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今日は何の日?

昔の今日は何があったのでしょうか?ちょっとのぞいてみましょう。

余部鉄橋で列車転落事故(1986/12/28)

1986-12-28 11:57:52 | 交通
1986/12/28

兵庫県北部の日本海側,香住町にJR山陰線が走っています。そこは非常に険しい渓谷になっていて,開通させるには,色々な技術的な問題がありました。渓谷を通すために余部鉄橋というものを建設する事になりました。
橋の長さは310.59m,高さ41.45m,橋脚が11基もある巨大なものです。建設当時はアジアで最大,現在でも日本最大の綱トレッスル鉄橋です。

海岸線ですから潮風による腐食を考えて鉄筋コンクリート橋や築堤でという提案もありましたが,当時の工事費概算で鉄橋が33万,鉄筋コンクリート橋46万,築堤で70万ということで,鉄橋になったのです。明治42年12月に着工し,明治45年3月に開通しました。のべ25万人の労働力で完成させられた大事業でした。
山陰本線の中では最大の難工事で,この鉄橋の完成が事実上の山陰本線の開通ともいわれました。

しかし,このような立地条件ですから,なかなか定時運行は厳しいものでした。一定の風速(25m/s)で列車の運転を見合わせるという,安全運行のための規制を行なっていたのです。

ところが1986年,12月28日午後,回送中のお座敷列車「みやび」の客車7両が低気圧通過に伴う突風で転落してしまったのです。しかも真下にあったカニ缶詰加工工場を直撃すると言う最悪のシナリオになってしまいました。工場の5人と車掌の合計6名が亡くなり,6人が重傷を負ったのです。
この時期は,旧国鉄からJRへの移行時期で,様々な人為的なミスがあったのではないかと考えられています。風速が規定値以上であるという警報装置は稼働していた事が確認されています。

この事故後は,風対策を強化する事になり,現在は風速20m/s以上で鉄橋を渡る電車を停止させています。その結果,現在では年間300本以上が運行中止となっているのです。風速規制はその70%が12月から3月に集中しており,冬期間の影響が著しくなっています。

現在,定時運行のために,様々な改善策が考えられていますが,余部鉄橋自体が建設後90年以上経過していて非常に老朽化している事などから,新しい鉄橋をつけるという方向で進んでいるところです。

超音速旅客機コンコルド就航(1976/01/21)

1976-01-21 00:00:00 | 交通
1976/01/21

 ライト兄弟が初めて有人の動力機付き飛行機の飛行に成功したのは1903年のことでした。その100年後の2003年、科学技術の推移を集めて開発された飛行機が27年間の仕事を終えて引退しました。

 その飛行機の名前は超音速旅客機コンコルドです。英仏が共同開発、特徴ある三角翼を持ち、高度約1万8000メートルを速度マッハ2で飛ぶことができました。ロンドン・パリからニューヨークをわずか約3時間45分で結びました。コンコルドが商業飛行を開始したのは1976年1月21日です。英国航空(BA)とエアーフランス(AF)が同時に就航しました。1977年にはBAとAFのコンコルド2機が同時刻にそろってニューヨークに到着するというイベントもありました。日本にも4回きています。

 しかし、技術の推移を集めたコンコルドも時代の流れに乗ることができませんでした。燃料費、機体の保守などの採算が合わなかったのです。騒音の問題もありました。2000年7月にはAFのコンコルドが墜落事故を起こし、BAとAFは1年以上もコンコルドを運航できなくました。911米国同時多発テロによって、航空業界が大打撃を受けると、ついにAFは2003年5月、BAは同年10月にコンコルドの運航を終了したのです。

 2003年10月24日、ロンドンのヒースロー空港では20万人を超える人が大空を見つめていました。コンコルドが着陸し、コクピットからイギリスの国旗が降られると歓声が沸き上がりました。そして、超音速旅客機コンコルドは27年間の仕事を終え、大空からその姿を消したのです。

2005.10.01 作成 MK

北陸トンネル内列車火災(1972/11/6)

1972-11-06 00:00:00 | 交通
1972/11/6

1972年11月6日午前1時9分、北陸トンネル内を走行中の大阪発青森行き急行列車「きだぐに」の、食堂車床下より火災が発生し、死者30名、負傷者714名を出す大惨事が起きました。

全長13Km余りの長大トンネルの中で列車は停車、乗務員は火災車両の切り離し作業に取りかかりました。しかし、激しい火の勢いと暗闇の中で作業は難航し、ついには架線が溶けて停電になり、列車は身動きできなくなりました。トンネル内での火災は、酸素量の少ない状態での燃焼により、一酸化炭素が多く発生します。この事故の救出活動でも、乗客や救助隊員は一酸化炭素中毒の危惧との闘いでした。

この事故は国鉄に大きな衝撃を与え、列車の不燃化やトンネルの安全性を徹底的に見直す契機になりました。当時の国鉄の運転保安規定では、列車走行中に緊急事態が発生したときは、直ちに停止することとありましたが、実際に車両を燃やして実験すると、トンネル内火災時は停止せずにそのまま走行し、トンネルを脱出する方が安全であることが確かめられました。これにより、運転マニュアルは書きかえられました。
現在青函トンネル途中2ヶ所に設置された、消火設備や脱出路を設けた「定点」という施設も、この事故の教訓から生まれたものなのです。

