今日は何の日?

昔の今日は何があったのでしょうか?ちょっとのぞいてみましょう。

高速増殖炉「もんじゅ」でナトリウム漏えい事故発生(1995/12/08)

1995-12-08 00:00:00 | 物理系
1995/12/08

 「もんじゅ」は、動力炉核燃料開発事業団(動燃、現在は日本原子力研究開発機構)が福井県敦賀市に設置した高速増殖炉です。

 高速増殖炉は、原子力発電所でウランを燃焼させた後に発生するプルトニウムを燃焼に用います。そして、エネルギーを生み出す際、消費するプルトニウムより多いプルトニウムを生産出来るため「夢の原子炉」と言われていました。現在、日本、ロシア、フランスなどで、技術開発が進められています。
 しかし、原子炉の冷却材として用いられる金属ナトリウムは、水と極めて激しく反応する性質を持つことから、その管理が難しいという技術的な課題があることや、通常の原子炉よりも建設に費用がかかることなどから、開発を取りやめる国が相次いでいます。

 この事故は、もんじゅの運転を開始するため、高速増殖炉の出力を上昇していたところ、原子炉の二次冷却系のナトリウムが漏れたことを知らせる警報があり、職員が現場を確認したところ、ナトリウムが漏れたことに伴い火災が起こり、白い煙が立ちこめていることがわかりました。
 その後、火災が発生した場合には高速増殖炉を直ちに停止することがマニュアルに定められているにも関わらず、徐々に出力を降下させて停止させようとしたことから、火災はさらに大きくなり、結局高速増殖炉を緊急停止することで、火災を沈静化させました。
 そして、その後の調査で事故原因が明らかになる中で、運転員の訓練不足とマニュアルの不備が指摘されました。

 また、この時のもんじゅの設置者である動燃が、事故の説明の際に、現場を撮影したビデオを編集した上で公表しましたが、その後、マスコミの指摘を受けて編集前のビデオを公開し、さらに後日、事故直後に撮影した現場のビデオが別にあることを発表しました。このように事故後の状況説明が二転三転したために、地域の住民や行政に不安を抱きました。

 事故そのものは、二次冷却系での事故であったので放射能の漏れはほとんどなく、アメリカのスリーマイル島原子力発電所や旧ソ連のチェルノブイリ原子力発電所での事故のような、原子炉の炉心が融けてしまう事故に比べれば、軽微な事故と言えます。
 しかし、事故時の高速増殖炉に対する対応と事故後の状況説明などの対応が不適切であったことから、結果として、もんじゅだけではなく原子力全般への不信を招きました。

 日本では、この事故以来、高速増殖炉開発は中断されたままでしたが、2005年2月6日、福井県知事は、それまで留保していた「もんじゅ」の改造工事を了承しました。今後の動向を見守りたいところです。

2005/11/24 作成 YK

スーパーカミオカンデ完成式典(1995/11/11)

1995-11-11 02:01:34 | 物理系
1995/11/11

 2002年、小柴昌俊さんがノーベル物理学賞を受賞しました。宇宙から来る「ニュートリノ」という粒子の検出に対する業績が評価されたもので、このニュートリノの観測をした施設が、岐阜県飛騨市神岡町にある「カミオカンデ」でした。この施設は、直径16m、深さ16mのタンクに3000トンの純水を満たしたもので、何となくプールのようなものです。カミオカンデは1983年から使用されていましたが、さらに大規模な観測をするための後継施設として、直径40m、深さ41.4mの「スーパーカミオカンデ」の建設が計画されました。そして1995年の11月11日、50000トンの純水を満たす前の空のタンクの底でその完成式典が行われたのでした。その後、注水や調整などがあり、実際に観測を開始したのは翌年の4月からでした。

 カミオカンデもスーパーカミオカンデも、小柴さんがニュートリノの検出・観測のために構想を立てたものでした。「ニュートリノ」というのは、原子核のβ崩壊の際に放出されるとして発見された粒子で、いまでは核融合やいろんな素粒子反応、陽子崩壊の際にも放出されることがわかっています。物質を透過する性質が非常に強く、地球をも簡単に通り抜けてしまいます。したがって検出するのは大変困難なのですが、まれに水分子と衝突することがあり、その影響でわずかな光が出ます。この光をとらえるセンサーがカミオカンデのタンクの内壁に1000本、スーパーカミオカンデには11146本ついています。施設は地下1000mという深さにあるのですが、この場所であれば他の宇宙線は届かず、非常に透過力の強いニュートリノの影響だけを検出できるのです。

