今日は何の日?

昔の今日は何があったのでしょうか?ちょっとのぞいてみましょう。

元寇襲来~「文永の役」に神風は吹いたのか?

1274-10-20 00:00:00 | 地学系
1274/10/20

1274年1月、元の皇帝フビライは日本遠征のための造船を高麗に命じました。
その数、大型船300艘、中型船300艘、給水用の小型船300艘、合わせて900艘の造船です。わずか10ヶ月でこれを造り上げ、元・高麗軍が日本に向け攻めてきました。
10月3日に高麗の合浦を発った軍勢は10月5日に対馬、14日に壱岐を襲いました。ここでは住民の多くが虐殺され、生き残った人は手のひらに穴を開けられて船の外側に鎖のようにつるされたと言われています。また、子どもばかり男女900人が高麗王に献上されたという記録もあります。
10月19日、軍勢は博多湾に集結しました。そして20日、ついに、はこ崎、赤坂、そ原、百道原、今津あたりに分散して上陸を開始しました。戦いは日本側が一方的に負けていたようです。何故かというと戦い方があまりにも違い、日本が一騎打ちを仕掛けると、元は集団で矢を射かけ、更には「てつはう」という手榴弾のようなものを使って攻撃してきました。また、弓の射程距離が、日本のものの2倍近くあったとも言われています。しかも鏃には毒が塗ってあったようです。日本の武士の戦い方が、あまりにも世界の常識から外れていたのですね。さて、その元軍は夜になると船に引き上げました。
そして次の朝、信じられない出来事が起こりました。博多湾を埋め尽くしていた元軍の船が一艘も見あたらなくなったのです。夜になって大暴風が来て多くの船が沈み、たくさんの敵が死んだからだ・・・と言う説が、長い間人々に信じられてきました。ところが、「文永の役」では嵐は起きなかったという説もあるのです。日本に残る資料「八幡愚童記」には嵐のことは一言も触れず「朝になったら敵船も敵兵もきれいさっぱり見あたらなくなり驚いた」とだけ書かれているのです。
高麗の歴史書には「夜半に大風雨にあい、多くの船が海岸の崖や岩にあたって傷んだ」と書かれているようです。この差はなんでしょう。実際、明治になるまで「文永の役」では敵が何故かいなくなり、「弘安の役」では嵐が来て助かった。と、人々は思っていたようです。「文永の役」でも「神風」が吹いたと唱えたのは明治の学者のようです。「明治」は天皇神格化に躍起になり、教育でも徹底した時代です。こうなるとその学者の「意図」もわかる気がしますね。
気候ではどうでしょう?
10月20日は、太陽暦で言うと11月4日頃のようです。だから「台風」のシーズンではないようです。しかし地元の人の話では「秋の嵐」もあるようですからどちらとも言えませんね。信ずるべきは「記録」でしょう。

参考
http://ja.wikipedia.org/wiki/元寇#.E7.A5.9E.E9.A2.A8

2005.10.11制作者NK