2005.10.12 作成 KS

ホンダが世界に先駆けて低公害エンジンを開発(1972/10/11)

1972-10-11 00:00:00 | 交通
1972/10/11

 1970年、アメリカでひとつの法案が制定されました。その法案とは通称マスキー法と言われるもので、アメリカの民主党のマスキー上院議員が提案した大気清浄法でした。この法律は1975年からガソリン自動車が排出する一酸化炭素、炭化水素、窒素酸化物を当時の排出量の10分の1までに削減するという厳しい内容でした。そして、そのような自動車を実現するのは非常に難しいと考えられました。実際、この法案によって、当時の米国の有名なスポーツカーが法律をクリアすることができず姿を消すことになりました。日本でも同じ法律が施行され、国産のスポーツカーが姿を消していきました。

 この厳しいマスキー法を世界で先駆けてクリアしたのは本田技研工業でした。ホンダは1969年に自社が販売している自動車に欠陥が見つかり、経営的に非常に厳しい状況にありましたが、F1レース参戦の経験で得た技術を駆使し、マスキー法をクリアする低公害エンジンの開発に取り組みました。

 ホンダの創始者であり当時の社長でもあった本田宗一郎は空冷エンジンでの実現に拘りましたが、空冷エンジンでマスキー法をクリアするのには無理がありました。若手の技術陣は水冷エンジンの採用を主張しましたが、本田宗一郎は頑として首を縦に振りませんでした。技術陣は副社長の藤澤武夫に直談判し、藤澤武夫が本田宗一郎を説得し、水冷エンジンを採用することになりました。

 技術陣の努力はついに実を結び、ホンダは1972年10月11日に世界に先駆けてマスキー法をクリアすることができる「CVCCエンジン」を発表しました。

2005.10.05 作成 MK

世界初の超音速旅客機ツポレフ144飛行(1968年12月31日)

1968-12-31 09:36:09 | 交通
1968年12月31日

1960年代,アメリカ,ヨーロッパ,ソ連の間で,激しい超音速旅客機の開発競争が繰り広げられていました。
イギリスとフランスで「コンコルド」,アメリカではボーイング社とロッキード社がそれぞれ,そしてソ連はツポレフが開発を進めていたのです。
いずれの機体もデルタ翼で不思議なほど,似たスタイルをしていました。
激しい開発競争があったのですが,ニーズはそれほど見込めてはいませんでした。超音速旅客機が飛行する高度が高いため,オゾン層が破壊される問題,音速の壁を突破する時の衝撃波の影響,空港周辺域での猛烈な騒音などが十分に予測されていた事が大きな理由の一つです。また,機体には制限が出ますから,定員と燃料費のバランスで,運賃が高騰する事も明確でしたのでなおさらです。

このような壁を乗り越えてまで開発競争を進めるには,国の威信をかけたという面があるのです。その当時持っていた技術力を世界に誇示する必要があったと考えられています。

1968年12月31日,ついにソ連の超音速旅客機ツポレフTu-144が38分間の初飛行に成功しました。しのぎを削っていた英仏のコンコルドは1969年の2月と出遅れてしまったのです。
しかも,ソ連のツポレフTu144は,速さ,定員,飛行高度ともにコンコルドを上回っていました。

その後,Tu-144は大幅な改良をして生産型のTu-144Sという型になりました。さらに大型化され,エンジンも推進力を増しました。機体にも軽量で耐腐食,耐熱性の強いチタン合金を大量に用いました。
初飛行は1971年7月1日に行なわれました。しかし,1973年のパリ航空ショーで,観客の目の前で空中分解し墜落するという大事故を起こしました。様々な原因がささやかれましたが乗員6名,地元住民7名が巻き添えになったのです。
結局,Tu-144は14機製造されるにとどまり,旅客便はわずか102便のみの運行で終わってしまいました。

開発競争ではソ連のツポレフが勝利した訳ですが,超音速旅客機としては,途中で開発を中断したアメリカの勝利ともいえるような結論ではないでしょうか。

2005/11/23 Ha作成

東海道新幹線開業(1964/10/01)

1964-10-01 00:00:01 | 交通
1964/10/01

 1964年(昭和39年)の今日、東京-新大阪を結ぶ東海道新幹線が開業しました。

 1950年代、東海道線本線は日本でもっとも重要な路線でしたが、その輸送能力は限界に達しており、輸送力を増強する必要に迫られていました。

 1957年に国鉄に新幹線調査会が設けられ、当時の国鉄総裁・十河信二と国鉄技師長・島秀雄は東京と大阪に超高速列車を走らせる計画を立案しました。十河信二と島秀雄は新幹線計画を実行に移すべく尽力し、1958年に新幹線建設計画が承認されました。

