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今日は何の日?

昔の今日は何があったのでしょうか?ちょっとのぞいてみましょう。

誕生日:湯川秀樹(1907/01/23)

1907-01-23 02:11:09 | 誕生日
 原子の構造は、プラスの電気を帯びた原子核の周りをマイナスの電気を持った電子が回っているというふうになっています。そして原子核の中にはプラスの電荷を持つ陽子と電荷を持たない中性子がつまっています。そうなるとプラスの電荷どうしが反発しあってバラバラになりそうです。しかし実際にはそうはなっていません。このことに湯川秀樹は疑問を持ち、それを説明する理論をつくりました。それは陽子と中性子とをつないでいる力(核力)があり、その力を伝える粒子が存在するというものでした。その粒子は陽子の質量と電子の質量の中間程度の質量を持つと考えられたため、彼は「中間子」と名付けました。この「中間子理論」の論文をはじめて発表したのは彼が28歳のとき(1934年)でした。
 この理論は発表当初すぐには受け入れられませんでしたが、1947年、湯川秀樹の予言した中間子が実験によって発見され、彼の理論が正しかったことが証明されました。これを受けて1949年にノーベル物理学賞が授与されました。日本人としてはじめてノーベル賞を受賞したのでした。
 湯川秀樹はその他にも原子を構成する素粒子に関する研究を行いました。また、アインシュタインらとともに反核・平和運動にも積極的に参加しました。

2005.12.23 作成 KT

ニールス・ボーア誕生(1885/10/07)

1885-10-07 00:00:00 | 誕生日
1885/10/07

量子力学の形成に主導的な役割を担ったことで有名な物理学者ニールス・ボーアは、1885年10月7日、デンマークのコペンハーゲンに生まれました。

+の電気を持った原子核を中心として、そのまわりに-の電気を持った電子が回転しているという、教科書でおなじみの原子のモデルは、ラザーフォード(イギリス:1871~1937)が発表したもの(有核原子模型)です。しかしこれは、原子の安定性やスペクトルを説明することができませんでした。ボーアはラザーフォードのもとで研究し、ラザーフォードの考えに従いながら、さらに新しい仮説を付加することによって、原子の構造を統一的に説明できる理論を1913年に発表しました。それは、原子は飛び飛びの値のエネルギーを持った定常状態のみで存在でき、原子が光を放出・吸収するのは、それらの状態のうち2つの状態間をジャンプするときであるという理論で、これを「ボーアの量子論」と呼んでいます。これによって、水素の光学スペクトルをみごとに説明したのでした。

また、彼は1922年に周期律の理論を発表し、「原子の構造とその放射に関する研究」でノーベル物理学賞を受賞しました。
1930年代に入って、核反応に関心をもった彼は、1935年に原子核反応における複合核を考え、1936年に原子核の液滴模型を提唱しました。

第2次世界大戦下では、デンマークがナチスに占領されるとスウェーデンに脱出、イギリス・アメリカと渡り、マンハッタン計画に協力しています。彼は戦後、自らの体験や人間が核兵器を手にしてしまったという現状を踏まえて、この新たに発見されたエネルギーの平和利用の主導者になりました。1950年、彼は米政府に送った書簡集を出版し、その中で核兵器のない世界を主張しています。

彼は1952年、スイスのジュネーブにあるヨーロッパ連合原子核研究期間(CERN)の創立に助力し、北欧理論原子物理学研究所(ノルディタ)の創立も助け、1957年には、世界で最初の原子力平和利用賞を受賞しています。

2005.10.4 作成 KS

アルベルト・アインシュタイン誕生(1879/03/14)

1879-03-14 00:00:00 | 誕生日
1879/03/14

相対性理論で有名なアルベルト・アインシュタインは、1879年3月14日、ドイツの南部ウルム市でユダヤ人家庭に生まれました。
幼い頃は喋りはじめるのが遅かったので、心配した両親は医者に相談に行ったそうです。小学校高学年になっても話し方は流暢ではなく、「なろまな奴」と呼ばれ、仲間はずれにされていました。
学校にも馴染めず、落ちこぼれだった彼でしたが、科学への目覚めは早熟でした。5歳の時、父にもらった羅針盤の針が、見えない力によっていつも同じ方向を指していることを不思議に思い、これが自然界のしくみに興味を持つきっかけとなったのです。
両親のイタリア移住のため高校を中退した彼は、アーラウ州立学校で大学入学資格を習得しスイスのチューリッヒ工科大学に入学しました。権威主義者の教授とは合わず、ここでも彼は異端児で、卒業後も良い就職はありませんでした。同級生の世話でスイスの特許局に就職し、ここで彼はその能力を開花させたのです。

