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今日は何の日?

昔の今日は何があったのでしょうか?ちょっとのぞいてみましょう。

ノーベル賞制定記念日

1895-11-27 00:00:00 | 生活全般
 科学において最も権威のある賞と聞かれれば、ノーベル賞をあげる人は多いだろう。

 1863年、スウェーデンの化学者アルフレッド・バルンハート・ノーベルは、ニトログリセリンの安全な使い方の研究を始めた。ニトログリセリンは、当時使われていた黒色火薬より7倍も強い威力を持つ爆薬で、鉱山などですでに使われていた。しかし、ニトログリセリンは火をつけても爆発せず、そのくせ衝撃や摩擦で爆発してしまう。そのために事故も少なくなく、その安全な使い方が求められていた。

 研究は思うように進まず、その間にニトログリセリンの爆発事故でノーベルの弟が亡くなるという悲しい事件もあった。強力なニトログリセリンを安全に使えるようにしたい。ノーベルの強い思いは、1867年に実を結んだ。ノーベルはニトログリセリンを珪藻土に染みこませ、それを起爆装置で爆発させるという仕組みを考えついたのだ。ダイナマイトの発明である。

 ダイナマイトは、鉱山や工事現場などに広く使われ、人々の生活を豊かにしていく大きなエネルギーとなった。しかし、ダイナマイトはそのようなことだけに使われたわけではなかった。その強力な爆発力は、人殺しの道具として戦争でも多く使われてしまったのだ。ノーベルは晩年にダイナマイトが人殺しの道具として使われることに強く反対していた。しかし、それをとめることはできなかった。

 ノーベルは、自らの発明が多くの人の命を奪ってしまったことに対して、何か償いができないかと考えた。そして、一つのアイデアが生まれた。
 1895年11月27日、ノーベルは遺言を書いた。そこには、ノーベルがダイナマイトなどで手に入れた莫大な財産を基金にして、人類のために最大の貢献をした人たちに賞を与えると書かれていた。これが、ノーベル賞である。そして翌年12月、ノーベルは永遠の眠りについた。

 ノーベル賞の授賞式は、毎年ノーベルの命日である12月10日に行われている。第1回の1901年以来、日本人の受賞者は12名(2006年現在)である。

2005.10.12 TH作成 

日本の電話サービス開始(1890/12/16)

1890-12-16 00:00:00 | 生活全般
 電話の発明は1876年。アメリカのグラハム・ベルによって発明されました。声を電気信号に変えて遠くに伝えるという発明は、人と人との距離を変えてしまうほどの影響があるものでした。


 その電話が日本で使われるようになったのは、1890(明治23)年、12月16日のことでした。
 はじめ、日本の電話は東京市内と横浜市内を結んでサービスが開始されましたが、東京府庁や逓信省といった公の機関含めても含めてもたった197しか契約がありませんでした。個人で契約したのは、大隈重信や前島密といった地位の高い人ばかりだったようです。しかし、その便利さがわかるにつれて加入者が増え、2年後には7倍を超える1504まで契約数を伸ばしました。


 当時の電話は、番号を押せば相手につながるという便利な物ではありませんでした。まず、電話機についている手回し式発電機をグルグルと回して電話局の交換手を呼び出します。その交換手に「○○番につないでくれ」と言うと、交換手が相手を呼び出して、電話線をつないでくれるのです。さらに、電話が終わったときにも発電機を回して交換手を呼び出し、電話が終わったということを伝えなければなりませんでした。


 電話交換の仕組みも電話機もすっかり進歩して、いまではこのような電話のかけ方は映画の中だけの物になってしまいました。しかし、機械が自動的にやっているだけのことで、同じような作業が今でも行われているのです。


 日本での電話サービス開始を記念して、12月16日は電話の日となっています。


2005/11/24 作成 TH


日本初の火力発電所が完成(1887/11/18)

1887-11-18 14:22:02 | 生活全般
日本初の火力発電所が完成(1887/11/18)

世界ではじめに火力発電所をつくったのは,発明王のエジソンです。その時の燃料は石炭で,ニューヨーク市に電力を供給するためでした。1881年のことです。
1887年その技術が日本に導入される事になりました。
東京の南茅場町に設置された石炭を燃料とした火力発電所です。
30馬力の横置蒸気機関をもった,25kwのエジソン式直流発電機を運転するもの1台でした。日本郵船や今村銀行,東京郵便局などに,送電線を使って電気を供給したのです。電圧は210Vで,この発電所でつくる事ができる電力は白熱電球わずか1600個分だけでした。
しかし,この頃は電燈以外に電気が使われる事はなく,十分な電力量だったのです。また,この頃は,電気を電燈のみに利用していたため,発電所は電燈局と呼ばれていました。

この南茅場町の電燈局は,最初に発電を開始しましたが,名称は第二電燈局です。ほぼ同時に,5カ所の電燈局ができ上がったのですが,全ての発電所で発電する電力も白熱電燈で9600個にしか過ぎませんでした。
しかも,この頃の送電方法は現在の方法とは違いました。現在は長距離の送電を可能にするために,交流の電流を流しています。しかし当時は直流で流していたのです。大きな発電所ではなく,小さなものを複数個つくった理由の一つにはこの送電方法もあったのです。送電可能範囲はわずか数kmであったといわれています。

