私たちの家庭で一般的に使用しているテレビアンテナ(長い棒に多数の短い棒が平行についた形状のもの)は通称「八木アンテナ」と呼ばれています。発信や受信のアンテナの前に波長の半分より少し短い長さの導体をおくと、その方向に指向性を増す「導波現象」を利用した超短波の受信アンテナです。八木秀次はこのアンテナの基礎理論を発明した科学者です。
1886年1月28日に大阪府で生まれ、東京帝国大学を卒業後、ドイツ留学を経て東北帝国大学工学部の教授となります。そこでアンテナの基本原理を発見しました。この原理を利用して実用化するために、同じ研究室の講師であった宇田新太郎が研究を行い、現在のアンテナの基礎が出来上がりました。当時、特許を八木の単独名で出したため、「八木アンテナ」と呼ばれていましたが、最近では「八木・宇田アンテナ」と呼ぶようになりました。
さて、このアンテナは1925年、八木が40歳の時に発明されました。しかし発表当時日本では全く注目されませんでした。しかしその3年後、ニューヨークで開かれたIRE(アメリカ無線技術者協会)の総会で発表したところ、日本とは比べ物にならない評価を受けました。やがて、第二次世界大戦で欧米諸国がこの技術を利用し、高性能なレーダーを開発していきます。1942年にはシンガポールを侵攻した日本軍がイギリス軍基地からレーダーを押収し、レーダー技師のニューマン伍長のメモの中にYAGIの記述があったが、日本軍は読み方すらわからなかったという情けない話もあります。皮肉にも八木アンテナについての知識と技術が大戦の勝敗を分けたともいわれています。
戦後、超短波を利用したテレビ放送の時代がきて、再びこの技術が注目されます。1952年には八木アンテナ株式会社が設立され、初代会長に就任。1976年の1月19日にその生涯を閉じるまで、数多くの物理学者、独創性のある人材を育成することに力を注ぎました。
1886年1月28日に大阪府で生まれ、東京帝国大学を卒業後、ドイツ留学を経て東北帝国大学工学部の教授となります。そこでアンテナの基本原理を発見しました。この原理を利用して実用化するために、同じ研究室の講師であった宇田新太郎が研究を行い、現在のアンテナの基礎が出来上がりました。当時、特許を八木の単独名で出したため、「八木アンテナ」と呼ばれていましたが、最近では「八木・宇田アンテナ」と呼ぶようになりました。
さて、このアンテナは1925年、八木が40歳の時に発明されました。しかし発表当時日本では全く注目されませんでした。しかしその3年後、ニューヨークで開かれたIRE(アメリカ無線技術者協会)の総会で発表したところ、日本とは比べ物にならない評価を受けました。やがて、第二次世界大戦で欧米諸国がこの技術を利用し、高性能なレーダーを開発していきます。1942年にはシンガポールを侵攻した日本軍がイギリス軍基地からレーダーを押収し、レーダー技師のニューマン伍長のメモの中にYAGIの記述があったが、日本軍は読み方すらわからなかったという情けない話もあります。皮肉にも八木アンテナについての知識と技術が大戦の勝敗を分けたともいわれています。
戦後、超短波を利用したテレビ放送の時代がきて、再びこの技術が注目されます。1952年には八木アンテナ株式会社が設立され、初代会長に就任。1976年の1月19日にその生涯を閉じるまで、数多くの物理学者、独創性のある人材を育成することに力を注ぎました。