1905年、26歳で彼は量子論、相対性理論、ブラウン運動、E=MC2に関する大論文を矢継ぎ早に発表しました。従来の物理学の常識に反する相対性理論は、すぐには受け入れられませんでしたが、彼はほかの論文で注目を浴び、各地の大学から教授として招かれるようになりました。
1916年には一般相対性理論を発表し、この理論は1919年の皆既日食でその理論が証明され、物理学理論として認められるようになりました。1921年、彼はノーベル物理学賞を受賞し、名実共に科学者の頂点に立ったのです。

1955年4月18日、彼は腹部の動脈瘤の破裂で76年の生涯を閉じました。
偉大な論文を発表した1905年は「奇跡の年」と呼ばれ、2005年はその100周年にあたり、アインシュタイン没後50周年でもあります。
国連総会では2005年を「物理の国際年」とし、世界各地で「世界物理年」の行事が繰り広げられました。
この100年間の現代物理学の飛躍的な進歩は、アインシュタインの奇跡の年から始まりました。彼は晩年平和運動にも力を注ぎ、20世紀を代表する人物といっても過言ではないでしょう。

2006.03.05 作成 KS

フリッツ・ハーバー誕生(1868/12/09)

1868-12-09 00:00:00 | 誕生日
1868/12/09

20世紀の初め、世界の窒素肥料の3分の2は、チリ硝石からつくられていました。イギリスの科学者クルックスは、「チリ硝石が枯渇すると、食糧不足の時代が来る。それを解決するには空気中の窒素からアンモニアをつくるべきだ。」と説き、多くの研究者が空気中の窒素の固定の研究を試みました。
フリッツ・ハーバーは、ハーバー・ボッシュ法で知られるアンモニアの合成法を開発し、ノーベル化学賞を受賞したドイツの化学者です。

ハーバーは1868年12月9日、プレスウラ(現、ポーランド)で生まれました。出産時に母を失いましたが、父は薬品と染料を扱う裕福な商人でした。
ベルリン大学でブンゼンの化学の講義を受け、軍務に服した後、シャルロッテ工科大学で有機化学を学び、23歳で博士として卒業しました。その後、数々の大学で研究を積み、1894年、カールスルーエ工科大学の燃料化学科の助手となりました。ここで彼は研究者としての黄金時代を迎え、電気化学に関する名著を出版し、世界の化学と技術のリーダーとなりました。

1904年、彼は気体反応の研究からアンモニア合成の研究へと向かい、窒素と水素からアンモニアを生成する気体反応の平衡定数を測定しました。この平衡アンモニア濃度は、圧力が高いほど大きいことがわかり、1908年には200気圧での実験を始めました。触媒にはオスミウムがよいこともわかり、アンモニア合成工業実現の見通しがついたのでした。
1909年には、カイザー・ヴィルヘルム物理化学・電気化学研究所の所長になりますが、その矢先に第一次世界大戦が勃発しました。

ハーバーの研究所は進んで国家の戦争遂行に協力し、硝酸や爆薬をつくりました。また、彼は戦争を早く終結させられるという考えのもと毒ガス戦を主導し、研究所は全面的に毒ガスの開発に関わっていきました。妻は夫が毒ガス戦に関わることに強く反対し自殺、そして敗戦に際しての虚脱感は大きく、心身ともに消耗し、健康をも害してしまいました。

1933年4月、ナチスが政権を取ると、ユダヤ人は公務員から排除され、ハーバーは公的な地位と、研究・行政活動の全てを失うことになりました。その年の初夏、亡命の旅に出て一旦はイギリスのケンブリッジに滞在しましたが、パレスチナから招きを受け、その途次、心臓発作によりスイスのバーゼルで亡くなりました。享年65歳、1934年1月29日のことでした。

2005.12.3 作成 KS

キュリー夫人誕生(1867/11/07)

