1859/11/24
進化論といって、誰もが思い浮かべるのがダーウィン。彼がそれまでの研究を集大成した「種の起源」という本は、1859年11月24日に出版され、当時のベストセラーになりました。
裕福な医師の家系に生まれたチャールズ・ダーウィンは、エディンバラ大学医学部に進学しましたが、医学が嫌になり、ケンブリッジ大学神学部に転学します。しかしそこで彼は博物学に興味を持ちました。イギリスの軍艦ビーグル号に研究員として参加したダーウィンは、海外の動植物や地質学的調査を行いました。そして、このとき着想した進化論を、彼は20年間も研究し続けました。そんなある日、若い学者ウォレスから、一通の手紙が届きました。それはなんと、彼が20年間研究してきた進化論とほぼ同じ内容だったそうです。結局彼は急いで論文を書き上げ、1858年ウォレスと一緒に論文を発表しました。
ビーグル号の航海でガラパゴス諸島にやってきたとき、彼はフィンチの変種が島のあちこちの特定地域で繁殖しているのを見て、進化論のアイデアを生みだしました。たとえば、くちばしの長いフィンチは、短いものより上手にサボテンの種を取って食べます。このように、生きていく上で便利な特徴を持ったフィンチは、エサの少ない島でも生き残ることができます。そうして、何世代にもわたって暮らすうちに、その場所で暮らすのに一番便利な姿に変っていったのだと考えたのです。
ダーウィンは「種の起源」で、自然選択、生存競争、適者生存などの要因によって、常に環境に適応するように種が分岐し、多様な種が生じると説明しました。そしてその学説は自然科学上の生物のことに限定しました。しかし世の中は、ダーウィンの学説を人間社会の現象に当てはめようという動きが生まれ、進化論は社会思想として勝手に一人歩きを始めたのです。これは後の全体主義や民族主義、そしてナチスの登場にまでつながったのです。
2005.10.11 作成 KS
進化論といって、誰もが思い浮かべるのがダーウィン。彼がそれまでの研究を集大成した「種の起源」という本は、1859年11月24日に出版され、当時のベストセラーになりました。
裕福な医師の家系に生まれたチャールズ・ダーウィンは、エディンバラ大学医学部に進学しましたが、医学が嫌になり、ケンブリッジ大学神学部に転学します。しかしそこで彼は博物学に興味を持ちました。イギリスの軍艦ビーグル号に研究員として参加したダーウィンは、海外の動植物や地質学的調査を行いました。そして、このとき着想した進化論を、彼は20年間も研究し続けました。そんなある日、若い学者ウォレスから、一通の手紙が届きました。それはなんと、彼が20年間研究してきた進化論とほぼ同じ内容だったそうです。結局彼は急いで論文を書き上げ、1858年ウォレスと一緒に論文を発表しました。
ビーグル号の航海でガラパゴス諸島にやってきたとき、彼はフィンチの変種が島のあちこちの特定地域で繁殖しているのを見て、進化論のアイデアを生みだしました。たとえば、くちばしの長いフィンチは、短いものより上手にサボテンの種を取って食べます。このように、生きていく上で便利な特徴を持ったフィンチは、エサの少ない島でも生き残ることができます。そうして、何世代にもわたって暮らすうちに、その場所で暮らすのに一番便利な姿に変っていったのだと考えたのです。
ダーウィンは「種の起源」で、自然選択、生存競争、適者生存などの要因によって、常に環境に適応するように種が分岐し、多様な種が生じると説明しました。そしてその学説は自然科学上の生物のことに限定しました。しかし世の中は、ダーウィンの学説を人間社会の現象に当てはめようという動きが生まれ、進化論は社会思想として勝手に一人歩きを始めたのです。これは後の全体主義や民族主義、そしてナチスの登場にまでつながったのです。
2005.10.11 作成 KS