現在は省エネが叫ばれ,節電をするのが重要になっていますが,この頃は「電燈使用キャンペーン」のような企画もあったようです。

2005/11/18

缶詰の日:日本での缶詰の製造が始まった日(1877/10/10)

1877-10-10 10:10:10 | 生活全般
1877/10/10

 明治時代初期、アメリカ人技師によってわが国にも本格的な缶詰の製造技術が伝えられました。1877年(明治10年)10月10日に操業を始めたわが国初めての缶詰工場があったのは、東京でも横浜でもなく、現在の北海道石狩市でした。造られていたのが石狩川を遡上するサケを原料にした「サケ缶」だったということで、その場所も納得ですね。米1俵(60kg)が2円8銭だった当時、サケ缶1個の値段が1円30銭もしたそうです。

 缶詰の特徴は常温で食品を長期間保存できるということです。これを可能にしている秘訣は「密閉・加熱殺菌」という、缶詰の基本的な製造工程にあります(現在は他の製法もあります)。食品が腐敗するのは、食品に微生物が繁殖するということですが、缶詰の製造の際には加熱によって微生物が死滅しますし、密閉しているため外部から新たに微生物が入ってくることもありません。したがって、缶の中は微生物が全くいない環境となるわけですから、常温でも食品が腐敗することはないのです。

 現在使われている缶詰の缶には、おもにブリキのものとアルミニウムのものとがあり、回収・リサイクルの際には分別する必要があります。ブリキは薄い鉄板にスズをメッキしたものです。鉄だけだと、さびたり中の汁に鉄が溶け出たりするので、スズをメッキしているのです。また、微量のスズが果物の変質を抑える(人体には影響なし)という効果もあります。そのほか、アルミニウムの缶も含めて、表面や内面を樹脂などで加工しているものもあります。
 カニ缶はカニの身を紙で包んであります。カニの身は硫黄分を多く含んでいて、缶の鉄分と反応すると硫化鉄ができます。これは食べても問題はありませんが、カニの身の色が黒くなってしまって見栄えがよくありません。ですから、そうならないように紙で包んでいるのです。

 缶詰についてもっと詳しく知りたい場合は(社)日本缶詰協会へどうぞ。「資料」のところが非常に充実しています。

2005.10.03 作成 KT

太陽暦の採用(1873/01/01)

1873-01-01 23:45:21 | 生活全般
1873/01/01
今日は1月1日です。それは太陽暦だからです。太陽暦というのは一年の長さを太陽の動きによって決めるものです。
日本では、明治時代まで1月の長さを月の動きによって決める太陰暦を使っていました。
月の満ち欠けは29.5日で1周期なのでこれを12倍した354日が1年となります。 日本のように、四季のある地域だと、季節とのズレが大きくなってしまい、実用的ではなくなってしまいます。
1872年(明治5年)「今般太陰暦ヲ廃シ太陽暦御頒行相成候ニ付来ル十二月三日ヲ以テ明治六年一月一日ト被定候事」とされ、それまでの太陰暦(天保暦)に変わり太陽暦が採用されることとなったのです。つまりこの年は12月3日でおしまいだったということになります。

玉川上水完成(1653/11/16)

1653-11-16 00:00:05 | 生活全般
1653/11/16

1603年に徳川家康は江戸幕府を開きました。徳川幕府の勢力は強大なものになり,参勤交代制度などの関係で,全国に二百数十名いた大名は江戸に邸宅を構えざるを得なくなりました。幕府の家臣も江戸に移住する事になり,それに目を付けた商人の移住など,江戸の人口は爆発的に増加する事になったのです。

人口増加は様々な問題を引き起こします。深刻なのは水問題です。
当時の江戸での水事情は,わき水やため池,近くの小さな河川で賄っていました。当時の技術では台地の方では井戸を掘る事もできず,海岸沿いでは塩分が混じり,抜本的な水不足対策が必要になったのです。
そこで徳川家光(3代将軍)は江戸近郊をまわり,適当な川を探しました。その結果選ばれたのが多摩川です,
4代目の家綱のとき,松平伊豆守を水道奉行とし,上水道の工事に手を付け始めました。
多摩側沿岸に住んでいて水利にくわしかった,住人庄右衛門・清右衛門の2兄弟に工事を依頼する事に決定しました。
工事費は7500両。羽村から四谷大木戸まで43kmにも及ぶ水路の掘削工事の始まりです。その場所は水が非常に浸透しやすい地質でしたし,7500両とはいえ工事の規模にしてみると十分な額とはいえず,大きな障害となりました。

43kmはなれていますが高低差はわずか100m。今のような精密な計測機器がなかった時代にこのような精密な作業しなければいけなかったのですから相当な苦労があったのだろうと想像できます。
この兄弟は東西の稜線を通す事で,南北両方に分水できるように設計し,江戸の水を賄ったのです。
この工事に江戸幕府は大変満足し,兄弟の功績を認め「玉川」姓を名乗る事を認めました。さらに水元役として帯刀も許可したのです。

江戸の大人口を支えてきた玉川上水も1901(明治34)年に停止されましたが,再び通水され,現在も導水路として利用されています。

2005/10/23 HA作成