1912/03/23
第二次世界大戦の終わりごろに、イギリスやベルギーなどを攻撃したV2ロケットを開発し、戦後はアメリカに移ってロケット開発をリードした、ヴェルナー・フォン・ブラウンは、この日当時のドイツ東部(現在はポーランド)で生まれました。
ブラウンは、ロケット開発のさきがけであるオーベルトの著作に感銘し、高校時代には苦手だった物理や数学に打ち込んで得意科目するなどして、熱心にロケット開発への夢に踏み出しました。
大学では、オーベルトの実験を手伝いながら経験をつみ、大学院に進んでから見出され、当時のドイツ陸軍でロケット兵器の開発に携わっていたドルンベルガーのもとで研究をすることになりました。
そのころ、第二次世界大戦の戦況は、ドイツにとって厳しいものとなりつつありました。そのため、ドイツでは戦況を打開するための新兵器として、ロケットを用いて敵国を爆撃する計画を進めたのです。このとき、ブラウンは技術者の中で中心的な役割を果たしました。
そして、1944年にV2ロケットが完成し、ドイツからイギリスとベルギーなどの敵国に向けて数千発の爆弾を積んだロケットが打ち上げられたのです。V2ロケットを迎え撃つことは当時の兵器では不可能でしたが、V2ロケットの技術そのものの熟度が低く、戦況を大きく変えるほどのインパクトはありませんでした。
そして、ブラウン自身も、平和的な宇宙開発の将来を語った発言が原因となって、ナチスの親衛隊とゲシュタポに逮捕されてしまいました。
このときは、ドルンベルガーの強い説得のおかげで釈放されましたが、身の危険を感じたブラウンは、研究チームを率いてアメリカに投降し、ロケットの部品も提供したのです。
アメリカに移ったブラウンは、平和目的の宇宙開発を訴え、ディズニー社の宇宙探検に関するテレビ映画の技術監督に参加したり、NASAでロケット開発を続けました。
ドイツとアメリカで軍事目的のロケット開発に携わったブラウンですが、本人の本当の願いは平和的な宇宙開発だったといえるでしょう。その経歴にはさまざまな評価がありますが、時代に翻弄されながらも若いころからの夢に向かって歩み続けた生き方には感銘を受ける人も多いでしょう。
2006/04/02 作成 YK
第二次世界大戦の終わりごろに、イギリスやベルギーなどを攻撃したV2ロケットを開発し、戦後はアメリカに移ってロケット開発をリードした、ヴェルナー・フォン・ブラウンは、この日当時のドイツ東部(現在はポーランド)で生まれました。
ブラウンは、ロケット開発のさきがけであるオーベルトの著作に感銘し、高校時代には苦手だった物理や数学に打ち込んで得意科目するなどして、熱心にロケット開発への夢に踏み出しました。
大学では、オーベルトの実験を手伝いながら経験をつみ、大学院に進んでから見出され、当時のドイツ陸軍でロケット兵器の開発に携わっていたドルンベルガーのもとで研究をすることになりました。
そのころ、第二次世界大戦の戦況は、ドイツにとって厳しいものとなりつつありました。そのため、ドイツでは戦況を打開するための新兵器として、ロケットを用いて敵国を爆撃する計画を進めたのです。このとき、ブラウンは技術者の中で中心的な役割を果たしました。
そして、1944年にV2ロケットが完成し、ドイツからイギリスとベルギーなどの敵国に向けて数千発の爆弾を積んだロケットが打ち上げられたのです。V2ロケットを迎え撃つことは当時の兵器では不可能でしたが、V2ロケットの技術そのものの熟度が低く、戦況を大きく変えるほどのインパクトはありませんでした。
そして、ブラウン自身も、平和的な宇宙開発の将来を語った発言が原因となって、ナチスの親衛隊とゲシュタポに逮捕されてしまいました。
このときは、ドルンベルガーの強い説得のおかげで釈放されましたが、身の危険を感じたブラウンは、研究チームを率いてアメリカに投降し、ロケットの部品も提供したのです。
アメリカに移ったブラウンは、平和目的の宇宙開発を訴え、ディズニー社の宇宙探検に関するテレビ映画の技術監督に参加したり、NASAでロケット開発を続けました。
ドイツとアメリカで軍事目的のロケット開発に携わったブラウンですが、本人の本当の願いは平和的な宇宙開発だったといえるでしょう。その経歴にはさまざまな評価がありますが、時代に翻弄されながらも若いころからの夢に向かって歩み続けた生き方には感銘を受ける人も多いでしょう。
2006/04/02 作成 YK