 1987年2月23日に大マゼラン星雲(銀河。日本からは見えないが南半球からは見える。)で超新星が出現しました。カミオカンデはこの超新星爆発に伴って放出されたニュートリノの観測に成功しました。このときのニュートリノは地球の裏側からやって来て、カミオカンデの水槽を下から上に通って行ったものでした。
 また、太陽活動によって放出されるニュートリノの観測にも成功するなどして、ニュートリノを手がかりとして宇宙の様子を知ることができるようになりました。小柴さんはこれらの業績によってノーベル賞を受賞したのですが、実は当初の目的は違うところにありました。

 素粒子の間に相互的にはたらく力に関する「大統一理論」によれば、原子核にある陽子には寿命があって、寿命を迎えた陽子は崩壊し、その際にニュートリノを放出するということになっています。このことを確かめるべく、陽子源として大量の水を用意して観測し、寿命を迎えた陽子から放出されたニュートリノをとらえようということを小柴さんは考えていました。成功すれば、陽子の寿命の長さを決めることにもつながります。しかし、カミオカンデではこの陽子崩壊に伴うニュートリノは検出できませんでした。それで、もっと大規模な装置で観測しようということでスーパーカミオカンデがつくられたのです。スーパーカミオカンデでもまだ陽子崩壊は観測されていませんが、別の観測結果からニュートリノが質量を持つことがわかりました。

 ニュートリノが質量を持つということは、ニュートリノがダーク・マターの候補になりうるという点でも意味のあることです。
 銀河の運動を解析したとき、われわれに見えているだけの物質の質量で計算すると、銀河がバラバラになってしまうという結果が出ます。しかし実際の観測結果ではそうはなっていません。これを説明するためには、重力源としてわれわれに見えているよりもはるかに大きな質量(10倍ほどと見積もられている)の存在が必要となります。われわれには見えないけれど存在するであろうこの物質を「ダーク・マター(暗黒物質)」といいます。宇宙にはニュートリノが非常に多く存在することがわかっているので、ニュートリノに質量があるということで、これがダークマターの正体なのではないかと注目を浴びているのですが、まだよくわかっていないようです。

 なお、今後はさらに大規模な「ハイパーカミオカンデ」の建設が予定されています。

2005.10.20 作成 KT

「宇宙戦艦ヤマト」テレビ放映開始(1974/10/06)

1974-10-06 00:00:00 | 物理系
1974/10/06

 時に西暦2199年、地球はガミラス星から遊星爆弾の攻撃を受け、人類は放射能汚染による滅亡の危機にさらされていた。そのような中、地球から遙か14万8千光年彼方にあるイスカンダル星から、放射能除去装置コスモクリーナーDを提供するので取りに来るようにという救いのメッセージが届けられる。

 人類に残された時間はわずか1年間、人類の科学では往復29万6千光年の旅を1年間で成し遂げるのは不可能である。しかし、イスカンダルからはメッセージと一緒にワープ航法が可能となる波動エンジンの設計図が届いていた。

 人類はその設計図をもとに、九州沖に沈んでいた旧日本海軍の戦艦大和を改造、戦艦大和は約250年の時を経て宇宙戦艦ヤマトとして生まれ変わる。沖田十三艦長が率いるヤマトはガミラス星人の攻撃を受けながら幾多の苦難を乗り越えて任務を遂行、西暦2200年、ついに人類はもとの青い地球を取り戻したのである。

 この壮大なストーリーを持つSFアニメ、松本零士原作の宇宙戦艦ヤマトのテレビ放映が始まったのが1974年の今日でした。戦艦大和が宇宙に繰り出すという斬新なアイデア、ワープ航法・波動エンジンといったSF的な単語が当時の子どもたちの心をつかみました。スターウォーズが公開されたのが1977年ですから当時としてはそれまでにはない本格的なSFアニメ番組だったのです。物理学的に考えれば間違った設定もたくさんありましたが、宇宙戦艦ヤマトを見てアインシュタインや相対性理論を知った子どもたちもたくさんいたでしょう。

 子どもたちは毎週番組の最後に流れる「地球滅亡まであと○日」というカウントダウンを見てハラハラしながら、宇宙戦艦ヤマトの放映を楽しみにしていたのです。

2005.09.30 作成 MK

原子力の日(1964/10/26)

