今日は何の日?

昔の今日は何があったのでしょうか?ちょっとのぞいてみましょう。

アイザック・ニュートン生誕(1643/1/4)

1643-01-04 23:08:26 | 誕生日
アイザック・ニュートンは、イギリス、リンカーシャー地方のウールスソープという村で農民の家庭に生まれました。当時イギリスで使用されていた旧暦(ユリウス暦)でいうと、ニュートンが生誕したのは1642年の12月25日です。これを新暦(グレゴリオ暦)に換算すると1643年1月4日になります。
 ニュートンは、父アイザック・ニュートン(父も同名)の子として、比較的裕福な農家に生まれました。しかし、生まれた当時は父が既に死んでおり、さらに未熟児として生まれたため、育つかどうか危ぶまれました。それでも、母親の懸命な努力で丈夫に育ちます。
 ニュートンはわずか3歳になったころから、母方の祖母の家へ里子にだされます。母親がニュートンの養育費を確保するために30歳以上年上の裕福な司祭と再婚するためという理由でした。猜疑心が強く、怒りっぽいなど、人と交わりにくいニュートンの性格は、愛情に飢えた幼少時代を過ごしたことからきているとも言われています。
 1661年、ニュートンはケンブリッジ大学のトリニティーカレッジに入学します。大学3年生のころから本格的に独学で勉強し始め、数学では当時のトップクラスの研究も理解できるほどまでになります。1665年1月に大学を卒業しましが、ちょうどこのころ、イギリスではペストが大流行し、その年の6月から1年半、故郷のリンカーシャーに帰省しました。この1年半にニュートンは、万有引力の法則をはじめ、運動の法則、微分積分法、光と色の理論をまとめました。「リンゴの木を見ていて、万有引力を思いついた」という逸話は、この頃のことです。
 その後、教員となり大学に戻ったニュートンは、才能が認められ、ルーカス数学教授(ケンブリッジ大学の数学教授の称号)に就任します。1672年には、ロンドンの王立協会(今で言うところの学会)の会員に選出され、自らの光学の理論を発表しようとしますが、これをきっかけにして、ロバート・フックと対立します。この対立関係はフックがなくなるまで続きました。ニュートンは微分積分法もライプニッツとは別に発見していますが、どちらが発見したかについて、ライプニッツとも論争をしています。
ニュートンは、ハリーの資金協力などもあり、1687年に「プリンキピア」を刊行しました。これはフックに対抗して実績を示すためであったとも言われています。フックの死後、ニュートンは王立協会の会長となりました。
 彼が残したニュートン力学は、海王星や冥王星の発見をもたらしただけでなく、その後の科学界に大きな影響を与え、近代科学技術の発展に貢献しています。