方の理論的な根拠を明らかにし、実際に提案すべく研究を進めました。

 彼は、社会には複雑さと緊急性が急激に増えており、近い将来、これらがこれまでの私たちの組織や慣習に大きな変化を求めるとして、この変化を乗り越えるためには、人々の能力が高められなければならないと主張しました。
 そして彼は、この人々の能力とは、人が生まれながらに持っているものだけではなく、道具・メディア・言語・習慣・知識・技能などの様々なものを含むとして、コンピューターなどのデジタル技術を人々の能力を高めるために生かさなければならない、と説きました。

 エンゲルバートは、この様な考えに経ち、コンピューターのあり方を示しました。具体的には、人がコンピュータと真に対話するためには、コンピューターの情報空間の中で、人の動きを再現されなくてはならない。例えば人の手の動きが、コンピューターの情報空間の中で動きにうまく変換されなくてはならない。また、人々が自由自在に情報空間を駆けめぐり、必要に応じて「窓」をあけてその中身を詳しく見れることも大事だ、として、マウスやウィンドウシステムを提案したのです。

 エンゲルバートがこのような考え方を発表しても、当時のコンピューターの専門家はほとんど相手にしませんでした。しかし、アメリカの国防総省が強い関心を示し多額の資金を提供するなどの支援をしたおかげで、システムの試作が進みました。

 そして、1968年12月9日、試作されたシステムのデモンストレーションは、サンフランシスコで行われました。コンピューターのデータが主にパンチカードや紙テープで行われていた当時、マウスを操作し、画面に表示されるたくさんのウィンドウを見ながら、コンピューターを操作し、ネットワークでつながれたコンピューター同士が通信し合う様は、人々に極めて強い印象を与えました。

 その後、マウスとウィンドウシステムは、複写機の製造メーカーであるゼロックス社のパロアルト研究所で実用化に向けての研究が進められました。そして、パロアルト研究所から移った技術者らの手によって、アップルコンピューター社から販売されたパーソナルコンピューターであるMacintoshに導入され、幅広い人々が使えるようになりました。現在、これらの技術は、コンピューターの情報の入出力の方法として最もポピュラーなものとなっていると言えるでしょう。

 エンゲルバートのデモンストレーションから30年余りが過ぎましたが、近年コンピューターは日常生活に極めて急速に溶け込みました。その大きな要因は、当時エンゲルバートが提案した、人とコンピューターを密接に結びつけるこれらのシステムにあったと言えるでしょう。

 ところで、マウスの動かす距離の単位が何か、知っていますか?
 マウスの動かす距離の単位には「ミッキー」が使われています。
 1ミッキーとは、1/100インチ(=0.254mm)マウスを動かすことと定められています。
 そして、実際のコンピューターのプログラムの製作に当たっては、画面上でカーソルを1ドット動かすためにマウスを何ミッキー動かさなければならないかを、そのプログラムで定めることによって、使うマウスの感度を決めています。
 「ミッキー」という単位は、マイクロソフト社でマウスの開発に取り組んだクリス・ピーターズというプログラマーが命名しました。この命名は、ミッキーマウスにかけたジョークと言われています。

2005/12/28 作成 YK
2006/01/02 修正 YK

作家 安部公房 生誕(1924/03/07)

1924-03-07 00:00:00 | 生活全般
1924/03/07

 日本を代表する現代文学の作家であり、劇作家、演出家、脚本家でもあった安部公房は、この日生まれました。

 安部氏は、作品から日本人固有な情念を徹底的に排除し、言葉を普遍的な道具として扱い論理的に組み立てていく手法で、様々な小説を残しました。このため、代表作の「砂の女」を初めとしたこれらの作品は多くの言葉に翻訳され、世界中で幅広く読まれています。
 安部氏の作品で科学に関連するものとしては、経営者と労働者の関係を科学技術との関わりから鋭く風刺した「R62号の発明」や未来を予測できる機械を取り上げ、その機械によって予測された未来は、必ずしも予測した人間にとって望ましいとは限らないことを記した「第四間氷期」などがあります。
 また、エッセイ集の「死に急ぐ鯨たち」でも現代科学の進展に対する危惧や本能と言語の関係が安部氏独自の視点から語られています。