1867-11-07 00:00:00 | 誕生日
1867/11/07

「キュリー夫人」の名で通っているマリー・キュリーは、当時ロシアの支配下にあったポーランドのワルシャワに生まれました。

彼女は優秀な成績でパリのソルボンヌ大学を卒業後、パリ物理学校の実験主任だったピエール・キュリーと結婚します。ウラン鉱石から目に見えない光が出ていることから、二人は共同して新しい放射性元素を発見し、その元素は祖国ポーランドにちなんで「ポロニウム」と名付けられました。
その後二人は「ラジウム」を発見し、その功績が讃えられて二人がノーベル物理学賞を受賞したのは1903年のことです。

夫ピエールは不幸にも1906年交通事故で亡くなりますが、彼女は晩年、死んだ夫のあとを継いでパリ大学ラジウム研究所キュリー実験室長、そしてパリ大学最初の女性教授となり、ノーベル化学賞を受賞します。

当時の科学者は、放射性物質の危険性を知らずに無防備で実験をしていたため、彼女は放射線障害による骨髄性白血病で1934年7月4日に亡くなりました。

キュリー夫妻はラジウムの製造法に関する権利を高額で売る機会がありながら、それを拒んでいたといいます。ラジウムは病気の治療に使うもので、病人の足元につけこむことなどできないと言ったそうです。

2005.10.4 作成 KS

ロベルト・コッホ誕生(1843/12/11)

1843-12-11 00:00:00 | 誕生日
1843/12/11

郵便物を使った炭疽菌テロが数年前に騒がれたのは、記憶に新しいことです。
炭疽という病気の病原体が細菌であることを発見したのはロベルト・コッホで、1843年12月11日ドイツに生まれました。

ロベルト・コッホはドイツの鉱山町クラウスターに、鉱山技師の子として生まれました。19歳でゲッチンゲン大学に入学、医学の道に進み、開業医となりました。この頃、フランスのルイ・パスツールの微生物の発見に刺激を受け、28歳の誕生日に妻から送られた顕微鏡をいつも覗いていたコッホは、当時家畜を襲っていた炭疽病の研究に取り組みました。炭疽病で死んだヒツジから採取した血液を観察すると、その中に小さな棒のようなものがいるのを発見しました。コッホはこの棒のようなものをネズミに接種したり、独自のアイデアで繁殖させることに成功し、この菌が炭疽病の原因であることを証明しました。この発見は世界中を驚かせ、コッホの名が知られるようになったのは、1836年、彼が33歳の時でした。

その後ベルリン国立保健庁の研究室主任となり、研究に専念できるようになりました。
1882年には、結核菌を発見。結核に冒された臓器を、牛の血液を寒天で固めたものの上に塗り、体温と同じ温度で温めて長い間観察し、繁殖させました。3月24日は、この発見を記念して、世界結核デーに制定されています。

1883年には、インドでコレラ菌を発見。1891年には、コッホのための伝染病研究所が設立され、彼のもとに若い研究者が集まりました。その中には、破傷風菌を純粋培養し、ペスト菌を発見した北里柴三郎もいました。

これら数々の業績に対して、コッホは1905年に、ノーベル生理学医学賞を受賞しました。
今日広く行われている寒天培養法や染色法は、コッホが編み出した方法です。パスツールと並んで「近代細菌学の開祖」といわれるコッホは、医学の発展に大いに貢献した一人です。

2005.11.21 作成 KS

元素の周期律を発見したメンデレーエフ誕生(1834/01/27)

1834-01-27 00:00:00 | 誕生日
1834/01/27

 元素の間の性質の規則性(周期律)を見出し、現在の周期表のもとになるものを提案した、ロシアの化学者ドミトリ・メンデレーエフは、この日に生まれました。

 あらゆる物質は、元素で形作られています。例えば、水(H2O)という物質は、水素(H)と酸素(O)という二つの元素でできています。
 そして、元素はその原子量(水素であれば1、酸素であれば16)などをもの差しにして、似た性質をもつ元素どうしでグループ分けすることができます。それを表にしたものが元素の周期表であり、元素の性質を知る上での大きな手がかりとなっています。