 1959年4月に静岡県の新丹那トンネルで起工式が行われ、1964年に開催される東京オリンピックに間に合わせるべく建設が急ピッチで進められました。総工費は3800億円もかかりました。

 東海道新幹線は1963年に試験運転を行われました。当時の列車の最高速度の世界記録255Km/hを超える時速256Km/hを記録しました。翌1964年10月1日に営業を開始、東京オリンピック開催のわずか10日前のことでした。

 新幹線の建設工事は1959年の起工式からわずか5年で完了しました。最初の年は安全性を考慮して180Km/hで運転を行い、ひかり号は東京-新大阪を4時間で結びました。翌年には210Km/hで3時間10分となりました。1985年以降は車体の開発も進み、速度が向上していきました。現在、最も速いのぞみ号は東京-新大阪間を2時間30分で結んでいます。

2005.09.29 作成 MK
2005.10.01 修正 MK 1965/11/01にリンク

東海道本線全線電化完成(1956/11/19)

1956-11-19 00:00:00 | 交通
1956/11/19

 「もはや戦後ではない」という言葉が経済白書に書かれた年のこの日、国鉄(現在のJR)東海道本線のうちの米原~京都間の電化が完成し、東京から神戸までの全線が電化されました。これによって東海道本線では、それまで列車の牽引に利用されてきた蒸気機関車が電気機関車へと変わりました。当時、東京~大阪間を結んでいた特急「つばめ」や「はと」の客車を牽引する機関車は、蒸気機関車として狭軌最高時速を記録したC62形から電気機関車のEF58形に変わったのです。これによって、東京~大阪間の最短の所要時間は、8時間から7時間半に短縮されました。
 その後、1958(昭和33)年、東海道本線には電車を利用した初めての特急である「こだま」が登場し、東京~大阪間を6時間50分で結びました。昭和初期には、電車は乗り心地が悪く長距離を乗るものではなく、特急に使うものでもないとみなされていましたが、技術の向上でその見方が大きく変わったのです。こうして、幹線を中心として鉄道線の電化は全国に広がっていきました。また、この時採用された客車のそれぞれに駆動部を積む動力分散方式は、機関車が客車を牽引する方式よりも、速度を引き上げられる利点があり、その後電車や気動車で広く採用されるようになりました。1964(昭和39)年10月1日に開業した東海道新幹線はこれらの成果を生かし、技術を高めたものと言えるでしょう。

2005.11.03 作成 YK

関門国道トンネル開通(1953/03/09)

1953-03-09 19:23:11 | 交通
 本州と九州とは「関門海峡」で隔てられています。本州側の山口県下関市の「関」と、九州側の福岡県北九州市の門司の「門」からのネーミングです。この海峡は最も狭いところでは約600mです。現在、ここにはトンネルと橋が通じています。
 トンネルは3本あります。鉄道の在来線のトンネル(関門鉄道トンネル)と新幹線のトンネル(新関門トンネル)、そして車が通るトンネル(関門国道トンネル)です。このうち最も早く完成したのが関門鉄道トンネルで、1942年のことでした。その次に関門国道トンネルが開通しました。1953年3月9日のことでした。1939年に本格着工されていたものの、戦争の影響で一時頓挫したこともあって、完成には長い年月がかかったのでした。
 関門国道トンネルの長さは3461mで、最も深い所で海面下56mにあります。また、一部は2層構造になっていて、車道の下に人が歩いて通れる「人道」があるのです。人道の長さは780mで、出入り口は車道のとはまったく別の所にあり、エレベーターで昇降して出入りします。人道がある海底トンネルは世界でも他にないのではないかと言われています。
 トンネル内には毎日4800トンもの海水がしみ出してきているそうで、17台の排水ポンプで絶えずくみ出しています。

 ちなみに、新関門トンネルの開通は1975年で、その少し前の1973年に関門橋(高速道路)が開通しています。

2006.03.07 作成 KT

民間航空記念日

1951-10-25 00:00:49 | 交通
1951/10/25

1951(昭和26)年、戦後最初の国内民間航空会社として日本航空輸送が設立されました。
8月20日にスチュワーデスの1期生が入社し訓練を開始しました。7日後にはDC3金星号で披露招待飛行を実施しました。

10月11日にNorthwestと委託運行契約を締結した日本航空が,戦後初の国内の民間営業飛行として10月25日に離陸しましたのです。それがマーチン202もく星号です。

11月1日には東京ー札幌に1往復,東京ー大阪間に3往復,東京ー大阪ー福岡に1往復の正規運行を開始しました。
この時,日本航空にはマーチン202が3機,DC4が1機ありました。

戦後間もないこの頃は,日本の航空事情は全くどうなるのかわからない状態でした。しかし,当時の人たちの努力によって,翌年12月1日には日本ヘリコプター(現 全日本空輸)が旗揚げされ,その後,東亜国内航空が旗揚げされたのです。

プロペラ機だった飛行機がジェット化されどんどん高速化し,航空網もすっかり充実した今日,航空機なしの移動や輸送は日本国内でも考えられなくなってきています。

2005.10.10 HA作成