 安部氏は、日本でワードプロセッサ(ワープロ)が普及し始めたころから、執筆の一連の作業をワープロで行っていた作家でした。安部氏は上に挙げたエッセイで、ワードプロセッサを執筆に用いることは、本質的には手で書くことと変わらないが、手書きに比べて校正作業が簡単で集中してきめの細かい作業ができることや、最初からゲラ刷りで読めることを利点としてあげています。しかし一方で、書き手の文章の傾向がよりいっそう強調され、自分の文章におぼれる人はますますおぼれるとも指摘しています。
 パソコンのワープロソフトで文章を書くことが当たり前になり、文章を書くことに手をつけやすくなったように思えますが、みなさんは安部氏の指摘をどのように受け止めるでしょうか。

※本文中に挙げた作品はいずれも新潮文庫に収められています。

2006/03/06 作成 YK
 

警察犬が導入される(1912/12/01)

1912-12-01 00:00:30 | 生活全般
1912/12/01

現在様々な形で人間の活動をサポートする「イヌ」が活躍しています。
そのうち警察犬として活躍しているイヌが初めて導入されたのは,1912年の今日です。

1896にはドイツが犯人の捜査のために警察犬を利用し始めていました。
日本では,1912年にイギリスから2頭の警察犬を購入して犯罪捜査活動に活用する事になりました。専用に訓練係もおかれる事になったのです。しかし,このご時世でしたので,本当に優秀なイヌは軍用犬として活躍させられる事が多かったようです。
1945年には戦争の激化に合わせ,警察犬の使用は一時完全に中止になってしまいました。

終戦を迎え復興の時期になりますが,それに合わせて凶悪な犯罪も多発し,再び警察犬活用の機運が盛り上がりました。
1952年にはシェパード12頭と指導士を委嘱。56年には警察庁の鑑識課で警察犬の訓練を開始したのです。

警察犬には様々な資質が求められます。
現在は人に対して忠実で落ち着きがある以下の7種類が警察犬として活用されています。
シェパード/ドーベルマン/エアデールテリア/コリー/ボクサー/ラブラドールレトリバー/ゴールデンレトリバーです。

警察が直接管理している直轄犬と,一般人が飼育訓練をして嘱託警察犬審査会の審査に合格し,事件の時だけ出動要請をされる嘱託犬がいますが,現在は1:10で嘱託犬の方が多くなっています。

いずれにしても人の4000~6000倍と言われる犬の嗅覚を巧みに利用するこのシステムはすばらしいのですが,そんな犯罪が起こらない世の中をつくれればその方が良いに決まっていますよね。

2005/10/29 HA作成

日本で初めて電気事業法が公布される(1911/03/30)

1911-03-30 00:00:00 | 生活全般
1911/03/30

 私たちの日々の生活や産業活動で電気は欠かすことができないものです。電気を起こして家庭や工場、事務所などに送るのは、電力会社の仕事ですが、電気を安全に安定して発電して送るために、法律でいろいろな約束事が決められています。その基本となっている法律は、1911年のこの日に、日本で初めて公布されました。

 1886年に東京電灯会社(現在の東京電力の前進)が日本で初めての電力会社として設立されてから、東京周辺と大阪周辺を中心に電力会社が設立され、電気の供給が始まりました。当初の電気の利用先は、電灯が中心でしたが、その後、日露戦争が始まる頃には、電車に使われたり、農業機械に使われたりと、急速に電気の需要が増えてきました。あまりに急速に需要が増えたために、電気を盗むという事件が起こり、民法で「電気は私物とみなす」という規定を新たに設けたほどでした。