 19世紀半ばまでに、既に様々な元素が見つかっていましたが、それらを書き表す方法や重さなどを比較する考え方は、化学者によって異なっており、決まったルールはありませんでした。
 しかし、1860年に初めて開かれた国際化学者会議で、イタリアの化学者カニッツァロが、現在用いられている原子量の算出方法を初めて提案しました。この考え方を用いることで、異なる元素について、一定のルールで算出した原子量を用いることで比較することができるようになりました。
 この会議には、当時西ヨーロッパに留学していたメンデレーエフも出席していました、カニッツァロの考え方は、メンデレーエフにとって大きな影響を与えました。

 メンデレーエフは留学から戻った後、ペテルブルク大学で化学の教授として学生に化学の基礎についての講義をしなくてはならなくなりました。しかし、当時出版されていた教科書の内容では、自分が教えようとする内容に足るものではないと感じていました。
 このため、メンデレーエフは、自ら化学の教科書を記そうとしました。そのことは、カニッツァロの提案を初めとして、現在の化学の基礎となる様々なことが明らかになっている時期でもあり、そのような仕事は時代の趨勢でもありました。

 教科書を書くに当たって、メンデレーエフは、元素の分類に目を付け、類似した性質の元素のグループをつくり、それぞれのグループについての性質を説明していこうと考えました。留学から戻った時点で、すでに世界では60余りの元素が発見されており、それらが性質が似ていることを根拠にグループ分けされている研究成果がありましたが、彼は、さらにその分類の考え方を突き詰めていこうとしました。

 メンデレーエフは、元素の分類の基準として、「原子価」という考え方を用いました。
「原子価」とは、元素1原子が直接または間接に水素原子(H)何個と化合しうるかを表す数です。例えば、酸素(O)であれば、水素原子(H)2個と化合して水(H2O)をつくるので、原子価は2となります。そして、原子価が1のもの(水素など)、原子価が2のもの(酸素など)、原子価が3のもの(窒素など)、原子価が4のもの(酸素など)・・と元素を分類しながら教科書を書いていきました。
 そして、教科書を書いていくうちに、彼は二つの事実に気がつきました。

 一つは、元素は原子量の順に並べると明らかにその性質ごとの周期性を表すということでした。
 具体的には、当時明らかになっていた元素を原子量が小さいものから大きいものへと並べると、
 H,Li,Be,B,C,N,O,F,Na,Mg,Al,Si,P,S,Cl,K・・・
 となります。
 また、
 原子価が1である、Li,Na,K
 原子価が2である、Be,Mg
 原子価が3である、B,Al,
 原子価が4である、C,Si,
 などが、似た性質持っているグループですが、これらを先ほどの原子量順の元素記号に対応させてみると、
 元素記号  H,Li,Be,B,C,N,O,F,Na,Mg,Al,Si,P,S,Cl,K・・
 原子価   //1/2/3/4//////1//2/3/4//////1・・
 となり、周期性があるというわけです。

 もう一つは、科学的特性の類似する元素はほぼ同じ原子量であるか、原子量が規則的に増加するということでした。
 また、例えば、先の原子価が1のグループの元素の原子量は、
 Li=7 Na=23 K=39となっており、
 Liの原子量に16を足すとNaの原子量23に
 Naの原子量に16を足すとNaの原子量39になっており、規則的に増加しているわけです。

 メンデレーエフは、これらの仮説を1869年3月にロシア化学学会で発表しました。
 そして、さらに研究を進め、1871年までに現在の周期表のもとになる表を作成しました。また、その表の中で空白となっている部分についても、そこに対応する元素があることと、その元素の原子量、融点などの数値を予言しました。その後、その予言の多くが正しいことが明らかにされ、その周期表の考え方が有効であることが立証されました。

 メンデレーエフは、化学者としての業績もさることながら、当時の著名な画家や作家とも交友を持ち、ロシア政府の工業や経済のブレーンとしても活動するなど、幅広い活躍をしました。

2005/12/28 作成 YK

ジュール・ヴェルヌ誕生(1828/02/08)