1964-10-26 00:00:00 | 物理系
1964/10/26

 日本が、1956年10月26日に、原子力の平和利用や安全確保の役割を担うIAEA(国際原子力機関)憲章に調印したことや、1963年10月26日に、茨城県東海村に設置された日本原子力研究所(現在は日本原子力研究開発機構)の動力試験炉が日本で初めて原子力による発電が行われたことにちなみ、1964年、閣議で10月26日を「原子力の日」と定めました。

 日本では、1966年に初めての商業用の原子力発電所(原発)が運転を始めて以来、全国で原発が作られ、高度成長期に大きく伸びた電力需要をまかなってきました。2002年現在、原子力で発電した電力量は、日本で1年間に発電される電力量の3割を超えています。
 原子力発電は、核燃料のウランに中性子を吸収させ、ウランが2つの原子に核分裂する時に発生する熱を利用し、水を加熱して高圧の蒸気を発生させ、発電機を動かして電気を起こすものです。原発で発電をするときには、温室効果ガスである二酸化炭素が発生しないので、地球温暖化の課題にメリットがあると言えます。

 しかし、核分裂に伴い発生した放射能が何らかのトラブルで原子炉の外に漏れる事故がしばしば起きており、その安全管理の問題が取り上げられています。また、核分裂が適切にコントロールできずに連鎖反応が急激に進んで暴走すると、大きな事故につながります。(1979年のスリーマイル島原発事故(アメリカ)、1986年のチェルノブイリ原発事故(旧ソ連))このような大事故では、原発の周辺が大量の放射能で汚染され、住民の健康被害が長く続いています。
 また、原発で発電してできる放射性廃棄物は、長い期間放射能を出し続けるために、環境に影響がなくなるまで放射能が外に漏れないよう厳重に保管しなくてはなりません。(特に長いもの(高レベル放射性廃棄物)で1,000万年以上と言われます。)このため、安全に保管する方法が、今なお研究され続けています。
 さらに、原子力発電の燃料であるウランもこれから地球で採れる年数は石油とほぼ同じ数十年程度と言われており、その使用後の核燃料の再利用をすることが課題となっています。これについても現在研究が進んでいますが、技術的な困難が多くアメリカのように研究をやめた国もあります。

 日本で初めて原子力の火が灯ってから40年余りが過ぎましたが、日本ではこれからも現在の原子力発電所を長く使いつつ、さらに必要な原子力発電所をの作っていくという方針です。
 しかし、平和利用することで有益となる夢のエネルギーとして期待された原子力も様々な課題が明らかになっています。今後、一人一人が様々な利点や欠点を見極めながら、これからの原子力の利用のあり方を考えていくことが必要でしょう。

2005/10/10 YK作成

初の日米間テレビ宇宙中継受信実験(1963/11/23)

1963-11-23 00:00:00 | 物理系
1963/11/23

 東京オリンピック(昭和39年)の開催を前にした昭和35年、世界で初めてとなるオリンピック生中継の計画が日本でスタートしました。
 しかしながら、この頃はまだ海を越えた大陸間でのテレビ中継の技術はまだ確立していませんでした。
 昭和36年、アメリカのケネディ大統領は通信衛星を打ち上げて、遠く離れたアメリカとヨーロッパの間で電波を送受信する計画を発表しました。この計画では、日本は技術力が不足しているという理由で実験の対象から外されていました。
 東京オリンピックの生中継を成功させるためには、アメリカに日本の技術を認めさせる必要がありました。日本の技術者たちは独自に通信衛星から電波を送受信するためのアンテナの開発に着手しました。衛星からの電波はわずか10兆分の1ワットの強さでした。アメリカで点灯した電球の熱を日本で感じるぐらい難しいものだったのです。
 幾多の困難を乗り越えて、昭和38年11月についに通信基地ができあがりました。直径20mもあるパラボナアンテナ(カセグレンアンテナ)を備えていました。アメリカは日本の実験への参加を認めました。
 そして、昭和38年の今日、アメリカと日本との間で衛星中継の実験が行われました。衛星中継成功を祝うケネディ大統領のメッセージが日本に届けられる予定でした。実験が始まると、間もなくモニタに映像が映し出されました。衛星中継の実験は成功しました。ところが、肝心のケネディ大統領の映像が流れてきません。やがて、送られてきた映像は「ケネディ大統領暗殺」という衝撃的なニュースだったのです。このニュースはニューヨークにいた日本人特派員が日本語で伝えてきました。

2005.11.11 作成 MK

第五福竜丸被曝(1954/03/01)