 すでに国は、安全に電気を供給するための規則を定めていましたが、さらに、より積極的に電気の供給を増やして需要に応えるために、電気事業法を制定して電力会社を優遇し新たな電力会社の設立を促したのです。

 その結果、全国に電力会社が設立され、電気の供給量も大幅に増えましたが、今度は逆に電気がだぶつき気味になってしまい、当時の第一次世界大戦後の不況も相まって、倒産する電力会社が相次ぎました。このため、小さな電力会社は統合され、全国5社の体制になりました。

 その後、日中戦争に入るころには、戦争を進めるために電気は重要だったために、国が一元的に電力を管理する体制となりました。そして第二次世界大戦が終わってからは、全国を9つの地域(沖縄を除く)に分けてそれぞれ一つの電力会社が電力を供給するしくみとなって、現在に至っています。

 第二次世界大戦後は、1つの地域に1つの電力会社が独占して電力を供給するしくみが長く続きました。しかし、競争原理が働かず他の国に比べて電気代が高いという批判が強まったことから、たくさん電気を使用する事業者は、電気を買う電力会社を選べるしくみに変わりました(電力自由化)。一方、アメリカのカリフォルニアの事例に見られるように、電力自由化があまり進みすぎれば、設備の整備にお金をかけられずに安定供給ができなくなるような事態も起きています。このため、安定した電気の供給と電力自由化をどのようにバランスよく実現していくかが課題と言えます。

 そのうち家庭でも、こっちの電力会社とあっちの電力会社のどちらから電気を買ったらお得かな、というような選択ができるようになるかもしれません。

2006/03/29 作成 YK

日本で初めて電気事業法が公布される(1911/03/30)

1911-03-30 00:00:00 | 生活全般
1911/03/30

 私たちの日々の生活や産業活動で電気は欠かすことができないものです。電気を起こして家庭や工場、事務所などに送るのは、電力会社の仕事ですが、電気を安全に安定して発電して送るために、法律でいろいろな約束事が決められています。その基本となっている法律は、1911年のこの日に、日本で初めて公布されました。

 1886年に東京電灯会社(現在の東京電力の前進)が日本で初めての電力会社として設立されてから、東京周辺と大阪周辺を中心に電力会社が設立され、電気の供給が始まりました。当初の電気の利用先は、電灯が中心でしたが、その後、日露戦争が始まる頃には、電車に使われたり、農業機械に使われたりと、急速に電気の需要が増えてきました。あまりに急速に需要が増えたために、電気を盗むという事件が起こり、民法で「電気は私物とみなす」という規定を新たに設けたほどでした。

 すでに国は、安全に電気を供給するための規則を定めていましたが、さらに、より積極的に電気の供給を増やして需要に応えるために、電気事業法を制定して電力会社を優遇し新たな電力会社の設立を促したのです。

 その結果、全国に電力会社が設立され、電気の供給量も大幅に増えましたが、今度は逆に電気がだぶつき気味になってしまい、当時の第一次世界大戦後の不況も相まって、倒産する電力会社が相次ぎました。このため、小さな電力会社は統合され、全国5社の体制になりました。

 その後、日中戦争に入るころには、戦争を進めるために電気は重要だったために、国が一元的に電力を管理する体制となりました。そして第二次世界大戦が終わってからは、全国を9つの地域(沖縄を除く)に分けてそれぞれ一つの電力会社が電力を供給するしくみとなって、現在に至っています。

 第二次世界大戦後は、1つの地域に1つの電力会社が独占して電力を供給するしくみが長く続きました。しかし、競争原理が働かず他の国に比べて電気代が高いという批判が強まったことから、たくさん電気を使用する事業者は、電気を買う電力会社を選べるしくみに変わりました(電力自由化)。一方、アメリカのカリフォルニアの事例に見られるように、電力自由化があまり進みすぎれば、設備の整備にお金をかけられずに安定供給ができなくなるような事態も起きています。このため、安定した電気の供給と電力自由化をどのようにバランスよく実現していくかが課題と言えます。