1828-02-08 00:39:59 | 誕生日
ジュール・ヴェルヌ(Jules Verne)はイギリスのH・G・ウェルズとともにSFの父と呼ばれています。月世界旅行や地底探検、海底二万マイル、80日間世界一周、十五少年漂流記など誰もが知っている人気小説を世に送り出しました。
月世界旅行は人類が月に行くはるか前に書かれた話ですが、全く古さを感じさせない設定と描写はその後訪れる宇宙開発の時代を予言するものでした。また、海底二万マイルに登場する最新鋭潜水艦ノーチラス号の名前をもとにアメリカの原子力潜水艦ノーチラス号が命名されたことはあまりにも有名です。多くの科学者が彼の小説を読んで影響を受けました。
ヴェルヌは1828年のこの日フランスのブルターニュ地方にあるナントで生まれました。当時公益が盛んだったこの町で船乗り達の話を聞いて育ったことがヴェルヌの冒険心や想像力の原点だと言われています。また、弁護士であった父の勧めで始めたパリでの生活中に出会ったアレクサンドロ・デュマ(三銃士で有名)の影響で物書きを志し、推理小説で有名なエドガー・アラン・ポーが始めた科学的表現技法に興味を持つようになったそうです。論理的な展開と多くの科学的な事実に基づいた表現技法はSFというジャンルを確立しました。

誕生日:クリスチャン・ドップラー(1803/11/29)

1803-11-29 02:40:01 | 誕生日
1803/11/29

 ドップラーはオーストリアの物理学者で、彼の名は今でも「ドップラー効果」で有名です。これは、救急車やパトカーがサイレンを鳴らしながら走っているとき、近づいてくる場合には音が高く聞こえ、遠ざかる場合には音が低く聞こえるという現象のことです。彼はこの現象を説明する理論を1842年に発表しました。
 ドップラー効果は、音に限らず波の性質を持つものに共通する現象で、波の発生源が近づくときは波長が短くなり、遠ざかるときは波長が長く観測されます。光も波の性質を持ちますから同様の現象が起こりますが、光には伝わる媒質がないので、その原理は音の場合とはちょっと異なるものです。

 実はドップラーは、恒星の色の違いを「光のドップラー効果」で説明しようと考えていました。しかし、当時は光がドップラー効果を起こすということも証明できていませんでしたし、うまくいきませんでした。また現在では、恒星の色の違いは表面温度の違いであることがわかっていますから、ドップラーのねらいははずれていたのですが、なかなか鋭いところに目を付けていたと言えます。
 というのは、後年になって、遠くの銀河から来る光の「赤方偏移」という現象が確認されたからです。これは銀河から来る光のスペクトルが波長の長い方(赤の方)にずれて観測される現象で、光のドップラー効果によるものにほかなりません。また、エドウィン・ハッブルらによる観測の結果、遠くの銀河から来る光ほど赤色偏移によるずれが大きいことがわかりました。このことから、遠くの銀河ほど速く遠ざかっているということになり、現在の膨張宇宙モデル、さらにはビッグバン理論へとつながっていきます。「ドップラー効果」は、壮大な宇宙の姿を明らかにする重要なキーワードなのです。

2005.10.23 作成 KT

誕生日:シーボルト(1796/02/17)

1796-02-17 23:27:38 | 誕生日
 西日本の山に入ると、青黒く光る巨大なミミズが地面を這っているのを見かけることがあります。太さは1cmほど、長さは30~40cmほどにもなるこのミミズの名は「シーボルトミミズ」といいます。これはドイツ人のシーボルトにちなんで名付けられたものです。

 1796年2月17日にドイツに生まれたシーボルトは、医学や動物学、植物学を学びました。1823年にはオランダ東インド陸軍の医者として江戸時代の日本にやってきました。長崎の出島などに滞在していた6年ほどのあいだに高野長英らに医学の手ほどきをし、日本の医学の発展に貢献しました。
 シーボルトは医者として日本に来ていたのですが、珍しい日本の動植物に目を奪われたようで、様々な動植物の観察・採集・研究を行い、ヨーロッパで紹介しています。とくに日本のアジサイに関して詳しい報告をしたことも知られています。帰国時に持ち帰った数々の標本の中には巨大なミミズもあったわけです。
 さらに、日本の地理、政治、経済に関する記録も数多く持ち帰りました。ところが、国外持ち出しが禁じられていた日本の地図なども持ち帰ろうとしていたことが発覚してしまい、シーボルトは国外追放になり、協力した高橋景保らは投獄されました。この事件は「シーボルト事件」と呼ばれています。のちに国外追放は解除となり、再来日も果たしています。

2006.01.30 作成 KT