1954-03-01 00:00:00 | 物理系
 核兵器による被曝といえば、1945年8月6日の広島と、1945年8月9日の長崎が真っ先に思い浮かぶだろうと思います。しかし、それだけではありません。広島・長崎から9年後の1954(昭和29)年3月1日に、日本の漁船がアメリカの水素爆弾(水爆)実験によって被曝するという事件が起こっています。被曝したのは、マグロ漁船第五福竜丸。そのため、この事件は第五福竜丸事件と呼ばれています。

 1954年(昭和29)3月1日午前3時42分、アメリカは南太平洋にあるビキニ環礁で水素爆弾の実験を行いました。このときに使われた水爆の威力は、広島の原子爆弾と比べて1000倍の規模と言われています。この爆発によって、大量の放射性物質が空気中にばらまかれ、そして広い範囲に降っていきました。このように降ってくる放射性物質を、死の灰といいます。

 まだ夜が明けない中で、この実験の光は遠く160km離れた海にいた第五福竜丸からもはっきりとわかりました。そして、7~8分遅れて爆音が聞こえ、3~4時間後には死の灰が第五福竜丸に降ってきました。それから数時間にわたって、第五福竜丸の乗組員は、体中に死の灰を浴び、呼吸をする度に死の灰を吸い込んでしまったのです。

 頭痛、吐き気、目まい、下痢、大量の抜け毛。様々な症状に苦しみながら、2週間後の3月14日に第五福竜丸は焼津に戻りました。23人の乗組員全員が急性放射能症と診断され、東大病院などでの治療を受けましたが、放射線を大量に浴びてしまった場合、未だにこれと言った治療法はありません。半年後の9月23日には、残念ながら久保山愛吉さんが亡くなっていますし、他の方も後遺症に苦しみながら生活を余儀なくされました。

 第五福竜丸が獲ってきたマグロなどは、見た目に変わったところもなかったので、セリにかけられるところでした。しかし、放射線を調べるガイガーカウンターで調べてみると大量の放射線が検出されました。見た目では全くわからないのですが、確実に汚染されていたのです。

 汚染されていたのは、第五福竜丸の魚だけではありませんでした。同じ海域で漁をしていた他の漁船の魚も汚染されていました。その後もアメリカが水爆実験を続けたこともあり、汚染によって廃棄しなければならなかったマグロなどは約48万6000tにも達しました。これらのマグロは原爆マグロと呼ばれ、日本中に強い衝撃を与えました。

 この事件をきっかけに、日本では原水爆禁止を求める大きな運動が起こり、翌年の8月には広島で第1回原水爆禁止世界大会が開催されています。

 悲劇の舞台となった第五福竜丸は、その後も放射能を除去してから使われましたが、今は東京の第五福竜丸展示館で保存されています。

2006/03/28 作成 TH

世界初のコンピュータ(?)ENIAC完成。(1946/02/15)

1946-02-15 00:00:00 | 物理系
 あなたがこのページを見ているのは、パソコンからでしょうか? そのパソコンの元祖と言うべきものの1つが、アメリカのペンシルベニア大学でつくられたENIACです。
 1939年にはじまった第二次世界大戦は戦線を拡大し、1941年にはアメリカも参戦することになりました。当時の有力な兵器の一つに、大砲がありました。しかし、大砲でねらい通りの目標を攻撃するのは、とても難しいことでした。同じ量の火薬を使っても、気温、湿度、風向、風速などに砲弾の飛距離は大きく左右されるのです。そのため、それらの条件をふまえた上で、どのくらいの火薬の量でどのくらい砲弾を飛ばせるのかという一覧表を用意し、それを見て火薬の量を調節していたのです。これを、弾道表と言います。
 弾道表をつくるためには、急いで計算しても1ヶ月程度の時間がかかりました。戦場が変わって新しい条件が必要になったときや、新しい大砲をすぐに使いたいと言うときに、この1ヶ月は非常に長い時間です。軍はこれを何とかして短縮したいと考えていました。そこに、モークリーとエッカートが真空管を使った電子式計算機を考えていることが伝わり、彼らに計算機をつくらせることになりました。これが、ENIACです。
 ENIACは17,468本の真空管を使って計算を行います。この真空管の1つでも壊れてしまえば、その時点でENIACはストップします。使われた真空管の平均寿命は2000時間程度ものだったそうですが、真空管の数が多いので計算上は6分に1度真空管が壊れることになります。その真空管を何とか長持ちさせるために、エッカートは様々な工夫を凝らし、なんとか長時間動作するようにしました。
 完成したENIACは総重量は30t。高さ2.5m、奥行き0.9m、幅24m。というとても大きなものでした。ENIAC専用の部屋が用意され、そこはとても空調が行き届いていました。なぜなら、ENIACの消費電力は140KWにもなり、発生する熱によって真空管が安定動作しなくなってしまうからです。
 そのENIACが最初に行った計算は、弾道表づくりのための弾道計算ではありませんでした。完成が遅すぎたのです。1945年に試運転されたENIACに課せられた計算は、水素爆弾についてのものでした。もしも、それまで1ヶ月間かかっていた弾道計算を行ったとしたら、ENIACはたった半日で計算できたと考えらえています。
 そして、1946年2月15日。ペンシルベニア大学でENIACの完成式が行われました。ENIACは世界初のコンピュータとして世界に知られることになりました。それから60年以上が経ち、私たちの生活の至る所にコンピュータが使われています。あなたのポケットに入っている携帯電話の方が、30tもあるENIACよりも遙かに高性能です。凄まじいスピードで進歩したコンピュータは、今後も進歩を続けるでしょう。