 そのうち家庭でも、こっちの電力会社とあっちの電力会社のどちらから電気を買ったらお得かな、というような選択ができるようになるかもしれません。

2006/03/29 作成 YK

ウイーンの新聞「レントゲン、X線発見」を報道(1896/01/05)

1896-01-05 00:00:00 | 生活全般
1896/01/05

 病院にかかると、骨が折れたり内臓に悪い部分がないかどうかを調べるために、レントゲン写真を撮られることがあります。撮影されたレントゲン写真を医師に見せられて、自分の骨や内臓を見ながら、不思議な気分になったり興味深く感じた方も多いと思います。

 このレントゲン写真という名は、撮影に用いるX線を発見したドイツの物理学者、ヴィルヘルム・コンラート・レントゲン氏の名前から付けられたものです。

 1896年のこの日、ウイーンの日刊新聞Die Presseは、レントゲン氏がX線を発見したことを大きく報道しました。

 ドイツのヴュルツブルグ大学の物理学の教授だったレントゲン氏は、1895年11月の初め頃にX線を発見したと言われています。
 当時レントゲン氏は、陰極線の研究をし始めたところでした。ある日彼は、クルックス管を黒い紙でしっかりと包んで、陰極線を発生させる実験を行っていました。その時彼は、目に見える光が漏れていないはずなのに、実験室に置いてあった蛍光物質(シアン化白金バリウム)が光っていたことに気づいたのです。これがX線発見のきっかけでした。

 レントゲン氏は、蛍光物質を光らせているものがこれまでに知られていなかった何かであるに違いない、と直感し、これをX線と名付けました。そして、実験に没頭しその性質を調べ、発見からわずか1ヶ月余り後の12月28日に、成果をまとめた論文を学会に提出しました。
 その論文の中には、蛍光物質を塗った厚紙の前に手をかざし、X線をあてると、厚紙に手の骨が透けて見えるという事実が記され、実際に撮影された写真が載せられました。これが現在のレントゲン写真の始まりです。
 また、彼は、X線を用いて様々なものを撮影しましたが、その中には、指輪を付けた妻の手を撮影したものもありました。

 まとめた論文が学会誌で公表されたのは、翌年1月に入ってからと言われていますが、レントゲン氏は当時、まとめた論文にX線を撮影した妻の手の写真を添え、何人かの研究者にも送っていました。送られた論文が一つが、ウィーンの日刊新聞の編集長の目にとまり、論文をまとめてから8日後の1896年1月5日に、その内容が新聞紙上で大きく報道されたのです。

 この記事の反響は大きく、その内容は瞬く間に欧米各地に知れ渡りました。その時点で、X線の正体が何であるかは明らかではありませんでしたが、体の中を切らずに見ることができるという技術は、人々を強く惹きつけました。そして、早速レントゲンの実験の追試が世界中で行われ、医療現場で活用されるようになったのです。新聞記事の翌月までに世界で行われた追試の数は、明らかなものだけで40を超えると言われています。
 当時、海外で記された書物が何ヶ月もかけて船で運ばれていた日本でも、その年の2月の終わりにはその内容が伝わったと言われています。

 レントゲン氏は、この功績で1901年、最初のノーベル物理学賞を受賞しました。しかし、科学の発展はすべての人に寄与すべきであると考えたレントゲンは、X線に関し、特許などで個人的に経済的利益を得ようとはしませんでした。そして、1923年、第1次世界大戦敗戦後のドイツに吹き荒れた経済不況の中、わずかな財産も残すことなくこの世を去りました。

 その後、体の中を調べるための医療機器は、CTスキャン、MRIへと著しく進展しましたが、これらの技術はレントゲン氏のX線写真の技術を応用して生まれたものです。
 また、彼が行ったX線を直接見たい場所にあて写真を撮影する技術は、簡単に撮影でき直ちに結果を得ることができることから、現在も一線の医療現場で幅広く活用されています。

2005/12/28 作成 YK