※ ENIACの特許を巡って1967年に起こされた裁判の判決(1973年)によって、世界初のコンピュータではないとされています。この裁判で、世界初のコンピュータはアイオワ州立大学のABC(1942年)であるとされています。また、ENIAC以前には、ABC以外にもイギリスのColossus(1943年)があったことがわかっています。しかし、ABCは連立方程式を解くための専用コンピュータであり、Colossusもドイツ軍の暗号を解くための専用コンピュータでした。私たちが使っている汎用コンピュータの元祖は、やはりENIACであると言えるでしょう。


2006/01/03 作成 TH

中性子発見の論文、ネイチャー誌に掲載される(1932/02/27)

1932-02-27 00:00:00 | 物理系
1932/02/27

 イギリスの物理学者であるジェームズ・チャドウィックは、中性子を発見したとする内容の論文をネイチャー誌に投稿し、この日に掲載されました。

 中性子とは、陽子とともに原子核を形作る粒子のことです。世の中にあるものは、すべて原子という目に見えない小さなつぶでできています。そして、原子は、陽子と中性子が集まってできている原子核の回りを、マイナスの電荷を持つ電子が、太陽のまわりを回る地球や金星、火星などの星のように回っているという形を持っています。

 現在知られているこの原子のモデルを示したラザフォードは、原子核がプラスの電荷を持つ粒子(陽子)が集まってできていることを明らかにしました。そして、これらの粒子が同じプラスの電荷を持つのに反発しあわず集まっていられるためには、1個の質量が陽子とほぼ等しく電気的に中性な(プラスでもマイナスでもない)粒子が陽子の数と同じだけ原子核になくてはならないと予言しました。この予言された粒子が中性子でした。しかし、中性子は電子と異なり電荷を持たないことから、見つけることは簡単ではありませんでした。
 ドイツのボーテとベッカーによって、放射線の一つであるアルファ線(陽子2個と中性子2個からなるヘリウムの原子核の流れ)をベリリウム(原子番号4、陽子4個、中性子4個、電子4個できている。)に当てると、これまでには発見されなかった物質を通り抜ける性質が極めて強い放射線(ベリリウム線)が出ることが発見されました。
 そのときは、この放射線はガンマ線(電磁波の一種)と考えられましたが、その後のフランスのジュリオ・キュリー夫妻(キュリー夫人の娘夫妻)の研究で、ガンマ線では理論的に矛盾が生じることが指摘されました。

 そして、中性子の存在を予言したラザフォードの弟子であるチャドウィックは、ベリリウム線を当てた物質から飛び出す粒子が電荷を持つことに着目して、ベリリウム線を様々な物質にあて、ベリリウム線によって、その物質からたたき出された原子核の数を計測していきました。その結果から、ベリリウム線が陽子1個と同じ質量を持ち電気的に中性である粒子からできていることを明らかにしました。実は、ボーテらが発見したベリリウム線は、中性子でできた放射線だったのです。
 こうして、ラザフォードの予言から12年たった1932年に中性子の存在が明らかになったのです。

 中性子は、自然界には単独では存在しませんが、核分裂を起こすと発生します。中性子でできている放射線は、電気的に中性であるため、ものを通り抜けるときも陽子や電子に引っ張られて曲がることがないので、その他の放射線に比べて様々なものを通り抜けやすい性質を持っています。このため、原子力発電所では、核分裂でできた中性子が外に出ないように、中性子を遮りやすい水や中性子を吸収する物質を用いて防護しています。

2006/01/29 作成 YK


世界最強(当時)の磁石「KS鋼」に特許がおりる。(1918/02/22)

1918-02-22 00:00:00 | 物理系
1918/02/22

 東北帝国大学(現在の東北大学)の本多光太郎は、鉄にコバルト、クロム、タングステンを加えて作った合金が、当時それまで最も強いとされていた、タングステン鋼(鉄にタングステンを加えて作った合金)の3倍以上の磁力を持つことを見出し、この合金をKS鋼と名づけ、特許を得ました。

 磁石は、昔、方位を示すものとして使われ初めましたが、今では、鉄などの金属を吸い寄せる性質や発電をする上で欠かせないものであることから、様々な機械機器で使われています。

 本多がKS鋼を発明した当時、すでに磁石は発電機の部品など、産業における重要な素材として利用され始めていましたが、その多くは海外からの輸入でまかなわれていました。しかし、第一次世界大戦が起こると、海外からの磁石の輸入ができなくなってしまい、日本は国内で磁石を作らなくてはならなくなりました。
 本多はこのようなの中で、軍事用の発電機のための磁石開発を請け負い、強力な磁石を作り出すための研究を進めました。

 本多は、東北帝国大学で研究を始める前に、様々な元素の磁力についての性質を調べ、元素の磁性が周期律に対応した変化をすることを明らかにしていました。本多は、このような違う元素の間にも磁性についての規則があるという見方を生かしながら、研究を進めていきました。
 しかし、強い磁力を持つ磁石を見つけるきっかけは半ば偶然のものでした。ある時、本多の研究室の研究員が、研究室の工場の工員から、成分はわからないがきわめて硬い鋼の工具があり重宝している、という話を聞きました。それを聞いた研究員は、工員に頼んでその鋼を分けてもらい、試しに磁力に影響がある金属を混ぜて合金にして磁力を調べました。すると、その合金がこれまでには見られない大きな磁力を持つことがわかったのです。
 その報告を受けた本多はとても驚きましたが、それまで得ていた磁力についての知見を生かしながらその理由を突き止めていくことで、研究が大きく進んだと言われています。

 日本では、その後三島徳七によるKS鋼を上回る磁力を持つ鋼(MK鋼)の発明、さらに、MK鋼を上回る本多による新KS鋼の発明が続き、KS鋼の出現から20年余り日本で発明された磁石が世界最強であり続けたのです。

 KS鋼の名前である「KS」とは、この磁石が住友吉左衛門(当時の住友家の当主)の寄付によって研究が進み完成したことから彼のイニシャルを用いたものです。

2006/01/29 作成 YK

ミリカン、電子の電荷を測定(1909/10/23)

1909-10-23 00:00:00 | 物理系
1909/10/23

電荷とは、電子や陽子等が持っている電気の量で、負の電荷と正の電荷があります。電子(または陽子)1個が持っている電荷の大きさのことを素電荷、または電気素量といい、電気量の最小単位です。

アメリカの物理学者、ロバート・ミリカンは1909年、この電気素量を初めて正確に測定し、10月23日プリンストン大学で開かれたアメリカ物理学会で報告しました。そのときの彼の測定値は、1.592×10^-19 クーロンで、現在の値である、約
1.60217733×10^-19 クローンに非常に近い値でした。この電気素量の測定により、アボガドロ数の値や電子の質量等、現代物理学における重要な定数を算出する基礎となったのです。

彼の実験方法は、次のようなものでした。上部に帯電した金属板を置いた箱をつくり、中の空気にX線を照射して空気を電離しイオン化させます。上から油滴を落とすと、イオンが油滴にくっついて上部の強力な帯電に引きつけられるので、落下速度を鈍らせます。落下速度を数多く測定し、統計的に見て速度変化が最も小さいものが、電子1個付着の油滴であると考えたのでした。こうして、彼は重力と上部へ引かれる電気力とから、電子1個の電荷を計算しました。
電荷の測定には、いろいろな人がいろいろな方法で試みていました。しかしミリカンは、水滴でなく蒸発しにくい油滴を用いたことで、誤差を少なくし、正確な電気量が得られたといわれています。

ミリカンはこの計測と光電効果の研究により、1923年にノーベル物理学賞を受賞しました。また、宇宙から来る放射線を調べ、これを「宇宙線」と命名しました。

2005.10.9 作成 KS